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私の曖昧な性自認 - 女性という言葉に違和感を感じて、たどり着いた場所

私は女性だけど、女性ではない。

もし、あなたが相手の性別を尋ねたときに、このような答えが返ってきたら、どう思うだろうか。少なくとも、私だったら困惑する。どのように対応すべきなのか、こんな答えを聞いてしまったから以上、女性という言葉をこの人の前では使わないほうがいいのかな。どうしたらいいのかわからない、と。

しかしながら、いまの私は自分の性について、そう考えている。

身体は女性。もちろん、公的な書類にも、性別欄に女性としっかり書かれている。だが、自己認識での性は、女性ではない。かといって、別にトランスジェンダーではない。男性になりたいわけでもない。中性になりたいわけでもない。以前も性自認について記事を書いたことがあるが、そのときも女性だが女性ではない宇宙人だとか言ってごまかしていた。まだ、言葉で上手く伝えきれるほどまで、性について考えていなかった。

だけど、その時でも今でも、私の性自認は女性ではない。それだけ。でもそれだけでは、相手に伝わりづらい。わかりづらい。なんだか私の性は、ぼやけてしまっているようだ。

せっかくだし、このぼやけた私の性自認について語ってみよう。女性ではないなら、私は一体何者だろうか。



1.とりあえず、考えてみよう

さて、私は女性だけど女性ではない。ふむふむ。それなら、考えられるひとつの案として、これは当てはまるのではないだろうか。身体の性は女性だけど、自己認識としての性は女性ではないなら、Xジェンダーが一番近いのではないか。

それは、たしかに的確なアドバイスかもしれない。だが、こんなことがあった。実は一時期、自分の性をXジェンダーだと名乗っていた時がある。しかし、名乗ったところで、その性の名前には違和感しかなかった。女性ではないからといって、Xジェンダーになりたい訳ではないからだ。Xジェンダーと名乗ってみてわかったことがひとつある。それは、特定の名前のついたものでいたいわけではない、ということだ。

無性を意味する”Aジェンダー”というXジェンダーの一種の言葉が、私の性に近いとここ数年ずっと思っていた。けれど、どこかしっくりこないのは、無性という意味であっても、新たにAジェンダーという別の名前がついてしまう時点で、無ではないと思うからだ。だから、Aジェンダーがカチっと私に当てはまらないのだろう。それと同様に、定まってない意味を持つクエスチョニングも、名前がついてしまう時点で、私には当てはまらないのだ。

しかしこうやって、自分の性について考えだすと、迷子になる。私はなんだろう。どこにいるのだろう。何故、私はこんなにも女性じゃないと強く感じているのだろう。


2.女の子から女へ

ここで、私が女の子だった頃まで時間を遡ってみる。女の子時代、よくいろんな一人称を使って楽しんでいた。最近タンスの奥から出てきた小学生の頃のプリントなどに、「ボク」と「僕」から「アタイ」また「あたし」まで、さまざまな一人称を使って、学校に提出する文章を書いていた。女の子なら、一人称が自由自在でいられる。何よりも、性自認についてそんなに深く考えていなくても、大丈夫な気がしていた。

だが、大抵の場合、順調に身体が成長すると、思春期に女性は身体が全体的に丸くなり、胸が膨らみだす。初めて胸にブラジャーをしたとき、女の一歩を踏み出したと感じた。私はそれが恥ずかしくて仕方がなかった。こんな下着を胸の膨らみのために毎日着なきゃいけないのか。幸いにも、私の胸はそこまで膨らむことはなく、胸の形で気に病むまでに至らなかった。コンパクトな胸で本当によかった、あの頃もそして今でもすごく感じている。

思春期の頃に劇的な体格の変化が訪れなかったからか、なんとなく女性の端っこにいればいいのかなと思っていた。女の子は、まだどこかぼやっとしてても大丈夫だからいいけれど、大人なれば女にならなきゃいけない気がして怖い。女にはなりたくない。けど、大人になれば、女になるしか選択肢がないし。仕方がないけど、現実を受け入れるしかない。ちょうど女子高生と周囲に思われていた頃、そんなふうに性自認についてゆるく考えていた気がする。


3. 女であることへの拒絶

けれど、考えが甘かった。いざ、世の中で女扱いされると、違和感しかない。「これからは、大人の女性だね!」と、周りの女性に言われても、全く嬉しくない。

私は女なの?なぜ?なぜ?
私のどこが女なの?

自分への問いが止まらない。女の子が終わり、大人の女性になる瞬間。ふと、女という言葉が脳内に埋め尽くされる。

嫌だ。これは私じゃない。
やっぱり、女になりたくなかったんだ。

女扱いをされてから、自分の性についての認識が、身体の性別と合ってないことにやっと気付く。女性の端っこでいいやと思っていたのに、いざ女になれば端っこでも違和感しかない。でも、身体も見た目も声も、身分証に書かれている性別も、私は女だ。私は女にならなきゃいけないのだろうか。

女になると、男性に対して距離を取らなきゃいけなくなる。距離を縮めれば、恋愛関係と思われてしまうからだ。でも、私はそういうのを気にせずに、異性だろうとなんだろうと、誰にでも同じように接してしまう。昔はひとに安易に「好き」と言ってしまって、人間関係をよく壊してしまっていた。男性とは身体の仕組みが違うのをなんとなく知っていても、それだからって異なる性別だからって、コミュニケーションにおいて、そこまで他者から認知されている性を気にしなきゃいけないのか、わからなかったからだ。

私の中に、女がズカズカ入ってくる。でも、全力で女を拒絶している。身体は女でよくても、自己認識の性としては、女でいたくない。女性視点で物事を考えることなら、なんとなくできるけど、私の女性視点は女性なのだろうか。女を拒絶しているのに、女として物事を語っていいのだろうか。そんなふうに悩んでいる時点で、私は女性だけど女性じゃないのかもしれない。


4.女じゃなくても、その他じゃなくても

ここまで来ると、「女性だけど女性じゃない」が私の自己認識としての性の認識でいいんじゃないかと思えてきた。けれど、世の中に性別の話をする際に「女性だけど女性ではない」では通用しない。

例えば、性別欄。チェックする項目欄に、女性か男性かその他がある。私の場合、それが女性なのか、その他なのか。ハッキリと決めるのが難しい。身体の性を問われているものなら「女性」に丸をつけるが、そうじゃないときはどうするべきか。「その他」に丸をつけても、それはそれで何か違う。けど、その時にこっちかなと思うほうに丸をつけてしまうと、性別欄がずっとあやふやで曖昧な人間となってしまう。

何を根拠に女性だと思うのか。そう問い続けると、出口なんて見つからない。

身体の性が女性だから?
公的な書類に女性だと書かれているから?
女性として、周りに認識されているから?

ほんとうは、ハッキリとした答えなんてないんじゃないか。あらゆる事柄について、白か黒かハッキリと決められるものなんてとても少なく、曖昧なものが殆ど。だからこそ、人間は些細なことで悩んでしまうし、私の自己認識においての性は、女性であって女性ではないと感じているのかもしれない。


5.私とあなたの「女性」

では、相手にどのように受け止めてほしいのか。自分の性を他者にどう捉えられようが、それを私が勝手に決めることができない。どう受け止めているかなんて、心の中を覗くことなんか出来ないし、わからないからだ。敢えて言うならお好きなように受け止めてほしい。もっと具体的に説明すると、例えば、他人が思う「女性」と、私の「女性」は違う。どんなに思想などが似たもの同士でも、「女性」という言葉のイメージは違うし、どういうのが「女性」なのかなんて、常に変わるからだ。

そもそも、女性とは一体なんなのか。女性じゃなくても、男性でも何でも、言葉に抱く印象はひとりひとり違う、常に変化していく。

ほんとうは、他人の背景にどんなものがあるかわからない。たとえ、いくら同じ性で、同じような思想で、同じような境遇であろうと、他人がどう考えているかなんてわからない。それでも、この世界で生きている以上、他者と関わらずに生きることはできない。

だからこそ、私は考え続ける。今回は、私の性について考えてみたが、結局ハッキリしていない。いったい何なのか。依然として、わからないまま。

だが、女性という言葉の印象も、常に変化するからこそ、女性も本当は曖昧なのだ。「女性だけど女性ではない」という曖昧なものが、私の自己認識においての性の位置。この位置も、また変わるのだろう。人間は常に変化していく。そうやって、私もまた変わるのだ。私もあなたも良くも悪くも変わり続けて、この世界を生きている。



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