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車いすユーザーに感謝の気持ちは必要か

線維筋痛症で車いすに乗り、外の世界へ行くようになって、一年経った。車いす生活にも慣れてきた頃に、ある車いすユーザーのニュースが流れてきた。

ニュースの見出しだけ眺めていたとき、これを機に車いすユーザーのことを知ってもらえば…と思ったいたのだが、よく読むとなんだか違う。なんか、車いすの問題というより、別の問題がある気がしてならない。本人のブログも読んで見たが、なんとも言えないものがある。

せっかくだし今回は、ひとりの車いすユーザーとして問題の件について触れてようと思う。



・車いすユーザーの電車利用の現状、私の場合

私が車いすで外出する際は、事前に行く場所をネットで調べ、連絡が必要な時はメールもしくは電話をする。母が車いすを押してくれるので、ルート上に急な坂道がないかもチェックし、線維筋痛症の症状でつらくなった時にカフェとかで休憩できるエリアも確認しておく。場合によっては、タクシーを使うこともある。また、混雑する時間帯はできるだけ利用を避ける。

そして、電車に乗る際は、ネットで駅や目的の場所に降りたい駅の出口の方にエレベーターがあるかないか、検索する。電車に乗るときは、駅員さんに「○○行きの電車に乗りたいですが、大丈夫でしょうか?」と窓口で訪ねてから、駅員さん側が対応できる電車に乗車する。何かあったら嫌なので、確実に乗りたい電車の20分前に、駅に集合しなきゃいけない。自力で歩ける頃は、乗りたい時に自由に乗れたのが、今は駅員さんの助けがないと乗れないので、こればかりは仕方がないと思っている。

ほんとうなら、駅員さんの助けもいらずにふつうに乗れればいい。しかし、それは夢の世界でしかなく、現実は駅員さんの助けがなきゃ、私たち車いすユーザーは電車に乗れないし、降りられない。電車に乗るもしくは降りるという行為だけで、私たち車いすユーザーはひとの助けが必要なのだ。



・感謝の気持ちはコミュニケーションとして必要

だから私は、いつも乗車の手助けをしてくださる窓口の駅員さんや案内役の駅員さんに、「ありがとうございます」と、体調に余裕があるときには、なるべく言うようにしている。それは駅だけではなく、街にあるカフェの店員さんとかが個別に対応してくれた時とかも、「ありがとうございます」と、忘れずに言えるよう、心がけている。車いすユーザーになると、周りの人たちの手助けがどうしても必要となってしまう。たとえ、業務上のマニュアルに書いてあることでも、素直に「ありがとうございます」と、誰からの強制でもなく、心から感謝の気持ちを相手に伝えたいのだ。

しかし、今回の件では、あることに触れていた。車いすユーザーが駅を利用する度に、感謝の気持ちを表すことに対して、本人が問題提起をしていた。

歩いている人たちが、毎回電車を利用するたびに、「駅員さん、ありがとうございます」と思っていても、それを言葉でわざわざ言うことはないように、障害のある私も同じ状況になるといいなと願っています。
引用:JRの合理的配慮をへ改善を求める補足 - 本人のブログより

たしかに、SF映画みたいな近未来の世界でなら可能かもしれないが、現実はそうじゃない。いまの世界で本人の言葉通りに皆がしてしまうと、殺伐とした世界へなるだろう。そこで、感謝の気持ちを表すことがなくなれば、助け合う社会なんて、簡単に崩れていくだろう。感謝の気持ちを表さないだけでそうなるのか、と思う方がいるかもしれない。けれど、お互いに助け合って、感謝の気持ちを表す社会だからこそ、また困っている人を助けようと、私たち人間は思えるのだ。しかし、その連鎖を止める必要性は、いまの世界であるのだろうか。少なくとも、私にはその必要性を感じない。

さて、ここで想像してみよう。誰もが見て見ぬ振りをし、困っていても放置する世界。そういう世界では、いじめも増え、他者との関わりも減り、誰かのために行動するのが馬鹿らしくなっていく。そんな世の中になってしまったら、私たち車いすユーザーはますます不便になり、今より街へ行くのが困難になるだろう。

そんな殺伐とした世界になって欲しくない。私はお互いが助け合える社会であるためにも、誰かに助けられたら、なるべく感謝の言葉を伝えている。そして、困っている誰かを助けることができるのなら、なるべく助けたい。

ほんとうは、車いすの人たちがどこか出掛けるのにも、手助けがなくてもいい世界になればいいが、さっきも言ったとおり、残念ながらSF映画のような近未来の技術はない。だがしかし、もし自分が助ける側だったら…ifの世界でなら、想像できるはず。これからも私は、感謝の気持ちでも何でも、善いと感じることをしていきたい。



・駅がバリアフリー化されていればよかったのに…

今回の乗車拒否…いや、対応不可ような案件は、駅がバリアフリーな建物になっていれば、お互いに嫌な思いをせずに済んだだろう。しかし、降りたかった駅は、対応ができない駅の構造だった。私だったらその時点で諦めて、別の方法を探してしまうが、本人が諦めたくないのもすごくわかる。

____もっと対応してくれたっていいのに、と。

でも、駅員さんにも事情がある。駅がバリアフリー未対応なのは、駅員さんのせいではない。それに、車いすを持ち上げるのも、端から見たら双方にとって危険な行為にしか見えない。そして、車いす対応するためにその都度、双方にとって危険を犯してまで重い車いすを持ち上げるのは、本当にいいのだろうか。

また、ブログなどで、わざわざ渡された電話番号を載せたりしているところが、怖く感じる。安易にネット上で番号を載せてしまうと、電話で抗議しやすい状況になる。おそらく、既に抗議の電話をしている人たちもいるだろう。抗議の電話は、2019年のあいトレで問題になった手段であり、それを知っていて誘導するようなことをしていたのなら、声を上げるやり方として、いかがなものかと、私は思う。

もし、今回の駅がバリアフリー化されていたら、こんな問題は起きなかったはず。そういう意味で声を上げるのは大切だが、目的のために手段を選ばないようなやり方はよくない。果たして、それはいいのだろうか。

抗議をするのにしても、何かしらの社会運動に参加するにしても、私たちは一度立ち止まって考えなければならない。まずは、考えることが何よりも大事であって、行動はあとからついてくるものである。


・さいごに

こんなことを書くと、誤解されそうなので一応書くが、私はさまざまな場所でのバリアフリー化を何よりも望んでいるし、もっと車いすで気軽に出掛けられればいいなと、いつも思っている。障害もしくは病気だからといって社会に参加しづらい世の中は、誰にとってもよくないと考えている。

だが今回は、そうじゃない部分が問題になった気がしてならない。誰かが困っていても見て見ぬ振りをし、殺伐とした世界へ向かうよりも、強制的ではない、心からの「ありがとうございます」で溢れている社会のがいい。でも、世の中にはどこか攻撃的が姿勢を求める人たちが存在し、殺伐とした世界へ向かっている。もはや、今回の件は、バリアフリーの問題というより、コミュニケーションなどの問題が目立ってしまった。また、これらの問題は、いまの様々なところで起きている問題にも、繋がっていく。


___私たちは、いつから、このようになってしまったのだろうか。





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