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初夏、気持ち重ねて
入院してから、2週間以上が経った。
窓辺から見える公孫樹は、前回の入院のときは黄色だったけれど、今は青葉を茂らせている。さわさわと風に吹かれる木々は、きらきらとスパンコールのように身を震わせているのだが、その様子が美しく、目に焼きつけている。
さて、入院前日に心配していた、「体重が増えること」も、「食事に向き合うこと」もしっかりと味わっている。
治療を喩えるならば、暗い川にひきずられていく感覚、だろうか。
窓を見やれば、空は筆先をぼかした青色に染まっているのに、後ろを振り返れば、すぐそこまで闇が迫って来ていて、足を動かすことができない。息が詰まりそうになる。助けて、ともがいてみるも、その声は霧に吸収されて届かない。
怖くて食べることを諦めてしまいたくなるけれど、それを許しては、治療の意味がない。腕には1日3500カロリーを24時間投与する点滴。目の前に用意される、変わり映えのない病院食。
そう、逃げ場はないのだ。
その事実を飲み込んでは、ほうとため息をつく。
それに、2週間以上経っても、狭い病棟内から出られていない。病室にずっといるのも飽きてしまうから、病室からそっと出てみる。
病棟は、昼間なのに暗めで、なぜか薄桃色の照明がつけられている。ぐるぐるとナースステーションの周りを、点滴をひきながら歩く。点滴の遮光袋がオレンジ色に透けて、その輪郭を際立たせている。
周囲からは、どのように見えているのだろう。痩せた身体を引きずっている患者? その痩せた身体も、治療が後半になるにつれて、丸みを帯びてなくなってゆく。良いことなはずなのに、寂しい。手放したくない、と思うのは病気によるものなのか、自分の本心なのか。
治りたい気持ちと、治りたくない気持ち。ゆらゆら揺れる灯火のなかで、私は治療に向き合っている。
摂食障害はよく、お化けに喩えられる。
透明なお化け(病気)が心の中に侵食してきて、私を操ろうとしてくるのは日常茶飯事である。それは冬の木枯らしにも似ている。
戸を開けたら、びゅうと風が入ってきてしまうので、それを防ごうと戸や窓を厳重に閉めるのだけれど、隙間風が漏れてしまうように。するりとお化け(病気)が入ってきてしまう。
すると、食に関する「混乱パーティー」が始まる。
口にした食べ物に対して、「本当に食べてもいいの?」と声がささやいてくる。食後の罪悪感。
カロリー換算されない副菜を食べようとすると、(ご飯と主菜のみカロリー計算とチェックが入るのだ)「食べるのって無駄じゃない?」と、声がして、途中で箸を止めてしまう。
食事が提供される1時間ほど前から、そわそわと緊張する。
「おいしい」と、何も考えずに食べたいだけなのに……。
あまりの怖さにくじけそうになるけれど、この入院で自宅治療の何十倍も効果が見込める。(前回の入院のときも、同じ治療をしたはずなのだが、するすると病気の克服に失敗し、再入院になってしまった)
そういえば、病棟にいる同じ年頃の女の子に、同じ病かな? と思って話しかけたのだが、「そういうのは良いので」と、会話を断られてしまった。
彼女にも、葛藤する気持ちがあるのかもしれない。病気の勢いが強くて、余裕がなかったのかなあ、なんて思いをはせてみる。
「治りたい」。
それは教会に捧げる、透明で晴れやかな祈りに似ているようにも思う。白い指先をつたう雨が、やさしいものと思えるように。
皆様、どうかご自愛ください。
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