初夏、気持ち重ねて
食事の量や食べ方など、食事に関連した行動の異常が続き、体重や体型のとらえ方などを中心に、心と体の両方に影響が及ぶ病気をまとめて摂食障害と呼ぶ。食事量やカロリーを制限したり、体重増加への恐怖、強いやせ願望に、ボディイメージについて認知の歪みが生じたりする。(※1)
私は大学3年生の冬頃から摂食障害にかかり、現在までずっと治療をしている。一時期は、体重が27キロまで落ちてしまい、一度目の入院を経験した。そして、今年も体重が30キロを切ってしまい、再入院をすることになった。
さて、治療は、枯れた花の茎のごとく、ぽっきりと心が折れるものだ。摂食障害は、「体重を増加」させて、身体の機能(脳や内臓の栄養状態)を向上させることを目的とするのであるが、当事者は病気の影響で、「体重増加」に対し、身が千切れるほど嫌悪感を抱く。医師と治療を一緒に目指していこう、という一つの目標に向かって治療を淡々と進めていく、ということが難しい。だからこそ、治療する当事者は常に葛藤をはらむ。その葛藤を繰り返して、繭が糸にほどけてゆくように、治療者は完治を目指してゆく。
入院して2週間が経った頃。私は、窓辺でパソコン作業をしていた。
窓辺から見える公孫樹は、前回の入院のときは黄色だったけれど、今は青葉を茂らせている。さわさわと風に吹かれる木々は、きらきらとスパンコールのように身を震わせていた。その様子が美しく思われ、思わず目を細める。
まだ朝の9時半だというのに、数時間後に運ばれてくる昼食を考えて、頭がぐわんと混ぜられる感覚を抱く。食べることが怖いのだ。ぴいんとした緊張感がずっと漂う。「体重が増えること」も、「食事をすること」にしっかりと向き合わざるを得ない入院。
治療を喩えるならば、暗い川にひきずられていく感覚、だろうか。
窓を見やれば、空は筆先をぼかした青色に染まっているのに、後ろを振り返れば、すぐそこまで闇が迫って来ていて、足を動かすことができない。息が詰まりそうになる。助けて、ともがいてみるも、その声は霧に吸収されて届かない。
私が行う治療は、食事療法だけでなく、腕にカテーテルを挿入し、その中心静脈に一日3000カロリーのある輸液を24時間投与するというものだ。そのため、1キロほどの点滴をずっと持ち運び、つなげている。カロリーが自動的に送られてくるから、プラスして食事を摂ると、さらにカロリーアップすることになる。怖くて食べることを諦めてしまいたくなるけれど、それを許しては、治療の意味がない。
そう、逃げ場はないのだ。その事実を飲み込んでは、ほうとため息をつく。
それに、2週間以上経っても、狭い病棟内から出られていない。身体と体重が安定するまで、行動制限が課せられるのである。病室にずっといるのも飽きてしまうから、病室からそっと出てみる。
病棟は、昼間なのに暗めで、薄桃色の照明がつけられている。ぐるぐるとナースステーションの周りを、点滴をひきながら歩く。点滴の遮光袋がオレンジ色に透けて、その輪郭を際立たせている。
周囲からは、どのように見えているのだろう。痩せた身体を引きずっている患者? その痩せた身体も、治療が後半になるにつれて、丸みを帯びてなくなってゆく。良いことなはずなのに、心にぽっかりと穴が開いたように寂しい。手放したくない、と思うのは病気によるものなのか、自分の本心なのか。
治りたい気持ちと、治りたくない気持ち。ゆらゆら揺れる灯火のなかで、私は治療に向き合っている。
摂食障害はよく、お化けに喩えられる。
透明なお化け(病気)が心の中に侵食してきて、私を操ろうとしてくるのは日常茶飯事である。それは冬の木枯らしにも似ている。
戸を開けたら、びゅうと風が入ってきてしまうので、それを防ごうと戸や窓を厳重に閉めるのだけれど、隙間風が漏れてしまうように、するりとお化け(病気)が入ってきてしまう。
すると、食に関する「混乱パーティ」が始まる。
口にした食べ物に対して、「本当に食べてもいいの?」と声がささやいてくる。「治療のため」と食べても、食後の罪悪感はじわじわと胸を締めつける。
病院の方針の都合上、カロリー換算されない副菜を食べようとすると、(ご飯と主菜のみカロリー計算とチェックが入るのだ)「食べるのって無駄じゃない?」と、声がして、途中で箸を止めさせられる。本当はもっと食べたいのに、その声に従うと、心が楽になるので従ってしまう。食事が提供される1時間ほど前から、そわそわと緊張する。お化けと闘うことが恐ろしいからだ。
「おいしい」と、何も考えずに食べたいだけなのに……。なぜ、こんなに葛藤しなければならないのだろう。自宅の方が、好きなものを好きな量に制限して食べることができるので、気楽ではある。一方で、私が行っている治療は、1週間で自宅治療の一か月に値する一1週間で、1キロの増量と栄養状態の改善を図ることができるのである。身体にとっては、舞い落ちる金貨を拾い集めるかのような、夢のような時間だろう。正しいことをしているはずなのに、心は悲鳴を上げている。どちらが正しいのかも、分からない。
すうっと息を吐き、パソコン作業を一旦とめる。ふと、私は病棟にいた同じ年頃の女の子を思い出した。
前回の入院では、同じ病気の女の子と友人になったので、彼女に話しかけてみたのだが、「そういうのは良いので」と、会話を断られてしまったのだ。清涼剤のような冷たさだった。近寄らないで、という境界線がぴいんと引かれたのだった。
彼女にも、葛藤する気持ちがあるのだろう。病気の勢いが強くて、余裕がなかったのかもしれない。それくらい、憔悴する病気である。私も1日を何とかやり過ごそうと、波にのってこなしている。今日は大波だったなあ、比較的穏やかだったなあと、まちまちであるが、精神的な疲弊は人生で最大のものであると感じている。ここまで、精神的に苦しいことは経験したことがない。本当に治るのか、と治療を諦めたくなる。
それでも、「治りたい」。
食から解放されて、自由になりたい。重石のような心を、羽根に変化させたい。
それは教会に捧げる、透明で晴れやかな祈りに似ているようにも思う。白い指先をつたう雨が、やさしいものと思えるように。
窓辺から、やさしい初夏の風が吹き抜ける。それは、私を鼓舞するファンファーレのようにも思えた。溜まった落ち葉のようなこの気持ちを、少し掬ってくれたのだった。
※1
「こころの情報サイト」
https://kokoro.ncnp.go.jp/disease.php?@uid=daWRhKdTNvsjgjM5 2024/06/30
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