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Oblivión【忘却】

あらすじ

なぜこんなに惹かれてしまうのだろう? 恭子は自分よりずっと若い「翔」への気持ちを持て余す。二人の危ういバランスは、アルゼンチンからやってきた天才的ダンサー、ディエゴとチェチリアの存在によって崩れていく。白熱する刃のような彼らのタンゴは、恭子と翔をだけでなく、触れるものすべてを変化させずにおかない。やがて変化は大きな循環となって現れ、忘れられた過去が蘇り、未来へのためらいがちな探索が始まる。トーキョーとブエノスアイレス、地球の正反対にある二つの都市で、時間を超えて流れる愛と喪失と希望の物語。(タイトル写真 by Preillumination SeTh

本文

クライポレ・午前四時

 外気は凍てつくようで、まだ乾ききっていない髪が張り付いた首筋がひやりとした。思わず首をすくめて手早く入口のドアを閉め、鉄の外扉を軋まないよう気をつけて押す。予想に反して、ところどころ錆の浮いた鉄の檻のような扉は音もなく開いた。ダニエラが油を注したのかな? するりと外に出て、眠っている人たちを起こさないよう鉄扉をとゆっくり閉める。錠が小さい音をたてて掛かったのを確認してから、ディエゴは表通りに向かって歩き始める。まだ体は半分眠っているようで一歩ずつ左右に振れる。その感覚が奇妙で、まるで赤ん坊みたいな歩き方だな、と顔をしかめながら、シンとした小路を足早に進む。左側の空き地の奥で、土管や四角いコンクリートの建築資材が黄色っぽい光に照らされている。空き地には店舗兼アパートが建つと言われているが、資材置場はディエゴが子供のころ遊んだ時のままだ。それでも一応管理はされているのか、草などあまり生えておらず、壊され残った昔の建物のコンクリート床に引かれた、白いペンキの線がまっすぐ浮き上がって見える。
 あいつら石投げてきたよな……。記憶に促されて、ディエゴはコンクリート床に踏み込むと白線の上を歩き始めた。胸を開き息を深く吸い、少し吐き出すと同時に軽く重心を落として、足を踏み出す。一歩一歩滑らかに、且つ確固として。黒い猫のように。この動線ラインだけが世界を切り裂くように。……あいつキチガイだぜ。毎日あぁだぜ。お前アホか! アタワルパの息子! 嘲笑する声とともに小石が飛んでくる。パン、パン、パン、パシッ。痺れるような痛みの記憶がよみがえる。……おまえ何様のつもりだよ! ムダムダ、止めろよぉ。彼の歩みを邪魔しようとするスニーカーの、無遠慮なゴム底の音が空き地の壁に反響しながら近づいてくる。バタバタッ、パン、パン、パン、バタバタバタバタッ、バシッ。痛いっ。

新宿・午後五時

「その黒木さんって人が、チェチリアとディエゴを連れてくることになってるんですよね?」
 砂糖の空き袋をひねりながら、森下里美が訊いた。
「そのはず、です」
 そういって山野弘毅はテーブルの上の携帯をちらりとひっくり返してみるが、着信はない。
「その人招聘元の方なんですか、それとも通訳さんですか?」
「どっちも、かな」
 コーヒーカップの底に視線を一瞬移してから山野は言った。黒木たちとは、このホテルのロビーで午後三時頃に落ち合ってインタヴュー、という予定であったから、森下はかなり気長に付き合ってくれている。だがこれ以上付き合わせるのはどうもな、と山野は試案顔になる。
「まー、この間のブラジリアンの時もですけど、南米時間、っていうのはホントなんですかねー、やっぱり?」
 森下が自分に腹を立てている様子ではないので、山野は少しホッとする。森下はフリーランスの写真家で、アート系媒体での仕事が「本業」だが、インタヴュー付きカメラマンのような副業も引き受けている。本業の方は風景写真が主なのだそうだが山野はまだ見せてもらっていない。だが副業の方の写真は文句なしで、先月ある音楽雑誌のインタヴュー用に彼女が撮ったブラジル人ミュージシャンの写真は特に良かった。なので、山野としては今回も、ぜひ森下にチェチリアとディエゴを撮ってもらいたかった。
 チェチリア・フェラリとディエゴ・マンシはアルゼンチンタンゴのダンスペアだ。二人とも二十代半ば、ここ数年で頭角を現し、ブエノスアイレスのムンディアル・デ・タンゴタンゴ・ワールドカップを手初めに主要なタイトルはすでに掌中にしている。さらに現代音楽とのコラボレーションなどアルゼンチンタンゴの枠に収まらない活動も展開していて、若い才能がひしめくタンゴ・ダンスの世界でも一頭抜け出た存在なのだ。今では一年の大半をアルゼンチン国外で公演したりワークショップを教えたりしている。もちろん東京でも、彼らの初アジアツアーの一環としていくつかのワークショップが組まれているらしい。
「全くの初心者からプロまでいろんなレベルのレッスンがあるらしいですよ。森下さんもどうですか、……ご興味あったら?」
 ご興味なさそう、ではあるが、待ち人から彼女の気が逸れたらめっけもの、と山野が訊く。案の定、
「えー、私ダンスなんかしたことありませんよぉ」と森下は鼻白らんだが、すぐ眉根を寄せて言った。「でも、なんか変と思いません? 世界チャンピオンが全くの初心者に教えるって。アンナ・パブロヴァがバレエの初心者に教えるとか、ありえないじゃないですかぁ」
 藪から棒にパブロヴァか。しかし、話題が待ち人からが逸れたので、これ幸いと山野は答える。
「それはね、タンゴが生まれ育ってきた環境がバレエとすごく違うからですよ。バレエは元々ヨーロッパの宮廷で育まれて、今も恵まれた素質を持った人だけが、『王立』アカデミーでダンサーになる訓練を受ける、っていう感じでしょう? でも、タンゴは庶民の娯楽として発達してきたから、今でも『バリオ』っていう、地域の一般人が自ら踊って楽しむためのコミュニティがダンスの母体なんです、プロのダンサーも、子供の頃はそこで近所のオジサン、オバサンに交じって踊って育つ。だから彼らは、いろんなレベル、体型、素質の人と、踊ったり教えたりがごく自然にできるんですよ」
「へー、山野さんさすが詳しい。音楽だけじゃなくダンスも勉強したんですか? ……ひょっとしてカバンにダンスシューズ入ってるとか?」
 ナイナイ、と手を小さく振って答えながら、オレは音楽も勉強してないよ、と山野は無言でコメントをつける。愛好家として始めたラテン音楽のブログが評判を呼び、中南米のアーティストとのインタヴューなどを時折引き受けるようになっただけで、正式な音楽教育を受けたことはない。況やダンスをや。ダンスは観て楽しむものと割り切っている。森下はシャル・ウィ・ダンスを鼻歌で歌っていたが、さすがにふざけすぎたと思ったのか、いきなり真面目な顔になって訊く。
「で、今回アルゼンチンのタンゴミュージシャンも一緒に来日してるんですか?」
「いや。でも、日本もいいタンゴミュージシャンがいるからね」
「藤沢嵐子さんとか……あ、昔すぎか?」
 うん、その名前を知ってるなんてなかなかだ。お父さんお母さんから聞いたのかな……いやお祖父さんお祖母さんからかもな。
「ダンス公演は小杉太一クアルテットと共演で、東京のグランミロンガではオルケスタ・ティピカ・アカバが演奏するらしいです」
「グラン、なんですか?」
「ミロンガ。タンゴのダンスパーティーのことですよ。今回は生演奏で有名ダンサーがデモもするわけだから、『グラン』ミロンガってことで」
「タンゴショーじゃなくて?」
「じゃないの。メインは参加者が踊る舞踏会。そのあい間にプロのデモなんかがあるんですよ」
「へえー。ウィーンで、とかならともかく、東京でもタンゴの舞踏会があるんですかぁ。なんかウーバーです」
 うーん、舞踏会、ウィーン、ドイツ語、ときてüberかな……。「ミロンガ」という語はタンゴの近縁音楽のことを指すこともあって、という説明は、森下の自由連想の前に行き場を失ってしまった。中途半端に開いた口を閉めるべきか、何か言うべきか、と山野が逡巡している時、お待たせしてしまってすみません、という声が入口の方から飛んできた。
 山野と森下は声の方向へ振り向いた。片手をあげてせかせかと歩いてくる男の後ろから、若い女性がこちらに歩いてくる。薄手の黒いサマーセーターにワイドなジーンズ。素足にシンプルなスニーカーをはいてジャケットを手に持っている。ありふれた服から出ている手足は華奢で白く、小さな顔は少しウェーブのある濃褐色の髪が完璧なハート型にくり抜いている。長いまつげ、小さな鼻、桜色の唇。伏し目がちに歩いてくるが、それも道理だろう。もしその瞳が直接こちらを向いたら、まぶしさで目がくらんでしまったに違いない。ロビー中の視線を吸い寄せて、彼女の軌道は光るラインを描いている……。
 目の前の男の口が動いているのは何か言っているだ、とわかるのに一瞬時間がかかった。……チェチリアのスーツケースがアトランタでの乗り継ぎ時に誤ってボストン行きの便に積み込まれてしまい、地球を大回りして届けられるはずのその荷物をホテルで待っていたがいつになっても到着せず、というようなことを黒木は言っていた。
「……おまけに携帯替えたばっかりで、山野さんの携帯番号がみつからなくって。全く面目ないです」
 山野が森下を紹介すると、黒木は森下にもう一度、すみません、と頭をさげた。彼の後ろでチェチリアと若い男が静かに立っている。ということは、この人がディエゴなんだ、と森下は男の方を観る。まぶしいというしかないチェチリアに比べ、彼はちょっとくすんだ感じだ。黒っぽい服、くすんだ色の手、乾いた感じの唇、うすい色の入った小さなレンズの眼鏡の奥には褐色の瞳、左の額に、小さい、ひきつれたような傷があるが、やはり目を引くのは彼の髪である。腰まで届くまっすぐな黒髪を臙脂色のゴムで数か所まとめてある。……タンゴっていうよりコンドルは飛んでいく、って感じよね、と森下は思う。じゃあ、まあレストランのほうに移ってお話を、という山野の声としぐさに促されて、チェチリアとディエゴが歩き出す。光と影が寄り添って動いていく先をたくさんの眼が追いかける。……視線っていうけど、レーザー照準ロックオン、って感じだね、えらいこっちゃわコレは。森下は一呼吸おいてカメラのはいったバックをつかむと皆に続いた。

中野・午前十時

 色はいいんだけどヒールのラインがイマイチだな。恭子は眼鏡を押し上げてオンラインショップの靴の写真に見入る。もうちょっと華奢なラインでないとね……。こんなに必死に靴探しをするのはフラメンコのとき以来だ。フラメンコの靴は(ドレスも)段ボール箱何個分か持っているけど、それでタンゴのレッスンに行くわけにはいかない。イマイチ、と口に出してみて、少し自分が滑稽に思えてきた。なんでこの齢で新しいダンスよ、それも相手がいないと踊れない、社交ダンス。新しいときめきを求めて、とかだったらソレもアリかもしれないけど、大体、私はレッスン受講生タイプの人にはときめけないし。一体何をやってるんだか、と苦笑する。まあいいさ、さっさと踊れるようになってブエノスアイレスに行ってミゲル・アンヘル・ゾットみたいな渋いミロンゲーロをゲットするってことで。そうつぶやいて眼鏡をはずす。翻訳の仕事、下訳はもう貰っているけど、昼からやろう。恭子はラップトップをぱたんとしめ、立ち上がって、シャワーを浴びにバスルームにはいった。
 鏡の中に大柄な女が立っている。不規則なウェーブのかかった長い髪がたてがみを思わせる。大きな目は少し充血しているが、くっきりした眉とあいまって意志の強い視線を返している。肩幅は広く、豊かな胸をきちんと収納して下品に見せない。恭子はふと仕事の下訳をしてくれた若い女性の胸を思い出す。痩せて丸まった背中とあいまって、彼女の胸は存在を主張せず、前ボタンを一番上まで閉めたオフホワイトのシャツはその下に大きくあいた穴を隠しているかのようだった。……まあ、あの単語単価で仕事していたら、消耗もするわよね。軽く頭を振ってその映像を掃いのけ、服を脱ぐ。……ふむ。そりゃあ、若い時に比べたらバストは下がっているし、二の腕はちょっとたぷついてるけど、ウエストはまだきゅっとしてる。このウエストからヒップにかけてのラインを恭子は気に入っている。...…ちょっと若い時のソフィア・ローレン入ってるかも。髪を掻きあげたり唇を突き出したりしてポーズをとってみる。大柄で長い手足、パーツの大きい顔が昔のピンナップガールを思わせる。まあるい胸に触ってみる。滑らかで気持ちいい。それからへその周りを指でなぞる。今度は両手で太ももの内側を何度か優しく撫で上げる。指を滑らせてもしゃもしゃした毛に指があたるのを感じながら、ひだひだの間をゆっくり撫でる。バスタブの縁に腰をかけ、足を開いて指を次第に早くうごかす。呼吸が早く浅くなってきて内腿が硬くしまる。長い息をはいたあと、尻もちついたりしないよう、気をつけてゆっくり立ち上がる。……そうだ、お昼前に翔ちゃんにメッセージいれとこう。そう思いながら恭子はシャワーの栓をひねった。

あの娘はだあれ?(一) 

 眼を開くと白い光が見えた。像が二重になっていて何なのかよくわからない。懸命に焦点をあわせて、どうやら天井灯であるらしい、と、わかった。オレはどこにいるのか? ぼんやり考えていると、頭痛が始まった。目を開けていられない。思わずうめき声を漏らす。ディエゴ! 女の声だ。頭が痛い。顔をしかめ目を閉じると別の声がした。ディエゴ、苦しいの? 今度は誰かが左手を握った。確かに具合はよくない。なんだってこんなに頭痛がするのかわからない。痛みはどんどんひどくなって、耳鳴りも始まった。うめき声はでるが言葉にならない。左手を握る手に力が入る。何がどうなってるのかわからない。頭が痛い。白いものが見える。目を凝らす。白い顔だ。白い光に照らされた女の顔だ。とても美しい……。誰だろう? 

抱擁(一)

「へええ。翔ちゃん、じゃあ、前世の記憶とか、そういうのあるわけ?」
 恭子のからかうような問いに、翔は彼女の抱擁から半身を起こして答える。
「やー、特に何を覚えてるってわけじゃないんですけど、時々あるんスよ、あ、おれは絶対ココ住んでたことあるな、とか」
「住んでたことないのに?」
「ないけど住んでたんス」
「なにそれ。じゃあ、その『住んでた時』は何やってたの?」
「だからそこはわかんないんスけど、や、これは絶対、みたいな」
「なにそれ。じゃあ、その景色に見覚えある、とか?」
「そういう具体的なことじゃなくて、光の感じとか、空気とか……」
「へええ」
 たわいないことをしゃべっている時の翔の顔は幼くみえる。小さな揺れるオーナメントのついたピアスと首筋の細いラインのタトゥーが、彼の繊細な耳から首、肩へのラインに似合っていて、とてもきれいだ、恭子は目でそのラインを何度もなぞる。
 翔は六本木のはずれでいわゆるホストをやっている。でも私達が遇ったのは神保町の喫茶店(って死語かも。でもホントに喫茶店)。いきなり、あの、どこかで会いませんでしたっけ? だって。今時だれがそんな誘い方するよ、と怒るより呆れたけど、その後、時々逢うようになったってことは、それなりに有効なテクだったのかも(笑)。会うのは大抵こういう場所ホテルで、彼がどこに住んでいるかなどは知らない。翔っていうのが本当の名前でないことだけは100%確実(その名前でお店に出てるし)。でもそういうことは、まあ、この際どうでもいい。私は、立ち居振る舞いがきれいでベッドでもとても素敵な若い彼が、結構年上の私にプライベートであってくれるのを素直に喜んでいる。
 猫のようにゴロンと横になって私の腕の中に戻ってきた彼の、肩のあたりをそうっと指先でなぞりながら、翔ちゃん、ひょっとしたら前世は猫だったのかも、と思う。だって、こういうふわふわした魂は、猫とかホストとか、そういう系列以外に転生しようがないじゃない。

インタビュー記事

 ――今回のダンス公演で小杉太一クアルテットと共演されますが、小杉さんとはこのコラボレーション以前からのお知り合い、と伺いましたが? 
 フェラリ:はい。小杉さんがアルゼンチンでの演奏活動を始められた時、母方の祖父(註一)がブエノスアイレスに持っていたアパートを拠点にしてらしたんです。祖父の家にも何度も遊びに来ていただいたし。その後もブエノスアイレスに来られるたびに私たちを訪ねてくださって。だから、私は母のおなかにいた時から小杉さんのバンドネオンを聞いているんです。
 ――なるほど、それならもう呼吸はばっちりですね(笑)。今回演目にはトラディショナルな曲目だけでなく、小杉さんが得意とされるバンドネオンの現代曲も何曲かはいっていますが、こういう、厳密にいえばタンゴではない楽曲を踊られる場合、いろいろ普段とちがった難しさもあるかと思いますが、その辺はいかがですか? 
 マンシ:現在のアルゼンチンタンゴでは他のいろいろなダンスのテクニック、例えばヒップホップのステップなども取り入れられています。またステップのコンビネーションによって本当に様々な表現をつくり出すことができます。ですから、難しいのはタンゴ以外の音楽だから、ではなくて、その音楽から一瞬一瞬何を引き出せるか、かなと感じています。また僕らはダンサーと音楽との関係は「一期一会」と考えているので、基本的に振り付けを使いません。どんなに聞き込んだ曲でも、踊っている瞬間に出てくる動きは毎回違います。だから、踊るのがタンゴでもそれ以外の現代曲でも、観客の皆さんに観ていただくのは、自分がその瞬間、その音楽とどう向き合ってるか、ってことなんです。
 ――チェチリアさんは? 
 フェラリ:ディエゴが感じ表現しようとしていことは私の身体をとおして可視化されるわけです。その時の私の体は媒体なので能動的ではないのですが、受動的というのも少し違うんです。光が空気の中を通るのと水の中を通るのでは見え方が違うでしょう? 同じ意図であっても私の体の時々の透過性、っていうかそういうものでずいぶん変わってくる。だから、どんな曲を踊るときも、私の持っている自由度がディエゴの意図を最大限に表現するように、と心がけています。
 マンシ:彼女は僕らの芸術をすべて生み出す母神です。 僕らリーダーはフォロワー(註二)なしでは陸に上がった魚ですから(お互いに微笑む)。
 
 註一:チェチリア・フェラリさんの母、ルシンダさんは、著名なタンゴ音楽研究家で収集家でもあった故オラシオ・アルバレス博士の愛娘。
 註二:アルゼンチンタンゴではリーダーとフォロワーの役割が明確に分かれており、また即興性を重視する、基本的に、ダンスはリーダーが音楽に沿って即興的にフォロワーにマーキングするステップに、それを修飾するフォロワーの動き、エンベリッシュメント、が加わって構成されていく。
 公演予定:風の記憶、チェチリア・フェラリ&ディエゴ・マンシ、ウィズ小杉太一クアルテット、トッパンホール、六月十日……。

 写真の二人はくつろいだ感じだ。生身の二人を目の前にするとチェチリアのあまりの輝きにディエゴが暗く沈んだ印象をうけてしまうが、この写真は違う。確かに、チェチリアが白ならディエゴは黒だが、黒の輝きがしっかり写っていて、二人が依存しあう関係でなく相補的な関係にあることが自然と伝わってくる。
「森下さん、今回もすごくいい写真ですね。どうもありがとう」
「えへへ、ありがとうございますぅ」
「本業のほうでも、ポートレートやる予定はないんですか?」
「いやー、まー、その辺は」
「風景じゃないとアートにならない、ってことはないでしょ?」
「それはそうですよ」
 まあ、アーティストはみんなそれぞれ思想信条やこだわりがあるからな。山野は話題を変えて言った。
「あ、そういえばね、黒木さんが、四日のグランミロンガにご招待しますので是非どうぞ、って」
「だから、踊れませんよ、私」
「僕も踊れないけど、今回はご招待にあずかろうって思ってます。チェチリアとディエゴのデモをぜひ観ておきたいと思って」
 テーブル席もあって、踊らなくてもタンゴの生演奏を聴きながら美味しいアルゼンチンワインを楽しめるってそうですよ、と付け加えると、森下の気持ちも動いたようだ。
「アルゼンチンワインかぁ。飲んで観るだけなら行こうかなあ……」

あの娘はだあれ?(二)

 あの娘はだれだろう? 懐かしいのにどこで会ったのか思い出せない。どこかで会った? 本当だろうか? そんな感じがするだけで今日初めて会ったのかもしれない。でもキレイだ。本当に綺麗だ。吸い込まれそうだ。
 
タンゴ
 まずはパートナーいっしょに歩いてみましょう。でも難しく考えないで。『お嬢さん一緒にお散歩しませんか?』『ええ、喜んで』『素晴らしい! では、お手をどうぞ』そんな感じで。パートナーに微笑んで、そうです、お互い相手に注意を払って。そうすれば、自分だけ早くなったり遅くなったりして、相手を置いてけぼりにするようなことは起こりません。無理のないペースで。そうです、歩く、カミナンド、それがタンゴの基本です。

四谷・午後二時

 午後のクラスは中・上級者向けのワークショップとなっているが参加者は「自称」中・上級者なので、そのレベルはまあ中級がせいぜい、というところだろう。それより問題は、フォロワーのほうがリーダーより多い、ってことだ。やれやれ。恭子は、スタジオのベンチに座ってダンスシューズに履き替える。今日持ってきたのは、新しいフェリシアの十センチスーパーピンヒールではなくて、練習用の肌色の五センチ。もう半年くらい使っているので少しくたびれてきているが、皮も柔らかく足になじんでいるし、軽い。今日はガンガン練習してガンチョを習得したいので、なじんだ練習靴が一番なのだ。
 ガンチョの意味は「鈎」。二本の鉤棒を絡ませるように、膝を曲げて二人のダンサーが脚を絡ませる、見れば、ああ、あれね、と皆が思うアルゼンチンタンゴの代表的なステップのひとつだ。従って、決まると映えること必至なのだが、中途半端だと足が引っかかってコケる寸前といった体になり、映えないこと著しい。恭子も中野のダンス教室で何度もトライしてみたが、鏡に映った姿は今一つだった。
「恭子さんは背が高くて足が長いから、僕らの短足じゃうまくいかないんだよ」
 レッスン仲間の浅井さんはそういったけど、まあそれは言い訳だ。だってブエノスアイレスのマエストロたちは浅井さんより短足(で、ch*b*で、d*b*で、h*g*)だったりするが、目の覚めるようなガンチョを、自分より背が高くてボン・キュッ・ボンで美人のパートナーとビシバシ決めてるじゃない。ため息をかみ殺してステップシークエンスにもう一度トライする。……左足へサイドステップ、進行方向を後、前、後、と左足ピボットでボレオ方向転換、後ろ向きになったところでオチョ八の字スッテプ。体重が右足に移り、自由になった左足が踏み込んできたリーダーの右脚にバシッと絡んでガンチョ……のはずなのだが、恭子の足は浅井さんの脚にぶつかっただけで「鉤」にはならない。リーダーの脚と離れすぎてるのかな? 近づこうと心持ち大きめにオチョをすると、今度は浅井さんの体とぶつかってしまった。やれやれ。どうもリーダーとの適切な距離っていうのがよくわからない……。

 だから、今日のワークショップのテーマがガンチョとそのコンビネーションだと知ったとき、恭子はほぼ即時に申し込んだ。誰か一緒に参加してくれるリーダーを探してから申し込んだほうがいいかな、と一瞬思ったけれど、そんなことをしているうちに定員に達したら耐えられない。参加費も少々お高めだったけど、インストラクターは現役世界チャンピオン、ワークショップの後には生バンドのミロンガ付き、なんだからお得なくらいかも。だから迷っていた時間は長くて三秒というところだ。
 とまれ、今日の目的はアルゼンチンのプロダンサーからガンチョの秘訣を学ぶこと。だから、恭子にとってリーダー(というか練習相手・足)が不足しているのは由々しき事態だった。何気ない目つきで参加者を見回す。四十人位いるかな? 自分のダンス・パートナーと来てる人がほとんどで、十人くらいが一人で参加。シングルの男女比は四対六くらい。……これじゃあ、常に二・三人フォロワーが余っちゃうよね。もちろん女性のリーダーもいるかもしれないけど、私が大柄なせいか頼りなく感じてしまう。特にガンチョのような大技をガンガンかけるとなると、ケガでもさせたらどうしよう、って、ちょっと怖い……。
 そんなことを取り留めなく考えている恭子の方へ、手をおなかのあたりで小さく振りながら駆け寄ってくる人がいる。
「高野さぁん」
 え、誰? 苗字を呼ばれて、顔を見直しても一瞬誰かわからない。
「え、田辺さん⁈ うわ~新しい練習着? きれいね!」
 中野のダンス教室でレッスン仲間の田辺きよ美だ。まさかここで会うとは思ってもみなかった。それに、いつもは地味なTシャツで練習にくる田辺が、今日は袖が黒レースの練習着でメイクもばっちり、髪もまとめて眼鏡もかけていない。
「えー、ワークショップにはちょっと派手かな、と思ったけど、たまにはいいかなって……」
「似合ってる、似合ってる! すっきりしてて派手じゃないし、バッチリよ!」
「ありがとう! でも、靴は頑張りすぎちゃったかも...…」
 少し顔をしかめた田辺がはいているのはフェリシアのスーパーピンヒール。銀色だから恭子のPink&Blackとはかぶらないけどおんなじモデルだ。それで背まで高くなったようにみえたのか、と恭子はピンヒールのなかで窮屈げな田辺の足を見下ろした。
「田辺さんはパートナーときたの?」
「ううん、一人」
「私も。……ちょっと余っちゃいそうだね」
「あ、でもディエゴのレッスンでは頻繁にパートナーチェンジするから、大丈夫よ」
「田辺さん、朝のレッスン取ったの?」
「ううん、去年の夏にね、サンデイエゴで彼のワークショップ参加したの」
「え、わざわざアメリカまで?」
「ううん、たまたま出張とかぶってて。ラッキーって」
「そうか、確かにラッキー。で、よかった、ワークショップ?」
「うん、とっても! もう段違いっていうか、Over the Moonだった、っていうか」と田辺は目のあたりを赤くしていう。
「へえぇ、そんなよかったんだ。じゃあ、私もラッキーだ、今日来られて」
 田辺はクスクス笑いながら、女子高生のようにウンウンと小さくうなづく。
 その時スタジオのドアが開いて、手ぶらの男性がまず入ってきた。続いて大ぶりのバッグを肩から下げたチェチリアとディエゴも入ってくる。二人とも真っ白なコットンの襟無しシャツとワイドなパンツを着ている。ひょっとしたらお揃いかもしれない。チェチリアは髪をルースなシニョンにまとめており、中世の聖母マリア像のようなオーラを放っている。ディエゴのほうは長い髪を何か所かでまとめて、女神を守るインディオの神官のよう。二人とも思ったより背が低くほっそりしている。ディエゴなど後ろからみると女性と間違いそうだ。
「えー皆様、本日はご参加大変ありがとうございます。私は通訳を務めさせていただきます黒木豊、と申します。さて、本日ワークショップの終了は午後五時、そのあと休憩を挟んで、午後七時から四谷オアシス会館のダンスホールに於きましてグランミロンガという運びになります。そちらには……」
 事務連絡を続ける男性の後ろで、チェチリアとディエゴがラップトップやケーブルをバッグから取り出して手早くスタジオの音響システムにつなげている。その様子を、田辺はうっとりした目で見つめている。……ふうん、すごい入れあげようなんだ。
 
 ワークショップの後、恭子と田辺はミロンガの前に軽い夕食を食べようと一緒にスタジオを出た。田辺が車で来ているというので、車でないと行きづらいところにあるが、すこし洒落たものも食べられる蕎麦屋まで行こうか、ということになった。普段中野のダンス教室では、レッスンのあと恭子が田辺と話すことはほとんどないが、今日は話すことがたくさんあった。
「田辺さん、おっしゃってた通り、次元がちがうね、あの二人!」
 ダンス関係では点数が辛い恭子には珍しいベタ褒めだ。田辺はお通しのソバの実の入った焼味噌をキュウリにつけながら、そうでしょ、という感じで口の両端をきゅっと持ち上げた。彼女の方にぐいと顔を近づけて恭子がいう。
「ガンチョは脚を引っ掛けるんじゃなくて重心移動と回転だなんて、今までだーれも教えてくれなかったよ!」
 すると田辺は、かじったキュウリを吹き出さないように慎重に口元を覆いながら、眼から鱗、でしょ、と言う。
「もうボロボロ、ボロボロよ!」そう言いながら、恭子はワークショップのある瞬間を思い出していた。
 ……恭子がオチョで後ろに踏み出すと同時に、その足に向かってリーダーが踏み込む。彼の重心のかかった足に恭子の重心が引き寄せられる。そして体重から解放された恭子の前脚は、三日月のような弧を描いて、どこにもぶつかることなくリーダーのに膝のあたりに一瞬絡みつき、はじき返されて大きく跳ね上がった! その時スタジオの鏡に映ったのは、まるでタンゴビデオから抜け出たような「白靴」さん(名前は思い出せないけど)と私の姿。二人とも何が起こったのかという顔だが、正しいことが起こったことだけは確かだ。うわっ、効果音としてはザ、ザッ、かな、と思った瞬間、「Eso!(それだ!)」というディエゴの声がした。
 こちらにやってきたディエゴの前で何回か試したが、その度に恭子の脚はザ、ザッ、ザ、ザッ、と面白いように白靴さんの脚と絡んでは跳ね上がる。……いいね、じゃあ次はこれ試してみて、とディエゴは次のバリエーションを説明するが、スペイン語のせいで白靴さんは、ぽかんとしている。ディエゴが指を鳴らして通訳さんの注意を引こうとしたとき、恭子は、私スペイン語わかります、フラメンコ習ったので、といった。……ああ、そうですか、じゃあお願いします……いいですか、彼女フォロワーをここに招待したいのに、そこにあなたの上体があったらぶつかるでしょう? だから彼女が動き出すのと同時に移動をはじめるんです。白靴さんはディエゴの動きをまねて、右足、左足、と体の回転させながら体重を移動する、特に難しそうでもない動きだ。……じゃあ今度は彼女と一緒にやってみて。え、でも私のステップの説明は? と訊く間もなく、白靴さんは恭子の手を取って動き出す。グルッ、ズバッ、フロントとバックとのガンチョが連続で決まった。Eso! それを繰り返してもいいですし、途中にステップを入れてもいいし、といってディエゴが指をならすと、チェチリアがやってきて彼が意図することを動きにして見せる、後ろにガンチョ、前にガンチョ、もうひとつ前、オチョ、ボレオ、ガンチョ、ガンチョ、またガンチョ。二人の動きは滑らかで、彼の脚に絡みつく彼女の脚の動きに沿って、白い光跡がうねって見える。いろいろなコンビネーションを試してみてね、と恭子と白靴さんににっこり笑って次のペアのほうに歩いていく二人を見送りながら、今まで何やってたんだろ私、と思わず体の力が抜けた。
 
「アレはやっぱり血かしらね? どんな動きも自然にできちゃう!」
「あぁ、それ、私もはじめは思ったのよね。でもやっぱトレーニングも大きいと思うよ。チェチリアなんか国立芸術大学の舞踏科卒で、バレエからフォルクローレまでなんでも踊れるみたいだし」
「やっぱり。あの素材にさらに磨きをかけてるから、ああいう奇跡的なことになるのかあ」
 恭子の声がよっぽど羨まし気だったのか、田辺は一瞬プッとふきだしたけれど、すぐ真顔に戻っていった。
「でもね、やっぱりあると思うよ、血の部分」
「やっぱり?」
「ある。Sangre de tango」
 Sangre de tangoねえ。タンゴの血ねえ。

四谷・午後七時三十分

「こんなとこにダンスホールなんてあったんですねぇ。この辺、大学時代結構歩いたとこなのに、ぜんっぜん知りませんでした」
 森下が面白そうに言うのを聞いて山野は少しホッととした。無理に誘ったんじゃないかな、と気になっていたのだ。二人が案内されたのは予約席・山野様と大書きしたA4の紙がのっている、ステージ近くのテーブルだ。ステージ上にはバントネオン奏者用の踏み台が既にセットされているのが見える。ホールの両脇には四、五人掛けのテーブルと椅子がいくつも並べられ、中央はダンスのために大きく空けられている。生演奏は九時からだがDJがすでに音楽を繰っていて、少なからぬペアが、ほの明るい照明の下、踊りながらゆっくり反時計回りに流れている。
「普段は公民館みたいに使われてるそうなんだけど、今でも月に一回は、四谷アルゼンチンタンゴ・ダンス倶楽部の人たちが、ミロンガを催されてるそうですよ」
「四谷アルゼンチンタンゴ・ダンス倶楽部! ……もう名前からしてド真ん中っていうか、キャラ立ってますよね!」
 森下は、迷宮入り事件解決の手掛かりを掴んだ探偵のような声でいう。
「はじめはね、『四谷アルゼンチンタンゴ倶楽部』っていう名前で音楽中心のクラブだったんです。レコード鑑賞会とか、プロやアマ、大学生の楽団を招いた演奏会とか。関係者からは結構有名なタンゴミュージシャンも出てるんですよ」
「いつ頃の話ですか?」
「早川真平さんとかのすこし後の世代かな」
「うおー、早川真平とオルケスタティピカ東京! うちのおじいちゃんがファンだったんですよぉ!」
 やっぱり、おじいちゃんか……。山野は、動揺する理由ないだろ、と自分を諭し、その辺のことは本も出ているから、興味あったら...…、と言おうとしたが、森下はもうこっちを見ていなかった。
「山野さん! カメラマン、いやカメラウーマンの方も! よくいらっしゃいました!」
 ワインボトルと逆さにしたグラスを両方の手にさげ、黒木が、踊っている人たちを器用によけながら、スタスタとこちらにやってくる。森下です、と頭を下げる森下に、すみません、とぺこりと頭を下げてから黒木は言った。
「チェチリアが撮っていただいた写真をすごく気に入って」
 森下は、えーありがとうございます、てへへへ、と擬態語つきの返事をしたが擬態語の部分は周囲の音にかき消されたのか聞き返され、慌てて、気に入っていただけたのならファイル送りますが、と大声で付け加えた。
「きっと大喜びしますよ! いや、山野さんにも素晴らしい記事を書いていただいて。ざっと訳して二人にも聞かせました。おまけにご自身のサイトでも宣伝してくださって! おかげさまでワークショップはすべて満員御礼、公演のチケットもなかなかの売れ行きだそうです。あとで二人ともご挨拶に伺うと思いますが、ともかく、まずはアルゼンチンのワインいかがですか?」黒木は、ワイングラスをテーブルに置き尻ポケットからコルク抜きを取り出すと、慣れた手つきでボトルを開けにかかった。
「いえ、かえって恐縮です……。黒木さんこそ、お疲れでないですか? チェチリアさんたちの日常のお世話に、ワークショップ、ミロンガのセッティングまで、ほぼお一人でこなされてるんでしょう?」
「いやぁ、ウチのや子供にも手伝ってもらってますんで。まあ、親父のころからアルゼンチンタンゴ関係っていったら、もう、ウチは総出で。でもまあ、親父の生きてた頃に比べると、今はボランティア程度ですけどね」
 問いかけるような森下のまなざしにあって、黒木が付け加える。
「むかーし『四谷アルゼンチンタンゴ倶楽部』っていうのがありましてね、学生さんたちが創設者で、メンバーもK大やT大の方がほとんどだったんです。当時、ウチの親父は大学いかずに四谷で酒屋を継いでたんですが、タンゴ気チガイで。酒を寄付するから、ってことでその倶楽部に入れていただいてたんですよ」
 あー「ダンス」が入る前の、と森下が言うと、黒木は、ご存知ですか、と汗の浮いた顔でにっこりする。
「でもおかげさまで、ウチはタンゴ関係以外のアルゼンチンの方ともいろいろご縁ができましてね。これはチュブ産の赤ですが、このワイナリーとも、昔から直接取引させていただいてるんですよ」
 ボトルからグラスに少量注いだワインを、くるくるまわして味見をしてから、うん、お口に合えばいいんですが、といって、黒木は森下と山野の前のグラスにそのルビー色の液体を注いだ。有名どころでないんですが、ちょっと変わったのを作ってる生産者なんですよ、という黒木に、チュブ、知ってますー、化石がいっぱい出るとこですよねー、と森下が答える。山野の脳裏に、露天掘りの化石採掘場の上に広げられた青いビニールシートの映像が不意に浮かぶ。三人は軽くグラスをあげて乾杯し、ワインに口をつける。化石の、石灰岩の、カルシウム質の、砂の味だ。...…カルシウムがきつい、っていえばそうなんですけど、今日みたいに暑い時はかえってすっきりしていて、と言いかけた黒木に白髪の紳士が声をかける。ゆたかちゃん元気? いま受付でサコちゃんにも会って、久しぶりってねえって、他のOBはもう来てる? 黒木は山野たちに素早く会釈して立ち上がり、紳士と一緒に話しながらVIP用らしきテーブルのほうに歩いて行った。
 乾いた砂の味を舌全体に感じながらぼんやりしていると、森下の声がした。
「山野さん、どこ見てるんですか?」
「……いや別に。どこも」
 
 ミロンガに一番乗りするのはなんだか物欲しげでみっともない。でも、あまり遅れていくといい席がなくなってしまう。特に今夜みたいに生演奏もデモもある場合は致命的だ、ということで恭子と田辺は七時半過ぎには会場に着くことにした。受付で名前を告げると、白っぽいジャケットを着た係の女性がプリントアウトを手早くめくって予約を確認し、手首にテープを巻いてくれる。会場の中は広くて、照明も明るめだ。生演奏にはまだ時間があるけど、もうかなりの人がダンスフロアに出ていて、みんな恭子が思ったよりもドレスアップしている。家に置いてきたPink&Blackのことが一瞬頭をよぎる。年齢層は他のミロンガより高めで、年配のペアが銀色の頭を寄せて、こなれたステップでフロアを横切っていく。
 うん、いい感じ! 私も早く靴を履き替えて……一瞬焦りそうになる自分を恭子はたしなめる、ダメダメ、ミロンガはがっついたら負けよ! 運よくステージからもダンスフロアからもあまり離れてないテーブルに、まだ空席が残っていた。先客に会釈をして恭子と田辺は椅子に座り、靴やら着替えやらでかさ張ったバッグをテーブルクロスで隠れる位置におく。ダンスシューズを引っ張り出しながら田辺のほうを見ると、なぜか困ったような顔でこっちを見ている。……高野さん、ダメだわ、私。足が痛くて。靴擦れもできちゃったし、痛すぎて靴が履けない。
 そんなあ、ここまで来て踊らないって、そりゃないでしょ。恭子はテーブルクロスの中に頭をつっこんで田辺の足をみる。確かに一回り腫れた感じで、特に靴の細い皮が食い込んだところがみみずばれになって痛そうだ。絆創膏か何かはったら、という恭子に田辺は、ダメ、腫れてて靴に足が入らないんだもん、としょんぼりしている。一瞬考えて恭子がいった。
「田辺さん、足のサイズいくつ?」
「二十四センチだけど、なんで?」
「あたしも二十四なんだけど、今履いてるの、ちょっと幅広めで皮も柔らかいし、とっかえる?」
「え、でも、それじゃあ高野さんが困るじゃない!」
「田辺さんの靴みたいにかっこよくないけど、足は楽になると思うよ」
 でも、という田辺に試しに一回取り換えてみて、だめなら元に戻せばいいじゃない、といって自分の肌色の練習靴を差し出す。田辺はためらっていたが、試すだけなら、といって受け取り、ピンヒールを恭子に渡した。
 華奢なヒールは鉄の橋梁のようなカーブを描いて立ち上がるソールに優雅な角度で接続している。細い銀色の皮テープを組み合わせたデザインもあってか、靴というよりアーキテクチャだ。恭子の足はその中にすっぽり包み込まれている。...…痛いんじゃない? と心配そうに訊く田辺に、今のところは大丈夫そうよ、そっちは? と訊きかえすと、顔をしかめながらも、これなら踊れるかも、という。じゃあこれでいきましょうよ、いけるとこまで。
 痛くなったらすぐに言ってね、すぐに靴おかえしするからと、まだ心配そうという田辺にニッと笑いかけてから、恭子は体を起こして椅子に座り直した。やれやれ、さてと。誰か知ってる人いないかな? ホール向かい側の席に目をやる。普通、ミロンガでは同じタイプの音楽が続けて四、五曲かかって、その間はよほどのことがない限り同じパートナーと踊る。タンダと言われるそのひとまとまりの音楽が終わると、コルティーナという短いブレイクがあって、タンゴ以外の音楽が流れる。その間に踊りの輪から抜けて休憩したり、パートナーチェンジしたりするわけだ。
 サルサの軽快なリズムが流れる中、踊り終えたペアのリーダーがフォロワーを座席までエスコートしていく。やがてまた音楽が替わりタンゴワルツが流れだす。あ、Lágrimas y sonrisas だ。この曲大好き! 踊りたいけど……。恭子はホールの向かい側に目を凝らす。この、アイコンタクトでパートナーをさがす、カベセオ、っていうのが厄介だよね。直に話しかけて誘ったほうがナンボか……と思った瞬間、恭子の真横で
「シャル・ウィ・ダンス?」
 という声がした。ワークショップ参加者の「青シャツ」さんだ(今は黒いシャツに着替えてるけど)。ラッキー! こういう掟破りは大歓迎よ。笑顔になって恭子はパッと立ちあがる。その勢いに青シャツさんは少し後ろによろけるが、すぐ立て直して恭子の手をとると、踊りの流れの縁までちょっと気取った感じでエスコートしてくれる。
 踊っている人たちは結構なスピードで脇をかすめていくが、青シャツさんと恭子は焦らずゆっくりアブラソをつくる。「アブラソ」は腕、抱擁って意味だけど、タンゴでは二人のホールドのことだ。お互いの重心を確認し、すっと横に踏み出しロンダ踊りの流れにのる。ほかの人の動きを邪魔せずスムーズにのれた。……みんなこういう大事な基本を教えてもらってないから、いきなりバックステップで入って、踊ってる人と衝突、なんてことになっちゃうのよねえ。自分も今日のワークショップで習ったばかりなのを棚に上げて恭子は思う。……リーダーはパイロットでもあるので、常に周りのトラフィックに気をつけて。フォロワーを腕で動かす、じゃなくて胸でリードして……。ディエゴの声が聞こえる。そうよね、だから私たちフォロワーは常にリーダーの胸の一点に集中して彼がどっちにどれだけ動こうとしてるのか、敏感に感じ取らなきゃならない。重心は上にたもって(腹筋背筋!)いつも片足の上に。体重がフリーレッグに残ったら、エンベリッシュメントだって中途半端になっちゃう(ガンチョなんか絶対無理)。一つ一つ習ったポイントをチェックしているうちに一曲目が終わった。
 自分でいうのもなんだけど、今日は動きがスムーズだ。肩や腕に力が入ってない。リーダーとの距離もいい感じで、頭と頭がごっつんこ、なんてこともない。バランスも改善して、どのステップをするにも余裕がある。余裕があるから、リーダーのこともよくわかる。青シャツさんが小さめのステップから始めたのは、私が無理なくフォローできるか気にしてくれたからだ。時々足踏みのようになるのは、彼が音楽をつかもうとしてるからだ……。
「大丈夫ですか?」
 にっこり笑って青シャツさんがきく。
「ハイ。大丈夫です。素敵です」
 二曲目が始まった。私たちは手を取り合い、抱擁するようにお互いの体に腕をまわして音楽の中にはいっていく。

四谷・午後九時

 生演奏の時間が近いとあって、会場は目に見えて込み合ってきた。思い思いにドレスアップした人たちが、ダンスフロアとテーブルの間を、触れ合わんばかりの距離ですれ違いながら行き来している。フロアを挟んで山野たちが座っているのと反対側のステージ近く、少し奥まったところに、真ん中に小さな生花のアレンジメントをのせた他より大型のテーブルが置かれている。明らかに特別なそのテーブルについて和やかに談笑しているのは三人の年配の紳士だ。髪は真っ白だったり、まばらだったりで、かなりの年齢なのは明らかなのだが、皆どこかに学生っぽい面影を残していて、オールドボーイズ、とでも呼べそうな雰囲気だ。そこに、髪をオールバックになでつけ、複雑な光沢の黒いジャケットを着た三十代とおぼしき男性と、タイトに結った髪に甘すぎないが華やかな飾りをつけ、長いつけまつげに真っ赤な口紅の女性という、いかにもタンゴなペアがやってきた。二人は礼儀正しくオールドボーイズに挨拶している。
 あれは新宿の「ミロ」で教えているプロのダンスペア、ユミとジュンジ、だったっけ? 去年ブエノスアイレスのタンゴ・ワールドカップ・サロン部門でいいとこまで行ったんだよね。じゃあ、あそこはVIPテーブルかな。踊りの輪から離れながら、恭子はちらりと「VIP席」の方をみる。今夜はついているのか、次々申し込まれて踊り続けたのはいいが、さすがに足が疲れた。靴のストラップを少しゆるめようと空いた椅子をめざして近くのテーブルに近づいたが、腰を下ろす寸前に「予約席」という紙が目に入った。あ、すみません。恭子が立ちさろうとすると、座っていた若い女性が言った。他には誰も座ってませんから、どうぞ、どうぞ。横の男性もにっこりして、ご遠慮なく、といってくれたので、恭子は二人に会釈して座りなおし、足の様子をみることにした。
 ストラップをはずし、そうっと足を抜くと、ソールのサポートを失った足のアーチはぺたんと床に落ちた。皮のベルトに押し付けられていた小指に血が回りだし、痛いような熱いような感覚がする。ずっと踵を浮かせておどっていたので、足の指の、拇指球というのか、少し盛り上がったところがジンジンしている。脱いだ靴が目に留まったのか、予約席の女性は、ひゃぁ、そんなハイヒールでよく踊れますねぇ、と心底信じられない、というような声を出した。貴女はタンゴ踊られないんですか、と恭子が訊きかえすと、私は体育館シューズでも無理ですぅ、というので吹き出してしまった。私も普段はもっと低い靴使ってるんですけど、たまにこういうのも華やかでいいかなと思って、と恭子がいうと、いいです、ばっちりです! ダンスもお上手ですねぇ、ステップがバシッときまってましたよぉ、といってくれた。お世辞とわかっていても嬉しい。
 ありがとう、と微笑んで座りなおすと、奥のVIPテーブルにチェチリアとディエゴがやって来たのが見えた。オールドボーイズの一人が立ち上がって二人を迎え、チェチリアの頬に片方ずつ軽く唇をつける仕草をし、ディエゴと握手を交わす。ユミとジュンジも立ち上がり、二組のダンスペアはあいさつのキスと抱擁をかわす。チェチリアたちは楽しげに立ったまま話をしていたが、ややあってディエゴがチェチリアのコートを手伝って脱がせてやり、一緒にVIPテーブルについた。チェチリアはワークショップの時のナチュラルでルースな感じと一転して、髪をタイトなシニョンにまとめ、ラメだろうか、細かな光がチークのうえでシャープに踊り、巧みに強調された目が小さな顔の中で宝石のように輝いている。その横のディエゴは、まるで彼女の輝きがまぶしすぎるというように、薄い色付きの眼鏡をかけ、微笑んで彼女の方を向いている。
 その時拍手がパラパラとおこり、ミュージシャンが楽器を手にステージに出てきた。「体育館シューズ」の若い女性が、あ、バンドネオンに女性がいる、と言ってすぐ、アホか私はぁ、と付け加えたのは、そんなことで驚いた自分が許せないってことかな、と解釈し、恭子はにっこりする。そうよね、女性がバンドネオン奏者で驚く理由ないし。だけど実際のところ、アルゼンチンタンゴの世界は男性ホルモンの濃度が高い。バンドネオン奏者だけでなく、歌手以外、有名なミュージシャンはほとんど男性だ。また、ダンスでもリーダーは男性が大多数。さらに、踊っている間フォロワーはリーダーのマーキングにだまって従がわなくっちゃならないときている(ねえ次はガンチョ決めようよ、なんて言っちゃいけないのだ)。言うなれば、不平等な固定的性役割の踊る見本だ。確かに最近は人気のプロに同性ペアや女性リーダーもいるけれど、全体的にはヘテロで男性優位主義という印象は否めない。ミロンガでも、保守的なところだと女性から男性にダンスを申し込んじゃダメ、同性で踊っちゃダメというところもあるらしい。だから、いまどきそういう世界ってどうよ、と敬遠する向きがあるのは、まあ、当然だ。
 でも、私はお客さんだから。恭子は割り切って考える。タンゴ界を改革するとか、そういうのは他の人に任せて、私はいま魅力的に感じることを楽しみたいだけ。前世紀的ヘテロ男性中心主義云々も、タンゴっていうお店にいるときだけ味わえる特別な料理のスパイス、って考えればいいのよ。一歩外に出たらサラサラごめんだけどね。ダブルスタンダードっていったらそうかも。まあ、そういう矛盾を見ないフリで、タンゴの素晴らしさを押し付けられたってのれないわよね。でも……恭子は横顔に微笑を刻む……でも、彼は押しつけがましくないじゃない。連れの男性がさり気なく、今日のミュージシャンたちについて説明するのを、体育館シューズちゃんは、ほおえぇ、と受け流していた。

「ブエナス・ノチェス、ご来賓、紳士、淑女の皆様、ようこそ、ようこそ! ラ・プラタを渡る風、レコレタの緑を濡らす雨、プラサ・デ・マヨのざわめき、そしてタンゴ! 魅惑の夜!」時代がかった言い方のMCが場を盛り上げる。「タンゴは夢、タンゴは愛。皆様、今宵、ともに夢のようなひと時を、オルケスタ・ティピカ・アカバの演奏とともに!」
 バンドネオンが刻むリズムの上を、きらびやかなピアノを伴ってバイオリンが甘いメロディーが奏ではじめると、待ってました、とばかりにダンスフロアのあちこちがさざ波のように動きだす。「ポエマ」だ。……De aquel poema embriagador, ya nada queda entre los dos……。今日、歌手は入ってないけど、カナロのレコーディングではだれが歌ってたんだっけ?  スタンダード中のスタンダードといっていいメロディーを聴きながら、山野はぼんやり歌詞を思い出す。
 
 あの酔わせる詩の
 私たち二人の間には何も残っていない
 私は悲しい別れを告げ
 あなたは私の痛みを感じるだろう
 私の痛みを
 
 森下が、靴を履きおわった女性のほうに、ついっと上体を傾けて言う。
「あのう、あそこに立ってる男性ひと、踊ってほしそうですよ」女性は面くらったようだが、森下は真顔で続ける「さっきからずうっと振り向いてほしそうにしてて……」どの人? と聞く女性に、あそこのベージュのジャケットの、と森下は身を乗り出してさらに説明する。一瞬視線をさまよわせたのち、女性はホール入り口方向に向かってうなずくと、山野らへの会釈もそこそこに、そちらのほうに歩いていった。
「なんかややこしいですねぇ、視線があっちやら、こっちやら飛び交ってて」森下は呆れたようにいう。
 オルケスタはスタンダートナンバーを次々に現代風の色合いを加えて演奏していく。ロッテルダムの芸術大学を卒業した日本人三人が中心になって結成したオルケスタで、若いが国際的なコンサートの場数も踏んでおり、ミロンガでの演奏にも定評がある。
「アルゼンチンじゃなくてオランダなんですか?」
「うん。ロッテルダム・コダーツ芸術大学にはタンゴ専攻の修士過程があるからね。それにあの国ではダンスも盛んなんです。もちろん、今はオランダだけじゃなく、いろいろな国でバンドネオンやタンゴのアンサンブルを学べるますけどね。タンゴはジャズなんかと同じように、もうグローバル音楽だから……」
 グローバル化したらいいってもんじゃないけど、という部分はかろうじて飲み込んだ。なんだか、若い女性が聞いてくれるのに甘えて、愚痴めいたことをしゃべっている老人になったような気がしたからだ。
 
 何回目かのタンダの後、観客の大きな拍手にかぶせてMCが叫ぶ。
「オルケスタ・ティピカ・アカバ! ムーチョス・グラーシャス! さて、皆様、ご来賓、紳士、淑女の皆様、よろしくお愉しみでしょうか? 今宵は特別な夜。さらに特別な、特別なゲストに来ていただいております。世界を吹き渡るアルゼンチンの新しい風、チェチリア・フェラリ、イ、ディエゴ・マンシ、デ、ブエノスアイレス!」
 また大きな拍手が起きると同時に、ダンスフロアにいた人たちはゆっくりとテーブル席や壁際の椅子のほうに退いていく。チェチリアとディエゴのダンス・デモンストレーションがはじまるのだ。間近で観ようというのか、もう椅子がないのか、フロア端の床の上に座り込んでいる人もいる。恭子も田辺と一緒にテーブル席の椅子をフロア中央に向けて座った。田辺は足をかばいながらも結構踊ったらしく、表情は明るい。彼女から、サンディエゴでの二人のデモがどんなに素晴らしかったか、と聞いているので、嫌が上にも期待が高まる。
 手を取り合って中央に出てきたチェチリアとディエゴは、軽くフロアを一周して観客にあいさつする。二人とも黒い衣装。チェチリアは小さなクリスタルがちったホルタートップに脇に長いスリットの入ったスカート。長い脚がどきっとする角度で見え隠れし、口笛やオオーという賞賛の声がやかましい。ディエゴは黒いサテンのシャツにシンプルな黒のジャケットとパンツ。長い髪はぴったりとなでつけてから細くまとめて、ジャケットの内側に垂らしてあるのか、毛束は外からは見えない。もうメガネはかけておらず細く高い鼻梁がシャープな輪郭をみせ、シャツのカフをジャケットの袖から引っ張り出す何気ない仕草までが決まっている。二人はフロアの両端に分かれて立ち、やおらディエゴが人差し指をあげると、間髪を入れずMCがはいった。
「皆様、大変お待たせいたしました。チェチリアとディエゴ、一曲目は永遠のマエストロ、我らがプグリエーセの、Gallo Ciego!」
 
 嵐のようなアンコールとはこういうのをいうのだろう。拍手、口笛、足踏みが続き、観衆は声を合わせて「Otro! Otro! (もう一曲! もう一曲!)」と叫ぶ。恭子も声を合わせながら横を見ると、田辺は涙ぐみながら叫んでいる。タンゴ、タンゴワルツと続けて踊ったので暑いのか、ディエゴはジャケットを脱ぎハンカチで額の汗をおさえる。そしてチェチリアに微笑みかけると再びDJに向かって指をあげた。今度はシンコペーションのはいった二拍子の、早い音楽が始まった。ミロンガだ。ミロンガのリズムは、カリブ海の島々に奴隷として連れてこられたアフリカ人が一緒にもってきた音楽の影響を受けていると言われていて重層的だ。ディエゴとチェチリアはタイトなアブラソで軽快に動き出す。顔も胸も吸い付くように合わさっていて二人の間にすき間はほとんどない。このホールドであのスピードで動いてよく足が絡まったりしないものだ。すると今度はやおら速度を落として、一つ一つのステップをスロー再生のようにみせていく。ステップをわざと失敗したように演じて、しまったという顔つきまでスロー再生してみせる二人のエンターテイナーぶりに場内は大きく沸く。またついと標準速に戻ると、ありとあらゆるステップとエンベリッシュメントを、五十センチ四方ほどの小さな空間の中で正確無比にやってのける。Eso! というかけ声があちこちからとび、口笛、拍手が沸き起こる。そして最後に二人が、目を疑うほど複雑なステップシークエンスで、ダンスフロアを対角線に切り裂いてフィニッシュすると、頂点に達した観客のエネルギーは天井も吹き飛ぶかという大歓声となって爆発した。

甲州街道・午後十一時

「すごかったわねえ」
「すごかったねえ」
 さっきから何度おんなじことを言ってるんだろう……
 電車でも充分帰れる時間だったが、送るわよ、ミロンガのあと人を送るの、慣れてるし、といってくれた田辺の言葉に甘えて、恭子は彼女の車にのりこんだ。二人とも無口だが、時折今日の出来事のワンシーンを思い出したように口に出しては、すごかったわねえ、すごかったねえ、となってしまうのだ。体も疲れているが、今日一日で経験したことが多すぎて、頭もオーバーヒートしているのだ。静かな車内に座っていても、記憶がわきたってイメージが濁流のように押し寄せてくる。
 いまや恭子と田辺はある点で完全な意見の一致をみている。それは、ディエゴ・マンシは天才である、という点だ。もちろん、チェチリアもずば抜けて才能あるダンサーだし、二人のパートナーシップはまさに天の配材というしかない。でも、ディエゴはがいなかったらこの奇跡は成立しない。彼の音楽に直接連結する能力、時空を自在に操る動き、そしてパフオーマンスの場に何かを引き寄せる力。オカルト懸かって聞こえるが、そういう能力を持った人がいる、ということを恭子は知っている。フラメンコでいうところのドゥエンデを呼ぶ力だ。ディエゴはただのうまいダンサーじゃない。神様に選ばれた特別のなにか、なんだ。

 文字通り観客を熱狂の渦に叩き込んだチェチリアとディエゴのデモのあと、ダンスフロアは何事もなかったかのように再開し、人々はまた灯に引き寄せられる蛾のようにロンダに引き込まれていった。汗と涙にまみれた顔で、ちょっとお化粧直してくる、と立っていく田辺の背中をみながら、恭子はこの後どうしたらいいんだろうと考えていた。もっと踊る? でも誰と? あんな踊りをみせられたらほかの誰とも踊る気なんかしなくなる。ボンヤリVIP席のほうを見ると、もう着替えたらしく、今度は白いシャツのディエゴと白いミニドレスのチェチリアが見える。二人はテーブル席の後ろを大回りし、ステージの前を横切ってホール反対側に歩いていく。そして例の予約席の前までくると「体育館シューズ」の若い女性とその連れの男性に親しげに話しかけている。チェチリアが椅子に座って何かを紙に書きながら屈託ない様子で体育館シューズ嬢と話をしている様子には、先ほどの超人的なところは微塵もない。その様子を見守るディエゴも、優しいお兄さん、という感じだ。この人のどこにあの魔物がすんでいるのだろう? そう思って見つめる恭子とディエゴの視線が一瞬交差した。私を見た! 恭子は必死に彼の視線に縋りつくが、コンタクトはスーッと切れてしまう。ディエゴたちのほうにジュンジがやってきて、皆に軽くあいさつしてからチェチリアにダンスを申し込む。チェチリアは気さくに笑って立ち上がり、ジュンジとダンスフロアのほうに歩いていく。
 二人が踊りの輪に溶け込んでいくのをしばらくボーっと眺めてから、そうね、私も化粧直しでもしよう、と恭子はのろのろ立ち上がる。化粧室の方へ一歩踏み出したところで誰かにぶつかった。あ、すみません、慌てて離れようとする恭子の体を、くすんだ色の手がすっと捕える。奥まった褐色の目、後ろにぴっちりなでつけてからまとめた長い黒髪。……じゃあ一曲踊りましょう。……しゃれた返事なんて出てこない。顔なんて怖くて見られない。胸元をしがみつくように凝視するのが精いっぱいだ。白いシャツの襟もとから太陽を吸った肌がのぞく。その上には、小さな楔形の石がついた細い銀の鎖が下がっている……。ディエゴはその場に立ちすくむ恭子のトルソに腕をまわすと、彼女を音楽の中に連れ去った。
 
 ディエゴのマーキングは恭子に告げる。私たちは一本の線の上を歩く。一ミリ右でも左でもなく、私の動線ラインの真上を。早く、遅く、大きく、小さく。私達の一歩一歩は大地を目覚めさせ、そのエネルギーを開放する……。世界が始まる前から決定していたかのような確信で与えられる指示の前に、私の意図なんて入る隙はない……恭子は自分を明け渡す。大きく開いた彼女の中を高エネルギーの粒子が流れ、彼女の背中から噴き出す。そうして二人は大きな一つのナイフとなって、世界を切り裂いていく。
 
 田辺が何か言った。……え、うん、そう、ここを右折。黄色い光が一瞬恭子の体を照らし出した。自分の体じゃないみたいだ。余韻というには強すぎる感覚が、波のように何度も押し寄せてくるのを持て余しながら、恭子はまた記憶の中に沈み込んでいった。

あの娘はだあれ?(三)

 なぜ震えているのですか? 泣いているのですか? 心配はいりません。私の胸は安全です。大きな鳥が羽を広げるように、私は両腕であなたを包んで守ります。何も心配することはありません。私と踊ってくれますか? 

ブエノスアイレス・午後四時

 キッチンテーブルの上にメモがのっている。ラップトップやら靴やらで妙な形にふくらんだバックパックをひとまず床に置き、ディエゴはメモを手に取って読む。お帰りディエゴ! チキンと野菜のスープあります(コンロの鍋の中)。今回時間がなくて作れなかったのでドゥルチェ・デ・レチェはなし。ダニエラに謝っておいて。ルーシーに私からキスを。ママ✕O✕Oハグとキス。 鍋の中は一応覗いてみたが、もう少し腹にたまるものが欲しくて、冷蔵庫をあけ、昨日の残りのラザニアと、ミルクのプラスチックボトルを取り出す。手早くミルクをコップに注ぎ、ラザニアをレンジにいれ温めている間に、冷凍庫をあけて中をチェックする。年季の入ったアルミの大きな容器が二つ、どん、と入っていて、一つの蓋にはチョコレート、もう一つにはピスタチオと書いた小さな紙がテープではってある。……ピスタチオ、いいじゃんか。チン、という音で、冷凍庫を閉めレンジを開け、手早く腹ごしらえをする。四時半過ぎのボスケス行きに間に合うだろう。

クライポレ・午後六時

 S. y Kosteki駅からロカ線、バスと乗り継いでもでクライポレまでは一時間もかからない。バス停のある表通りから一つはいった脇道を、ディエゴは、チョコとピスタチオのアイスクリームの容器が入ったクーラーボックスを肩からさげて足早に歩く。右手の空き地に真新しいトラックが数台停まっていて、ドライバーらしき男が数人、大きなコンクリートブロックに腰掛けてマテを飲んでいる。一人がストローから口を離し、手を振ってディエゴに叫ぶ。ダニエラはさっきもう出たから、勝手にカギ開けて入ってくれ。ディエゴは軽く手を振り返して、わかった、と合図をする。
 空き地を過ぎるとすぐ、ところどころ白いペンキの剥げた鉄の檻のような扉が見えてきた。シリアルのおまけのキーホルダーについた古いほうのカギで錠を開け、できるだけ音がしないようにゆっくり外扉をあける。さらにもう一つのカギで入口のドアを開けて中に入り、電気をつけ、クーラーボックスをカウンターの横に置いてから、奥の階段を登って二階のルーシーの部屋までいく。
 ルーシーはベッドの中で寝具に埋もれるようにして眠っていた。しわ深い口が少し開いて、息が規則正しく出入りしている。そっと傍に寄ってボサボサとした白い髪をゆっくりなでてやると、黄色くくぼんだ眼窩の奥で水色の目が開いた。眼球がグルリとまわってディエゴの方をみる。
「ルーシー、気分はどう? オンチャがよろしく、って」
 そういってディエゴはルーシーのしわくちゃになった絹地のような頬に片方ずつキスをした。
「オンチャ、オンチャって?」
「いい人だよ」
「そう? そうね、きっとそうね」
 あなたの娘だよ、と言ってやったとしてもおそらくルーシーはもう思い出せない。数年前までは真偽ゴタ混ぜながらそれなりに一貫性のある話を(なぜ自分の子供たちはアタワルパの直系なのか、なと)滔々と語ったりしていたが、最近は自分から話すこともほとんどない。
「あなたは?」
「ディエゴだよ」
「ディエゴ。ディエゴ……」
 そう言ってルーシーはディエゴの顔に目を当てていたが、ついと手を伸ばすと彼の頭に触り、長い髪が後ろでまとめてあるのを確かめてから、声に力を込めていった。
「切ったらだめだよ。切ったら。恐ろしいことが起こるから!」
「うん、切らないよ」
 するとルーシーは安心したようにまた浅い眠りに戻っていった。

 店のカウンターのアイスクリーム用保冷スペースに、持ってきたチョコレートとピスタチオのアイスの容器を入れる。その横のガラスケースには、すでにハムとチーズのサンドイッチがきれいに耳を落とされて積まれている。母の祖父(だからディエゴの曽祖父)が住居兼Heladeríaアイスクリームパーラーとして使っていたこの建物の一階は通りに面した小さな店舗で、今は、叔母のダニエラが、日常雑貨やスナック的な食べ物を売る店として使っている。二階、三階の住居スペースには、ダニエラとオンチャの母(つまりディエゴの祖母)のルーシーが一人住んでいる。といってもルーシーはもう自分で家事をすることはできない。だから身の回りの面倒は、近くに家族と住んでいるダニエラがみている。最近ルーシーは家から出てくることもあまりないが、一時徘徊のようなこと続いたことがあって、オンチャとダニエラは交代でここに泊まりこんでいた。その時期、店に残されたガラクタを整理していたオンチャが祖父のアイスクリームのレシピをみつけ、興味半分で再現してみたところこれがなかなかで、ダニエラの店に出してみようという話になり、出してみたら評判がよく……、という作り話のような展開で、Heladería Manci のアイスクリームは再びカウンターの一角を占めるようになった。はじめは店に眠っていた古い道具を使っていたのだが、効率が悪いということで、オンチャは中古のアイスクリームマシンを買い込み、自宅で作ったアイスクリームを、週一・二回ディエゴがダニエラに届けるという形で落ち着いている。
 オンチャは二つの仕事のあい間に時間をみつけては家のキッチンでアイスクリームを仕込んでいる。ドゥルチェ・デ・レチェはミルク、クリーム、砂糖を煮詰めて作る一種のキャラメルで、作るのに時間がかかる。それをさらにフレッシュクリームなどと混ぜて作ったアイスクリームは一番人気のフレーバーだが、今週オンチャは仕事で手いっぱいだったようだ。ディエゴが起きる前に一つ目の仕事に行き、学校にいる間に帰ってきて仮眠をとり、二つ目の仕事に出かけるのはいつものことだが、今週はディエゴが眠ってから帰ってきているので、夜も顔を合わせていない。

 ドリンクの保冷ケースに水や缶コーラを補充していると、ヴァウターが店に入ってきた。ヴァウターはダニエラの夫で、交通エンジニアだが今はトラックのドライバーをしている。
「おう、どうだ? ルーシーは?」
「寝てる」
「おう。ダニエラはホセファのチアに行ってて」
「知ってる。決勝なんでしょう?」
「オレはもうすぐ出ないといけないし」
「知ってる。だからダニエラが帰ってくるまで店番するよ」
「助かるよ」
 ホセファはヴァウターとダニエラの娘で、チアダンスのグループに入っている。今日は地区のトーナメントの決勝で、いつもならダンス全般に興味のないヴァウターがダニエラの代わりに店番するところが、急に長距離の仕事が入ってしまって、ということをディエゴはきいていた。
「仕事忙しいの? どこまで?」
「サンチアゴ・デル・エステロ」
「遠いね。でも商売繁盛はいいことだね」
 さっき空き地で見た真新しいトラックを思い出しながらディエゴは言った。ヴァウターは小さく肩をすくめると店の奥に向かい、大きな魔法瓶の水筒に湯をいれ、新しいマテの袋やらスナック、オレンジ、水などをバッグに入れている。すると通りから女の声がして、ヴァウターは、出発は六時半、と大きな声で答えた。
 ヴァウターが運ぶのは貨物だが、余裕があるとき乗客を乗せることもある。今日の乗客は女で、大きなキャリーバッグをゴロゴロ引いて店に入ってきた。ぐるっとあたりを見回し、スナックの袋などを手にとっていたが、やがてカウンターにやってきてアイスクリームを注文した。ディエゴがチョコとピスタチオを一掬いずつカップに入れている間に、女は財布を探している。みつからないのか、ジャケットの前を開け内ポケットやあちこちを探っている。Tシャツの裾はわざとハサミで切って短くしてあり、胸の上にプリントされた太陽の模様が黄色くテラテラと光っている。ようやくどこからかペソ紙幣をつかみ出してカウンターの上に置いた。ディエゴがアイスクリームのはいった紙のカップとプラスチックのスプーンを、どうぞ、と差し出すと、女は、あんた息子? と聞いた。ディエゴが首を横に振ると、女は何も言わずに片手でカップとスプーンを注意深く受け取り、ゴロゴロと店の外に出て行った。

ブエノスアイレス・午後十一時

 ありがとう、と手をふると、ブワーンというクラクションの音がこたえて、トラックはゆっくり離れていった。ディエゴは家に向かって歩き始める。クーラーボックスの中で店の裏の木でとれたレモンと、空になった先週のアイスのアルミ容器とがぶつかって、ゴワンゴワン、と音を立てる。
 
 ダニエラは、ホセファと下の子のマヌエラを連れて、八時ごろ店にやってきた。途中エンパナダを買ってきたのよ、いっしょに食べましょう! ホセファとマヌエラがカウンターの周りに手際よく椅子をならべる間にダニエラがゆっくりとルーシーを二階から連れてくる。紙の上に広げられたエンパナダはまだあたたかくて、皆はしばらく黙々と口を動かし、とサクサクした小麦粉の皮に包まれたジューシーなひき肉の具を楽しんだ。そのあと今日のチアの出来とか(ホセファのチームは残念ながら二位だった)借りた家庭菜園で作っている野菜のこととか(セロリが育ちすぎてスが立ってしまった)を一通りきいたあと、ディエゴはそろそろ帰るよ、と立ち上がった。
 「市のほうに行くトラッカーがいないか、きいてあげるわ」
 そう言うとダニエラは一緒に立ち上がり、ルーシーの方をちらりとみて、空き地まで行って戻ってくるからそのあいだお願いね、とホセファたちに言った。ディエゴはルーシーのほうに屈みこみ、じゃあまた来週、とサヨナラのキスをしようとした。すると、さっきまで無表情だったルーシーがおびえたような顔をしている。どうしたの? と聞くと、ルーシーは、空き地に行っちゃいけない、と言う。大丈夫よママ、麻薬の密売人はもういないし、トラッカー仲間もいるし、とダニエラが言っても、ルーシーは空き地に行っちゃいけない、と繰り返す。ディエゴは、わかったよ、空き地にはいかないよ、とルーシーに優しく言う。ルーシーはまだおびえたように空き地に行っちゃいけないよ、と繰り返す。わかったよ、行かないよ。ディエゴも繰り返す。ルーシーはディエゴの髪にさわり、繰り返す。
「いいかい、切ったらいけないよ。切ったら恐ろしいことが起こるよ」
 
 ディエゴと一緒に通りを歩きながらダニエラはうんざりしたように言う。
「まあ今に始まったことじゃないから。ママの迷信・誇大妄想・こじつけは昔っから。髪を切ろうが切るまいが、不幸は起きるときに起きるのよ! ……あなたは優しいから。でも、ママの迷信に付き合う必要なんてないのよ!」
 ダニエラはディエゴの髪にちらと目をやってから、つかつかと空き地入っていき休憩中のトラッカーに話しかけた。
 
 家のドアを開けると、電気がついていて、お帰り、という声がした。まだ帰ってはいないだろうと思っていたので、ディエゴは驚いてアパートのドアの枠にクーラーボックスをぶつけてしまった。
「早いじゃん、今日は」
「うーん、まあいろいろあって」少し疲れた顔でオンチャはいう「いまスープ温めてるんだけど、食べる?」
「うん」
 今日はいい日だ。ディエゴは思う。家族と食べる夕食が二回だ。 

中野・午後十時

 ううん、違うな。Newman作者の語り口と合わない。下訳を矯めつ眇めつしながら、さて、どのように直したものか、と恭子は考える。彼の語り口はもっとさらっとしていてで感情があからさまにぶつかり合うシーンでもドロドロしない。だからこんなひどい暴力と搾取の物語でも読もうって思えるんだ。巧みに隠された支配と隷属の構図をあぶりだす「彼」と「彼女」の会話。一見平穏な日常会話が一行ごとに拷問へと滑り落ちていく。確かにこういう怪物的なキャラクターに言葉をあてるのって、しんどいよね。下訳の行間から、勘弁してよ、というミカさん(ミキさん?)の声が聞こえるようだ。
 怖いよねこういうの。フィクションってわかっていても、なにを信じたらいいのかわからなくなる。誰の心にもある負のコンポーネントがこんなに表面近くに漂ってる、それがいつ現実とリンクするかわからない、って。なぜかディエゴのイメージが浮かぶ。成功の物語が光に満ち溢れるほど、見えない闇の濃さが増すんだ...…。怖いもの見たさなのかもしれないな。恭子は「セミ・プライベートレッスン」と書かれたチラシをもてあそんだ。

新宿・午後二時

 今日はこれから研修だよん。じゃあまたあとで! 同じ文面を張り付けて五通目のメッセージに返信する。他のアプリと合わせると少なくとも十通は同じメッセージを送ったろう。最後のアプリをあけると、新着メッセージは0件。ふう、とため息をついて隣をみると、ユージも同じように忙しく携帯をいじっている。ソーシャルメディアはホストの最強営業ツール、友達・フォロワー登録数は営業成績の一部だ。ユージはオンライン営業に熱心でユーチューブチャンネルも持っている(「ユージのホスト飯」といって、いかにもホストな衣装にエプロンをかけたユージが、わりと本格的だが短時間にできて美味い料理をつくる、という趣向)。今二人が並んで座っているのは、しかし、クラブの控室ではなく新宿のダンス教室のベンチだ。そこで今日の「研修」が始まるのを待っているのだ。……ウチはね、其処らの素人集めただけのクラブとは違うんだよ。マネージャーさんはいった。お客さんにオーセンティック正統的なホストクラブを楽しんでいただくために、ちゃんとスタッフに投資してるんだ。だから、そのつもりでやってきてよ……、というわけで、おれたちはセミプロ向けのアルゼンチンタンゴのクラスに突っ込まれ、セミプロのタンゴペア(男の方の眉間に、プロ目指してます、的なシワがよっている)やプロのヒップポップダンサーに交じってレッスン受けてる。まあ、おれらは別系統のプロなので、ハナから大した結果は期待せずにやってるが(大体、男二人でダンスの練習だぜ)、インストラクターのジュンジさんは、いい線いってるよ! といってくれてる(よっ、営業上手!)
「昔、移民があふれてた頃のブエノスアイレスは女性が男よりずっと少なくて、男同士の練習は普通だったんだよ」
 だそうだが、やっぱちょっとトホホ。
 時間通りにジュンジさんとパートナーのユミさんが、おはようございまーす、とスタジオに入ってきて音楽をかける。
「はーい。じゃあウオームアップねー。みんな各自で動いてー」
 タンゴは古くさい音楽だけど嫌いじゃない。とりあえずユージがフォロワーってことでアブラソを作っておれたちも動き出す。フロアを反時計回りに進みながら先週習ったことをやってみる。フォロワーの足をとるサカーダというステップが結構難しい。ユージをサイドにリードしておいてから体重のかかってないほうの足をとる。とる、といっても、自分の足のサイドを相手の足に一瞬添わせる感じだ。今度はユージを前に動かして後ろの足をサカーダ、後ろに動かして前の足をサカーダ。そうしながら、おれはユージが動いた後のスペースに滑り込む。いわば足取り追いかけっこだがフォロワーと息が合わないと足を逃したり、動きがぎくしゃくしたりする。
「はーい。じゃあ今日はコレやってみましょう」
 ジュンジさんとユミさんがフロア中央でお見本をみせる。ユミさんがバックステップでなげ出した後ろ足に体重が乗り出した瞬間、彼女の前足がある場所をめがけてジュンジさんの片足が踏み込む。押し出されたユミさんの足はスーッと床の上に弧を描いて後ろに動いていく。サカーダ、スーッ、サカーダ、スーッ。おれとユージでは当然そんなスムーズにはいかない。(オレの客でこれできる人いないと思う、というユージLOVE)
 パートナチェンジしてヒップホップの女と組む。おれの胸くらいまでの背丈なので一瞬アブラソでまごつくが、動き出してみると体にばねがあって踊りやすい。びよーんという感じで女を押し出す、踏み込んでサカーダ、スーッ、また、びよーん、踏み込んでサカーダ、スーッ。面白くなって、えいっ、と勢いよく踏み込むと、足だけでなく膝のあたりから下の脚全体が女の脚の内側に触れ、押し出しされた彼女の脚は床から離れて空中に弧を描いて飛んで行った。やばい、やりすぎた。慌ててレゾルーション締めくくりのステップにもちこもうとデタラメに動いたら、今度は女の脚がぶわん、と動いておれの腰のあたりにがっちり絡んだ。
「ウワーオ! アンタ、コレ、お客さんにやったら、絶対落ちるヨ!」
 ヒップホップ女は笑って言ったが、ありえんっしょ、シチュエーション的に。

ブエノスアイレス・午前九時

 申し込み締め切りは六月三十日、推薦者が二人必要。セラーノ先生のほかにもう一人誰かに頼まなくちゃならない。ディエゴはダウンロードした募集要綱をにらむ。パタゴニアの地表水調査のための一般支援員募集だ。複数のベースキャンプに資材や食料を届けたり、キャンプで出る様々なゴミ・廃棄物を管理回収したりと、いうなれば雑用係だが、若い世代にこういう地味な環境調査活動を直接体験して興味を持ってもらおう、ということで「ジュニア枠」が設けられていて、今年の十月一日で十八歳以上二十歳未満であれば、環境調査の経験がなくても応募できる。期間は半年、キャンプでの生活費は調査隊持ち、少しだが給料もでる。昨夜この募集のことを話した時、オンチャは少しびっくりしたようだった。地元の大学の応募書類もいくつか学校から貰ってきてあったから、そのままそっちに進むと考えていたのだろう。面白そうねと言ったあと、
「でも半年、ってちょっと中途半端じゃない? その後はどうするの?」と訊く。
「しょうがないんだよ、五月以降地表水は凍り付いちゃうし。あとの半分はバイトして、来年度から大学に行く資金をためるよ」
 オンチャはすこしまぶしいような顔をして、そう、といって二人分のスープ皿を片付けにかかった。
 
 セラーノ先生は二つ返事で推薦書を書くのを引き受けてくれた。いいね。とてもいい経験になると思うよ。でもきっと競争率は高い。だから、やっぱりプランBは作っておいた方がいいね。地元の大学へ応募書類はもう準備したかい? 外国よその大学も調べてみた? サンチアゴ・デ・チリの地球科学学部もとてもいいよ。アリゾナの環境科学学部も……。外国の、それもアメリカの大学に進んだらオンチャはとても喜んでくれるだろう。二つ目の仕事を今のに変えた時、あなたの留学資金とかもいるかもしれないしね、と冗談っぽく言っていた。でも正直に言うとディエゴは留学にあまり興味がない。どこかに、それではどうにもならない、という漠然とした閉塞感がある。でもこの募集をみた時、パタゴニアの冷たい風がこの閉塞感を払ってくれるような気がした。なぜそういうふうに感じたのかはわからない。でも今もそう感じる。

ブエノスアイレス・午前十一時

 税関のオフィスは九時に開いたが、担当者は十一時になってやっと空港での緊急検疫から戻ってきた。急に調子が悪くなった馬の輸出書類に問題があって、という担当官の話を聞きながら、競走馬かな、と真澄は思った。アルゼンチンは有数の産馬国で、特にアルゼンチン産のサラブレッドは天文学的な価格で取引され、ヨーロッパの有名育成牧場や中東のオーナーの厩舎などに細心の注意を払って空輸される。従って、馬に何かあると、共積みの貨物や乗客まで足止めを食らうこともまれではない。それに比べると真澄が運び出そうとしているものはずっと地味だ。今、税関の倉庫に足止めされている彼女の荷物は化石、それも恐竜のではなく、白亜紀の初め火山の噴火とアンデス山脈の形成に伴って押し流されて埋もれた植物の化石標本だ。貴重という点では競走馬に全くひけは取らないが、死んだりする心配はもうないので税関の優先度もそれなりになる。
 アルゼンチンは化石の産出国としても知られていて、世界中から古生物学者が集まって発掘、保全、研究に忙しい。植物の化石というとサンタ・クルスの「化石の森」、ペトリフィカドスが有名だが、真澄たちのグループが集めたのはもっと小型の、葉や種子の化石だ。税関から書類不備で通関できません、という短いメールが届いてからメールや電話で何度もやり取りしたが埒が明かず、担当の係官と直接話をするために予約を取って、真澄は発掘拠点のあるサルミエントからブエノスアイレスに二日がかりでやってきた。アリゾナの研究所に送るための通関書類は合計十五枚、今まで何度も同じ様式を使って同じような標本を送っているので、どうして今回はダメなのかさっぱりわからない。真澄は居住まいを正して担当官に向かい合った。 

クライポレ・午後二時

 店の入り口からヴァウターともう一人小柄な人が入ってきた。ディエゴとダニエラはしゃべるのをやめて、客のほうに注意をむける。ホケットがあちこちについたジャケットをきて、素っ気ないワークパンツにワークブーツ、小ぶりのバックパックを肩からぶら下げた東洋人の女性だ。少し日に焼けた顔はつるんとしていてシワはないが、顎のあたりでぱっつり切った黒い髪には白い筋が何本か流れている。必要なものは大体ここでそろうと思いますよ。準備できたら声かけてください、貨物室開けますから。そう言ってからヴァウターはダニエラとディエゴに軽く視線をなげてかけて外へ出て行った。東洋人の女性は日用品コーナーに行き、ダックテープをみつけるとすべて棚からとりだしてカウンターに置き、カッター、ハサミ、プラスチックラップ、ビニールのごみ袋、キッチンペーパーなどを、次々と上に積み重ねていく。最後にオレンジと水のボトルを乗せると、具はなんですか? とガラスケースのサンドイッチを指さした。
 ディエゴがハムとチーズのサンドイッチを紙に包んで、膨らんだビニールの買い物袋の一番上にそっとのせてやると、女性は、ありがとう、と言い、それからダニエラに、古い毛布みたいなやわらかくて下に敷けるものありませんか? と訊いた。上にあるかもしれないから探してみます、と言ったディエゴに、ありがとう、と言うと、女性は膨らんだ買い物袋をもって足早に店から出て行った。
 
 プロフェッサー・サカモト、何度も申し上げているように、カテゴリーB1とカテゴリーB2の文化財は一緒に送れないんです。気の毒そうに担当官は言った。いったん荷物はお返ししますので、別にしてから再度、この書類もつけて送ってください。去年の盗掘品売買事件のあといろいろ規定が変わりまして……。アレは小型恐竜の化石で、スペインに向けて密輸されたんじゃない! などと怒鳴ったところで事態は好転しない。真澄は腹立ちをこらえて税関のロビーに戻ってくると、善後策を検討するためサルミエントのチームに電話をかけた。……標本は数個ずつ標本箱に詰めてから大きな木箱2つに分けて詰められている。だから、いったん標本箱を取り出して(科学的には意味はないけれど)カテゴリーB1とB2にわけて木箱に詰め直すことはできる。だが物が物だけに、詰めなおしを運送会社に丸投げというわけにはいかない。サルミエントに送り返して詰めなおすのでは往復で一週間はロスがでる。結局、どこかブエノスアイレスで真澄が指揮をとって詰め直すのが一番だろう、ということになった。
 
 女性は薄暗いトラックの貨物室の床に座ってラップトップで何かチェックしていたが、ディエゴが古い寝袋をもってよじ登ってくるとのに気づくと、ありがとう! と立ち上がった。貨物室の中にはパッキング用プラシートでぐるぐる巻きにされた机くらいの大きさの荷物が一つ載っているだけだ。ディエゴが寝袋をその前に置くと、女性はサンドイッチの最後のひとかけを口に押し込んで、カッターで荷物のプラシートを切り始める。シートは静電気で彼女の手や体に絡みつき切りにくそうだ。ディエゴは買い物袋から顔をのぞかせているハサミを手にとると、刃を広げてカッターのようにしてシートをザクザクと切りだした。女性はまた、ありがとう、と言った。

ロカ線・午後九時

 標本の詰め直しをする場所がみつからず、トラックの荷台でやるしかない、となったときにはどうなることかと思ったが、作業は心配したよりずっとスムーズに進んだ。標本箱を詰めなおすと木箱の内容物リストも更新する必要があったが、店にいた男の子が、仕分けしながら標本箱の通し番号を読み上げてくれたので、詰めなおしと同時にリストの編集ができて助かった。男の子はディエゴといって高校生。ブエノスアイレス市に住んでいるが、郊外の叔母さんの店を時々手伝いにくるのだそうだ。彼は高校生らしい好奇心で様々な質問を発する。真澄も問われるままに答える。標本箱に入っているのは、六千五百万年前の葉や種子の化石であること。化石は小さな種一つにまで認識番号がついていて、これが振られない限り発掘現場から持ち出されないこと、発掘現場から研究施設に移された標本は、写真やその他の分析結果とタグづけられて。国際的なデータベースに登録されること……。短い受け答えから、彼が頭のいい子だということがよくわかる。仕分けと詰めなおしがおわり、木箱を閉め仮封印する。明日ドライバーが運送会社に持ち込んで本封印と再パッキングが終われば、アリゾナへの輸送を再開できるはずだ。その旨はもう運送会社とチームにメールしたし、チームからはすでに記入された追加の通関書類がメールで届いている。
 お店の名物というアイスクリームを食べてから、真澄はディエゴと一緒にブエノスアイレス市のホテルに帰ることにした。近くのバス乗り場に向かって歩いていくと、トラックの止まっている空き地(駐車場?)から標本を運んでくれたドライバーが手を振ったので、こちらも手を振り返す。空き地の中は貨物トラックに便乗していく人たちだろうか、二十人近くが各々の荷物に腰掛けたりして「乗車」が始まるのを待っている。 
 バスから郊外線に乗り継いで電車にゆられながら、ディエゴの話を聞く。厳密にいうとブエノスアイレス市ではなく市と県の境の川を超えたあたりに住んでいること、環境学に興味があること、ギャップイヤーをとって、パタゴニアの地表水測量プロジェクトの支援員をやってみようと思っていること……。真澄には子供はいない。でも自分に息子がいたらこんな話をするのかな。

あの娘はだあれ?(四)

 あなたが私を忘れてしまっても、私があなたを忘れてしまっても、それは問題ではありません。私は今あなたを見ています。私は今あなたを愛しています。美しい人、あなたは今、私の愛を感じているでしょう? だからもう泣かないで。

レヴュー記事

……小杉のバンドネオンと共に二人が描き出したのはまさに様々な風の記憶。恋人たちを優しく包む初夏の風、すべてを飲み込む恋の熱風、二人を分かつ乾いた砂交じりの風。マンシとフェラリは、明らかにアルゼンチンタンゴの過去と未来の奇跡のような接点に立っていた。かつてフラメンコのガデスとオヨスがそうであったように。

新宿・午後四時

 雑居ビルの七階、流れるようなフォントで「Milo」と書かれたドアを開けると、明るく照明された受付とロビー広がっていた。高級スポーツクラブのようで、タンゴを思わせるものは掲示板に貼られたユミとジュンジの小さなポスター以外はない。掲示板の週間予定にはサルサやヒップホップに交じってプラクティカ・フエベス、19:00―20:30と書かれている。今日、恭子と田辺はこのダンススタジオに、ディエゴとチェチリアのセミ・プライベートレッスンを受けるためやって来た。スポーツインストラクターのような受付女性に言われるまま、二人は初回登録用紙を受け取る。黙って記入している田辺の横顔にきれいにカラーリングした髪が緩いカーブを描いてかかる。忙しく動く彼女の手と一緒に薄っすらしたシミも動く。恭子は自分の右手の甲を左手で何回かこすってから、記入し終えた用紙を受付に差し出した。
 受付の女性が情報を入力しているのを待っていると、ガラスの内扉が開いて人が出てきた。ヒップホップダンサーみたいな二人、ボールルーム系の人、携帯を片手に出てきたのはホストっぽい男の子。そして……
「あ、ちわっす」
 恭子の視線に一瞬おくれて翔がいう。
「え、翔ちゃん、今日、何?」
「えー、一応『研修』なんで」
 言葉を交わす二人の向こうで男の子が携帯から目を離し、恭子と田辺をざざっと値踏みする。
「研修? なんの?」
「え。まあ、いろいろ」
 翔は自然体で立って田辺の視線を受け流し、連れの男の子のほうをちらっと振り返る。恭子の次の質問が言葉になる前に、翔は、じゃ今からアレなんで、と言い、携帯メッセージを送るような身振りをしてから男の子と一緒にスタジオから出て行った。……そういえば最近連絡してない、彼の後ろ姿がドアの向こうに消え、思い出したように恭子が田辺の方を振り返ると、彼女は表情のない顔でガラスの内扉の方を見ていた。
 
 レッスンの後、スタジオからロビーの方へ歩いていくユージと別れ、翔は手洗いに寄った。手洗いを済ませロビーの方に歩きだしたその時、反対側で声がした。外国人の女と男が廊下の向こうの端に立っている。女は必死に男に何か言っている。が、男は顔を半ば背けて、女の声が当たるに任せている。髪が長くって、くすんだ色の肌だが黒人じゃない。女はまた絞り出すように何か言ったが、男は聞いていない。無視してるんじゃないが、聞いてない。コイツ、ひでえな、と翔は瞬間的に思った。ヤならヤって言ってやれよ。それともお前ヒモか? 男に本質的に嫌なものを感じて翔は鼻にしわを寄せた。人に気配に気づいた女が振り返る。きれいなコだが泣いて目のあたりや頬がまだらに赤くなっている。大丈夫、と聞くべきか一瞬まよって、女のいる方の脚に体重を移した途端、男の視線が翔をバーンとぶっ飛ばした。なんだよ、むっとして翔は男の視線を押し返す。……ヒモなんだったら、最低女大事にしろよ。男と女は背を向けて控室に入っていく。なんだよ、ヒモなんだったら、最低限、金づるは大事にしろよ。翔はもう一回鼻にしわを寄せると出口の方に歩き出した。

新宿・午後六時

 セミ・プライベートレッスンの後、田辺が、高野さん、ちょっとお茶していかない? と恭子を誘った。田辺が案内したスタジオ近くのカフェ・バーは、昼のカフェから夜のバーに移る時間帯で、店内は閑散としている。お茶にしようかお酒にしようか恭子が迷っていると、田辺はカンパリソーダを注文したので、恭子も白ワインにする。今日のレッスンで習ったバレエ・バーを使ってのボレオの練習のことなどから始まって、話は自然と先日のトッパンホールでのディエゴとチェチリアの公演のことになる。あの公演に立ち会えたこと自体が奇跡のようなことだった、と恭子は思う。どの演目も素晴らしかったが、ディエゴがアンコールで踊ったフォルクローレのソロは、恭子が今まで観たどのパフォーマンスより素晴らしかった。舞台の中央に立ったディエゴは、フラメンコとは違った、蹴りつけるようなサパテアード足拍子でゆっくりと大地を揺り動かしていく。バンドネオンの即興が舞台に風を吹きつけ、ディエゴの回すボレアドラスの、長い紐の先についた石が、カツン、カツン、と近づいてくる運命の足音のように響きだす。風の吹きすさぶ大地でダンサーは運命に翻弄され、もがき、そして永遠の停止を迎える。ディエゴが動きを止めた瞬間、確かに宇宙は一旦停止した。
 あんな舞台はつくろうと思ってつくれるものじゃない。思い出して身震いする恭子に、田辺は言った。
「あたしね、ディエゴを送っていったことあるの。ミロンガの後に」
 
「じゃあお願いね、キヨーミ!」
 オーガナイザーの女性は、心配そうにディエゴが田辺のレンタカーの助手席に乗り込むのを手助けしてから、そう言った。大丈夫、ホテルはすぐそこだし。田辺は笑って彼女に手を振る。サンディエゴのワークショップとミロンガのあと、ディエゴはチェチリアと一緒にオーガナイザー主催のアフターパーティーに出る予定だったが、急に具合が悪くなり、チェチリアと別れてホテルに一足先に帰ることになった。たまたま同じホテルだった田辺は二つ返事で運転手を引き受けた。
 ドライブウエーから右折して車道にのるとき、ちらりとディエゴの様子を見る。大丈夫、というように微笑み返す表情が弱々しい。ホテルについても辛そうにこめかみを抑えている彼に代わって、部屋のカギを開けてやると、彼は崩れるようにベッド脇の椅子に座り込んだ。大丈夫? 何か他にできることは? と訊く田辺に、彼は血の気のない顔をあげて、じゃあ水を、という。水を飲むと少し楽になったのか、ディエゴはグラスを手に持ったまま口を開く。……エネルギーを吸い取られるんです……そして何かが自分に絡みつくようなゼスチャーして……こんな風に。確かに、あんなに熱狂する観客の視線を一身に集めたら、消耗するのも無理ないわ。とにかく、今晩はよく休養して元気を回復してね。そう言って田辺は彼の手からグラスを取り、もう一度水を注いで差し出した。水滴のついたグラスを受け取った彼のくすんだ色の手はベッドサイドのテーブルにそれを置くと、田辺の手をとり、ありがとう、と言い、そしてそのまま離さなかった。
 
 でもね、レイプとか、そんなんじゃないのよ。田辺は続ける。私にとってはあんな神様のような体、拒否する理由がなかった。黙って見つめている恭子に微笑んで、田辺は空のカンパリのグラスのふちに触る。でも、彼にとっては私とのことなんて何の意味もない、っていうか、ただのLow hanging fruitsっていうか。東洋人なんてみんなおんなじに見えるから、覚えてるわけないしね……。
 言葉を探しあぐねている恭子に、田辺が言った。
「今日スタジオの入り口で会った若いコ、お友達?」
 彼女が答えを必要としていないことは明らかだった。共犯者のような微笑を浮かべている田辺の顔に、ヘアカラーのオレンジっぽい反射がかすかにかかっているのを、恭子は黙ってみつめていた。 

ブエノスアイレス・午後十時

 志望動機は、地球環境問題に興味があって、だけれど、それはだれもが書くことだろうから、それだけでは駄目だ。ディエゴは、ふうっ、と天井をあおぐ。明日までに応募書類に添付する志望動機の下書きを書き上げて、添削してもらうためにセラーノ先生に送らないといけない。だけど、いきなり出だしから詰ってしまった。ダメだ、どうしても前に進まない。所在なくネットのニュースサイトを開けて、見出しを上から順番にクリックしていく。……雇用問題、インフレ、国際情勢……いきなりビデオが始まりレポーターの厳しい声がいう……国境の南の地域では治安がさらに悪化しており、ここまでたどり着いた人たちも現在ひどい状況におかれています。画面はアメリカとメキシコの国境地帯を歩く人たちの列を映し出す。……中米ホンジュラスからなどのルートだけでなく、南米のベネズエラ、ペルー以南のアンデス超えのルートなどでも麻薬カルテルが支配を強めており、人身売買や殺人も珍しくありません。なぎ倒されたように地面に横たわる犠牲者たちが映し出される。男も、女も、子供も……ひどい。顔などはぼかしてあるが奇妙な角度に曲がった手足が生々しい。犠牲者の一人の水色のTシャツが目に入る。裾が短く切ってあってむき出しの腹が見えている。そして彼女の胸には黄色い太陽、アルゼンチン国旗の太陽がテラテラ、偽の黄金の輝きを放っている。いきなり吐き気がこみ上げる。ボクタチハミンナ、サカナノヨウニ、キタノキョウカイセンニ、ウチアゲラレテシヌンダ。

センチミエント

 なんであんなこと言っちゃったのかな。アルゼンチンの地図の上の不自然にまっすぐな県境をみながら、山野は後悔した。昨日編集部に顔を出した時のことだ。たまたま森下も来ていたので、十二月に来日するチリの建築家とのインタビューで写真を撮ってもらえないか、と依頼した。すると、
「あー山野さん、すみません。私その時期日本にいないんです。パタゴニアに行く予定なんです。前から行きたいと思ってたんですけど、今回、アース・アウェアネスが支援してるパタゴニアの環境プロジェクトのPR写真を撮るっていう仕事があって。その合間に自分の写真を撮ってもいい、って言ってもらったので……」
「ああ、そうなんだ。パタゴニア……。そういえば僕、昔チュブとサンタ・クルスの県境のあたりに住んでいたことがあるんですよ」

 パタゴニア地方は、アルゼンチンとチリの南部、南極に向かって伸びる広大な土地で、そこでは、水と氷と風と砂が人間の尺度をはるかに超えたスケールで循環している。アンデスに降る雨が巨大な氷河を海へとどんどん押しやり、冷たい風が吹きすさぶ半砂漠では背の低い植物が短い夏の間に荒れた地表を彩っては消えていく。温暖な中央のパンパ地方に比べ、自然は格段に厳しく、そこに行くのも簡単ではない。有名な氷河のあるあたりは観光客を運ぶ飛行機も飛んでいるが、その他の場所は鉄道もなく、移動は主に車に頼るしかない。そんな辺鄙なところに山野が住んでいたのは、当時付き合っていた女性がいたからだ。彼女はアルゼンチン人ではなく日本人。ユタの大学で博士号をとった古生物学者で、アリゾナ大で研究員をしていた時に山野と知り合った。山野の方は研究していたわけでも、働いていたわけでもなく、アメリカで、若い時にしそこなった「放浪の旅」をしている最中だった。知り合って間もなく彼女が化石発掘現場のあるアルゼンチン、チュブ県のサルミエントに移ることが決まった時、山野はすんなりついて行くことにした。そちらの方がアメリカに比べて物価が安く滞在ビザがとりやすい、ということも魅力だった。
 発掘現場の生活は単調だったが退屈ではなかった。研究者たちは、いくつかの慎重に決められた地面の区画から、土とほこりにまみれて石灰岩の塊を取り出す。山野の目には何の変哲もない石や土くれに見えるものを、彼らは洗ったり注意深く割ったりして、太古の植物の幹や葉や、小さな種さえ取り出してみせる。まるで、彼らの目からレーザー光線が出ていて化石を削り出すかのようだ。取り出された化石は注意深く分類され、番号をふられ、保管箱に収められる。来る日も来る日も研究者たちはこれを繰り返し、化石になれなかった石が残土の廃棄場所に積みあがる。食事は肉、ジャガイモなどを簡単に調理したものがほとんどだったが不思議と飽きることはなかった。時には発掘チームのみんなとアルゼンチン式のバーベキューアサードもした。ゆっくり炙った巨大な骨付きの牛肉の塊は、脂身の刺しが全くい入っていないのに柔らかくジューシーで、少し石灰の味がする地元のワインともよく合った。
 彼女が化石と過ごしている間、近くに散在する開拓村の跡などを訪ねて地元の人たちから話を聞くのも面白かった。十九世紀末から二十世紀初頭にかけての大移民時代、アルゼンチンにはヨーロッパからだけでも六百万人以上の移民が殺到した。だから今もあちこちにその痕跡が残っているのは驚くことではないけれど、パタゴニアの真ん中でウェールズ語の語彙が今も普通に使われている、などという事実は、いつの時代も人類は移動しているけれど、流れの方向はずっと同じなのではない、ということを思い起こさせて感慨深かった。
 毎日石を触っているせいか、彼女の指は先の方が白っぽく硬い。その指先に軽く唇をつけながら、やっぱり化石のほうが大事なんだね、と山野がいうと、彼女は、そうでもないわよ。化石はこんなに熱くないからといって、からかうようにもう片方の手で彼の体をまさぐった。それより他にやることがない、といってしまえばそれまでだけど、本当に飽きることなく二人は体を交わしあった。
 そういう時間は割とあっさり終わりを迎えた。彼女がアリゾナへ帰るとき、山野はついて行かなかったのだ。彼女が嫌いになったわけではない。彼女も山野を嫌いになったわけではない。ただ、彼女の帰るとことは自分の帰るところでも居たいところでもない、というのがパタゴニアに住んではっきりしてしまったのだ。彼女が帰った後、山野は南米の国々を放浪しながら北上し、結局日本に帰ってきた。帰ってきたが、ここは居たいところなのか……そういうことを考えなくなって久しい。パタゴニアの輪郭を目でなぞりながら、あの焦りと迷いの感覚が浮かび上がってくるのを山野は感じた。
 
「ウェールズ語なんて面白いじゃない、もっと調べてみたら?」
 もっと調べてどうするのさ? と聞き返す山野に真澄はいった。
「論文にする、とか。なんかの形で発表すれば、きっと面白いって思ってくれる人がいるよ」
 発表する、ということは真澄にとって今一番大切なことだ。研究成果をまとめ、厳しい査読を突破し、新しい知見をどんどん国際的な研究雑誌に発表していく。それによって、恐竜化石などに比べてずっとマイナーな小型植物化石の分野に集まる注目を増やす。集まった注目をてこに大型の研究予算を獲得し、発掘など費用のかかる活動を維持していけるようにする……そういう良い循環をつくらないとダメなの。それが彼女の口癖だった。研究に限らず、複数の国や機関が参加する大型のプロジェクトをよしとする考え方は根強い。実際そのようなプロジェクトの多くは大きな成果をあげてきた。ただ、それは「良い」循環を生み出しているのか、と山野は冷めた気分になる。世界中から人の頭脳も情熱も吸い上げて、出資できる豊かな国や地域をより豊かにするだけなのではないか? その疑いが否定できなくなって、自分はあの国際プロジェクトを辞めたのではなかったか? でもこれは、夜遅くまで研究資金への応募書類を書いている真澄には関係のない感傷だ。
 
 結局、どこにいても居場所はなかった……。違う。それはナンセンスだ。山野は即座に自分の安っぽい感傷を否定する。だれもが彼に居場所を与えてくれた。が、自分は留まらなかったのだ。留まり続ければ、築き上げてきたものが無残な最期を迎えるのを見ることになるのではないか、と怖かったのだ。そして、自分は今も終わりを見ることから逃げ続けている。それは理解わかっている。

クライポレ・午後九時

 バーベキューチキン、ラザニア、コールスロー、自家製のチョコチップクッキー。二階のダイニングキッチンのテーブルの上には、大皿やボウルに入った食べ物がたくさん並んでいる。ダニエラとオンチャはオーブンの中を覗き込み(まだジャケットポテトが入っている)、マヌエラはぶっきらぼうな顔でテーブルに皿やグラスなどを並べていく。久しぶりにみんなの予定が合った週末、ディエゴとオンチャは、ラザニアとコールスローを持ってルーシーの家にやってきた。ルーシーはもうテーブルについていてホセファが白いナプキンを胸元につけてやっている。皆も、がやがやと席に着いた。ヴァウターがワインの栓を開け、オンチャとダニエラとのグラスにメンドーサで買ってきたというワインをなみなみと注ぐ。ワインの香りをかいでオンチャが、ン~っと幸せそうな顔をする。ルーシーの分のグラスをホセファに手渡してから、ディエゴにもボトルをあげるしぐさで、飲むか? と聞くが、ディエゴは軽く首を横に振って断わる。もう十八歳だから飲んでもOKだけど、あまり飲みたいと思わない。……トラック仲間の間で最近人気のワイナリーから二ダースほど買ってきたんだ。ヴァウターは自分のグラスにワインを注ぎながら、オンチャの質問に答えている。
 
 家族が集まるのはいいことだ。ホセファが作ったチョコチップクッキーでHeladería Manci 謹製のアイスクリームをすくって食べながらディエゴは思った。特別な事があるわけじゃないけど特別だな。デザートを食べながら、大人たちはクッキーをほめたり(確かに美味しい)ありきたりのことを話している。デザートをさっさと食べてしまったマヌエラは所在なさげに携帯をチエックしている。ディエゴが幸せは気分で胃のあたりをさすっていると、ダニエラが不意に訊いた。
「でも危なくないの?」
 パタゴニアの調査支援員の話だ。自然相手の仕事だから相応の危険はあるだろうが、探検に行くわけではないし、主に調査隊のキャンプ地を回るだけだから、と答えると、そうだな、あそこの幹線道路の状態は悪くない、とヴァウターがいう。野生動物もいる? とホセファが訊くので、うん、グアナコやレア、ピューマやハヤブサなんかもいるらしいよ。と答える。じゃあそういう猛獣を避けるために、反射テープか何かついた服がいるわね、とダニエラが言う。まだ願書を出しただけなのに、とディエゴはおかしくなる。金曜の夜、四苦八苦して書き上げた応募書類と、セラーノ先生と去年課外授業の講師に来た環境NGOの人からもらった推薦状を、応募サイトにアップロードして「応募」ボタンを押したときはさすがにホッとため息が出た。
 笑いながら何か言ったホセファとオンチャに、でもピューマは猛獣よぉ、とダニエラが大きな声で言い返す。そのとき、今まで黙っていたルーシーがいきなり大声で言った。
「ピューマはアタワルパの子孫を守る!」
 ダニエラは一瞬ぎょっとし、すぐ、またか、と心底うんざりした顔になった。
「この子の父親はアタワルパの直系だ、だからピューマはこの子を守る!」
「父親って、ママ、おじいさんでしょう、ディエゴの」
 ああ、また混同しちゃって、というダニエラを見もせずにルーシーは続ける。
「だから,髪を切っちゃいけないよ。皇帝のしるしの髪を切ったら、守護は失われてしまうからね!」
 
「なにがピューマの守護よ、皇帝の子孫よ!」
 食器を洗いながらダニエラはまだ不機嫌だ。
「大体、ママは南米人ですらないじゃない。言ってしまえば、マジックマッシュルームでラリって、エセ心霊治療士に引っかかったヒッピー崩れのアメリカ女、じゃないの。あたしたちにアタワルパの血なんて、たとえ混ざってたって、薄すぎて検出不可能よ!」
 そうね……オンチャは大皿をすすぎながら微笑む……人間みんな、いろんな祖先の血が混じってる。有名な人も無名な人も。混じってる、っていいことだと思う。混じりあってひとつになって。なんだか暖かいもの。
 
「アメリカの大学にはいかないのか?」
 ルーシーが皆にお休みといい、ホセファに付き添われて寝室に行ったあと、ヴァウターがぽつんときいた。少し考えてからディエゴが口を開けると、答えではなく質問が流れ出た。
「ねえ、ヴァウター。ヴァウターのトラックに乗って遠くまで行った、たくさんのお客さんたち。あの人たちは無事に帰ってきたのかな」
 少し間をおいてヴァウターはいった。
「さあな。でも、あいつらは行ったんじゃなくて、還ったのかもしれないぜ」

六本木・午後七時

 店は開いてるがまだ客はほとんどいない。翔は黙って贔屓客にメッセージをうちつづける、ねえ、今何してんの? 返信が一軒。手早く読んで返事を打ち返す。えー残念。ImissU! 次のアプリ、これは業務連絡用。ジュンジさんからミロンガの招待状が再送されてる。最後のアプリをチェックする。新着メッセージ0件。ふう。横でユージが最近入ったやつに小声で講釈を垂れている。
「でもさ、人間食うこと大事よ。胃袋つかんじゃったらこっちのもんよ」
「でも毎日女にメシつくってやるなんて、ありえねっすよ」
「毎日? ノンノン、勝負時だけ。『料理なんてしそうにないカレが、お前だけな、今日だけな、ってご飯つくってくれた、やっぱ私は本命⁉』ソコですよー」 
 翔は苦笑する。ありえねえなユージ。本命の女とだと自分が飯食ってる時間も惜しいじゃねえか。

六本木・午後十一時

 六本木の喧騒から少し離れた場所柄のせいだろうか、それとも暗めの照明のせいだろうか、このミロンガは少し秘密めいたにおいがする。誘い誘われる人達の間で交わされるカベセオの目線も心なしか上目遣いだ。恭子は低いラウンジソファに座って、隣の若いカップルと言葉を交わしている。二人は婚約中のトルコ人と日本人のカップルで、先のセミ・プライベートレッスンで知り合った。涼しげな眼もとの彼は、流暢な日本語でイスタンブールのタンゴシーンのことを話している。……あれから田辺から連絡はない。恭子も連絡していない。今夜、彼女は来ていないようだ。こちらからはほとんどみえない奥まったVIP席に、ディエゴとチェチリアは、ジュンジ、ユミ、ミロンガの主催者たちと座っている。そちらの方を恭子は見ない。あんなことを聞いたせいか、ディエゴのすべてが胡散臭く思えてくる。……先走りしすぎだ、と恭子の理性はいう。田辺の話が本当だという証拠はない。しかし、理性の下で警告サインが点滅するのを恭子は否定することができない。 

ブエノスアイレス・午前五時

 ダニエラの口調からただ事ではないことはすぐわかった。
「あ、オンチャ? いい、動転しないで聞いて。ディエゴが発砲事件に巻き込まれたの。近くの空き地のところで。流れ弾が頭にあたって、今、緊急手術のために市の病院に移送中なの。ママは興奮してしまって一人にしてお
けないし、ヴァウターは長距離に出てていないし……」
 サーっと体が冷たくなっていくのを感じながら応える。
「わかった。どの病院なの?」
 電話を切るともう一人のディエゴ、彼女の息子の寝室に行き、彼を起こして手短に事態を伝える。
「ディエゴ兄が撃たれた? どうして? けがは……」
「詳しいことはわからない。いま市の病院で処置を受けてる。ママは今から病院に行くけど、あなたはいつもどおりに学校に行って。何かわかり次第連絡するから」
 心配を顔いっぱいに浮かべた息子をぎゅっと抱きしめてからオンチャは玄関に向かった。

 幸い弾は浅く抜けたので頭蓋骨を少し吹き飛ばしただけで、脳には損傷らしい損傷はありません。ただ大きな衝撃を受けているので、そのあと出血がないか等、しばらく入院して様子をみることになると思います……。命に別状ない。脳に大きなダメージはない。緊張の糸が切れオンチャの目から涙が噴き出した。数日で一般病棟に移れると思います、という医師の言葉を聞きながら、オンチャは、マリア様ありがとうございます、と口の中で繰り返した。
 入院書類などを記入し、集中治療エリアの待合室でぼんやりしていると、ダニエラがはいってきた。サングラスをかけ手には包帯を巻いている。
「オンチャ! ディエゴは?」
「ダニエラ、あなた、一体どうしたの?」
「いいから。ディエゴは?」
 オンチャはダニエラに手短にディエゴの状態を説明した。ダニエラが、マリア様ありがとうございます、といって涙をぬぐおうとサングラスをとると、目の周りが青いあざになっている。
 ダニエラの話はこうだ。麻薬の密売がらみで派手な撃合い起こった後、幸いなことに、警察は現場にいち早く駆けつけた。巻き込まれたディエゴやけがをした密売人を救急搬送したあと、警官二人が連絡と聴収のため現場近くのルーシーの家にやってきた。その夜泊まり込んでいたダニエラがドアを開けてこの恐ろしいニュースを聞いている時、騒音で起きたルーシーが寝室から下りてきて、警官や点滅する警察車両のライトをみてパニック状態になってしまった……。
「『悪霊がアタワルパの子孫を殺しに来た!』って、手当たり次第にあっちこっちのもの投げて!」
 止めようとしたダニエラの手にかみつき、割って入った警官にも唾を吐きかけたり、と大立ち回りを演じたらしい。
「で、今は?」
「ナタリーが来てくれて、付いてくれてる。現場に残っていたパラメディック救急隊員が鎮静剤を打ってくれたので今は寝ているし」
 同じパラメディックがダニエラの手にも応急処置をしてくれたそうだ。ナタリーは弟のディエゴが向かおうとしていたバイト先のパン屋のおかみさんで、近所の人から事態を聞き駆けつけてくれたらしい。
「何てこと……」
 オンチャがため息をついて頭を振ると、ダニエラも沈み込むように息を吐きだした。
「……ほんとに、何てことかしらね」
 二人は黙ってお互いを強く抱擁した。
 
 弟のディエゴはオンチャと十歳、ダニエラとは九歳はなれている。小さいころは近所の教室でフォルクローレを習っていたが、いつのころからかタンゴを踊るようになり、今はプロのタンゴダンサーだ。他の家族はダンスと無縁なのに、彼だけは子供のころから自分がプロのダンサーになる、ということを全く疑ったことはないようで、高校を卒業するとすぐブエノスアイレス市のタンゴとフォルクローレのショーを観せるレストランと契約した。夜のショーが終わるとコレクティボという乗合タクシーにのって家に帰ってきて、夜明け前にパンの仕込みのバイトに行き、帰って仮眠して、昼はあちこちのスタジオで教えたりリハーサルをしたり、という生活を続けていたが、去年、市のムンディアル・デ・タンゴのステージ部門で優勝し、急に注目を浴びるようになっていた。そろそろバイトはやめて市に部屋を借りて住んだら? オンチャがいうと、彼は、いや、やっぱり定収入がないとね、と笑った。タンゴの仕事は不安定ということもあるのだろうが、本当は精神の不安定な母親を一人にするのが気がかりなのだろう。ディエゴはまだクライポレの家でルーシーと住んでいる。
 ルーシーは、四十歳をずいぶん過ぎてから一人息子を授かったことを、神秘的な力の仕業と信じている。ディエゴの、そしてオンチャとダニエラの父親ペンテコステは「インカの心霊治療士」で、ルーシーの思い込みを煽りこそすれ正すことはなかった。ネイティブの血を感じさせるディエゴの容姿もあってか、ルーシーは、アタワルパの子孫云々、というナンセンスまで捻り出し、誰彼かまわず言いふらすようになった。今思えば、あの頃から彼女の認知症は始まっていたのかもしれない。
 ディエゴが生まれて間もなくペンテコステは家族の前から姿を消したが、正直のところ、以来今までオンチャとダニエラは彼を恋しいと思ったことはない。降霊だのインカの秘薬だの、いつもいかがわしいビジネスにかかわっていた彼に父親をみるのは二人には難しかった。その分といっては妙だが、二人はディエゴに大きな愛を注いできた。ルーシーが母親の愛と奇妙にゆがんだ精神で彼にダメージを与えないよういつも守ってきた。彼の幸せと成功をいつも祈ってきた。ああ、マリア様ありがとうございます。でも、もうどうかこれ以上あの子に不幸が降りかからないよう、どうぞ、どうぞお守りください。
 姉妹が呆けたように座っていると看護師がやってきて、ディエゴ・マンシさんのご家族ですか? ロビーでチェチリア・フェラリさんが待っておられますよ、といった。ディエゴのダンスパートナーだ。そうだ、彼女にも状況をきちんと説明しなきゃ。二人は顔を見合わせて立ち上がった。

六本木・午前零時

 終電の時間も過ぎたのにダンスフロアは賑わっている。ブエノスアイレスのように、このミロンガの終了時刻は午前三時、今はまだまだ宴たけなわなのだ。……店の方は閑古鳥だったのにな。翔は一心に踊る人の流れを見やる。早番ではけて、そのまま帰って寝てしまってもよかったのに、ここに立ち寄ったのはなぜだかわからない。プチ、プチ、と雑音の入った録音の音楽に少しの間耳を傾け、それからラウンジに座っている人たちの方を見る、奥まったところにジュンジさんのオールバック頭をみつけた。翔は地味な私服姿で、悪目立ちしないようゆっくり歩いてそちらに近づいていく。……やあ、来てくれたんだ! 店の方はいいの、スターがいなくて? へへっ、と笑ってジュンジさんと握手をし、ユミさんのキスを片頬にうける。ああ、翔クン、こちらはチェチリア・フェラリさん。アルゼンチンタンゴの世界チャンピオンなのよ。ユミさんの横に座っているのはあの女だ。今日は泣いていないし、あの男は傍にいない。ナイスチューミ―チュー、形ばかり手を取って挨拶する。きれいな女だが同業者には興味ない。それに別に踊るつもりで来たわけではないので世界チャンピオン云々も意味がない。何も言わず馬鹿みたいに突っ立っているのを、慣れない場所でまごついていると解釈したらしいユミさんが、すっと顔を寄せてささやく。あのバーの前に立ってる、水色のドレスの子見える? 彼女上手よ。気さくだし。右奥のテーブルの黒のミニドレスのコ、あのコも好く踊る。あとはね……、いや、ユミさん、おれ、今日は挨拶しに寄っただけだがら……。その時ふと周りが薄暗くなったような気がして振り返ると、あの男が立っていた。黒い一色の服装で、硬質の闇を周りに張り巡らし、翔の視線を遮断するように立っていた。翔は首の後ろの毛が逆立つのを感じながら男を見つめた。……ああ、翔くん、こちらはチェチリアさんのパートナーのディエゴ・マンシさん。ジュンジさんの紹介に、翔は手を差し出したが、二人の手は触れたかどうかで離れた。
 ……じゃ。おれ、これで。踊っていったらいいのに、というユミさんに、軽く頭をさげ、翔は出口の方へ歩いていく。世界に色が戻ってきてホッとする。音楽がロックンロールにかわり人々がフロアから引き挙げてくる。その人の流れに取り残され、ぽつんと立っている姿ある。魂のないマネキンのようにも見えるそのシルエットは、彼女のものだった。

新宿・午後三時

 久しぶりに友人と会うのは楽しい。ホテルのロビーでキャロルと話しながら山野はそう思った。彼女と会うのは十年ぶりぐらいだろうか。彼女とはアメリカ放浪時代に知りあった。当時、彼女はラテンアメリカ文化研究専攻の大学院生だったが、今はサンディエゴの大学の教授で、ラテンアメリカ文化研究でとても権威のある専門雑誌の首席編集者でもある。最近の研究のトレンドなど、彼女の話に触発されて、山野もアルゼンチンにいたころ少し調査したことなどを話していた。
「面白いじゃない、ヒロキ。ウェールズ語の語彙がそんなに残ってるなんて。そこまで調べたんだったら論文か何かにしたら?」
 論文にしたら君の雑誌に載せてくれるかい? と笑いながら聞くと、もちろん。査読者がOKっていったらね! と大きな笑顔でキャロルは答える。山野は笑いに紛らせて、話題をチェチリアとディエゴのダンス公演にかえた。
「ああ、聞いたことあるわ、そのペア。確かスキャンダルあったでしょ」
 いぶかしげな顔をする山野に、キャロルは知らないの? という表情で続ける。
「確かレイプの告発があって。男性ダンサーのほうがプライベートレッスンにきた地元の女性に乱暴したっていう。結局、示談になったらしいんだけど、彼の行動の釈明っていうか説明がかわってて、一時メディアでも話題になってた」
 曰く、ディエゴには脳の高次機能障害があって、ときおり衝動的な行動に出ることがあるが、それを本人は全く覚えていない。
「脳の障害? そんなふうには全く見えなかったけどなあ……」
 そういう山野に向かってキャロルは大きく肩をすくめた。

ブエノスアイレス・午後二時

 アパートの部屋はまだガランとしている。大きな家具は木曜日にくることになってて、とチェチリアは楽しそうにオンチャにいう。ここは彼女とディエゴが借りたばかりのアパートだ。キッチンに置かれた折り畳みのテーブルセットに腰掛けてオンチャは、チェチリアが入れてくれたコーヒーをすする。……大丈夫です、何とかやっています。オンチャが口を開く前にチェチリアがいった。彼も、私も勝手がつかめてきて。生徒さんの名前や、毎日やったことを書き留めてるんです……。強い子だわ。内側から光を放っているようなチェチリアをみながらオンチャは思う。
 
 撃たれた後、ディエゴの回復はほぼ順調だった。時折頭痛がするものの、運動機能や言語機能に問題は出ず、ダンスの練習も頭の傷が癒えるか癒えないうちに再開した。記憶の問題が明らかになってきたのは皆が安心しかけた頃だった。一年以上レッスンに通ってきている生徒に、初めまして、と挨拶をする。昨日ダンスシューズを買ったばかりなのに、今日また新しいのを買ってくる。同じ昨日の出来事でも覚えていることと、まったく覚えていないことがある。覚えていることでも、誰とどこであったのかが混乱する……。何度も検査をした後、医師は、おそらく記憶の出し入れを司る脳の一部で小さな血栓がおき、そのために記憶を保存したり思い出したりする機能が部分的に損なわれたのだろう、といった。
「記憶障害と一口にいっても症状は様々で、日常生活への影響の程度も患者さんによって違います。でも、患者さんたちは皆さん自分の症状に合わせて色々な工夫をされていて、社会生活に復帰した方もたくさんおられます」
 医師はそういってくれたが、ディエゴの、そしてチェチリアの、失ったものは小さくなかった。複雑な振付けを大掛かりなアンサンブルでこなしていかねばならないような演目を踊るのはもう無理だった。そのため、事故の少し前に打診されていたブロードウェイのショーへの参加はあきらめるしかなかった。地元のタンゴショー・レストランでのパフォーマンスでも、出番などを間違えないよう、チェチリアのつきっきりがサポートが欠かせなくなった。また、チェチリアは、ディエゴの昼のダンスレッスンをアシストしなければならなくなったので、一人で教えていたフォロワー専門のレッスンをやめざるを得なかった。見かねたオンチャは、チェチリアに何度か言った。あなたが誰かほかのパートナーと組むことに決めても、私はあなたのことを悪く思ったりはしないわよ。ダニエラもほかの家族も一緒よ。そのたびにチェチリアはこう言った。ありがとう。でもディエゴでないとダメなんです……。そして彼女は辛抱強く、二人が一緒にやっていける小さなパフォーマンスやワークショップ活動を国の内外に広げていった。
 
「今、お使いに行ってもらってるんですけど、携帯に帰り道を表示して行ってるから、きっと大丈夫ですよ!」
 チェチリアが言い終わらないうちにカギを開ける音がし、ドアが開いて、買い物袋を両手に下げたディエゴが入ってきた。
「オンチャ!」
 そういって彼は買い物袋を床に置き、ベースボールキャップと眼鏡をとって大きく手を広げ、オンチャを抱擁した。
「いいところね、交通の便もいいし! さっきチェチリアに部屋も見せてもらったわ」
 オンチャをから目を離して、チェチリアの方を見たディエゴは、少しまぶしそうな顔で笑ってこういった。
「……はじめまして」
 
 帰り際、チェチリアは、ディエゴに微笑みかけてから、オンチャにいった。……大丈夫です。私たちは毎日恋に落ちているんですから。とても幸せです。ディエゴも、愛しくてたまらない、というように優しくチェチリアの肩を抱いて頬を摺り寄せる。そうかもしれない。あなた達は文字通りこの瞬間の愛に生きていて、それについて祝福以外、私に何が言えるだろう。でも、とオンチャは思う、でも、愛の記憶は彼女にだけ蓄積し、彼と共有されることはない。これから先ずっと。それは言いようもなく残酷なことに思えた。おお、マリア様。

六本木・午後十時

 店は活気にあふれている。ミカちゃんのお誕生日を祝ってー、というユージの声にのって、花火などで大げさに飾り付けられたフルーツの盛り合わせがテーブルに運ばれてくる。ミカちゃん、今日はボトルも入れてくれた。ホストたちの顔も明るい。座が十分盛り上がっているのを確かめてから、翔は手洗いに立った。暗い店内から明るい照明のトイレに入って感じる、めまいのような感覚をふりはらって手早く携帯をチエックする。新着メッセージ四件、後からだな。次のアプリ、ジュンジさんからまたミロンガの招待状。最後のアプリ、新着メッセージ一件。目を走らせた翔は息を吐く。ふう。 

神保町・午後三時

 時折タンゴがかかる古めかしい喫茶店で壁の古ぼけた写真に目をやりながら、恭子は翔を待っていた。写真の中で若い男が二人、アブラソを組んで立っている。後ろにはバンドネオンとテューバだろうか、大きな金管楽器を抱えた男も写っている。移民で溢れていたころのブエノスアイレスで、タンゴの練習をしている男たちだ。ただ、ここには男たちの本当の目当てである売春婦たちは写っていない。
 売春宿で踊られた、という歴史から、アルゼンチンタンゴにはどこか淫らな印象が付きまとう。今でも、ダンスとは名ばかりで男と女が逢うための体のいい言い訳、と思っている人もいる。しかしそんな思い込みは、実際に踊ってみれば消える、と恭子は信じている。踊るときパートナーの精神と身体を尊重しないと、二人の間でタンゴは成立しないのだ。逆に、それがあれば、はじめて踊る相手であっても、精神的・身体的な素養や特徴が違っていても、二人の間にその単なる肉体の結合とは違う次元でのユニオンタンゴは成立する。その一瞬が欲しくて、皆ミロンガにやってくるのだ。
 だからあの夜六本木のミロンガでディエゴが恭子に仕掛けたことは、タンゴではなかった。恭子の視線を捉えた彼は、彼女の体も捕らえて音楽の中に引きずり込むと、重心を操って彼女の顔と胸が彼のそれと密着して離れないようにした。次に彼は闇を張り巡らせて視線を遮り、彼女を腕の檻に閉じ込めた。そうしておいてから、彼はやおら膝で彼女の腿を割り、内腿を撫で上げた。あっ、と開いた恭子の口に、ドロリ、と彼の舌が這いこんでくる……。すべてのコンタクト・ポイントから何かが恭子に侵入し、跪け、と迫ってくる。そして、窒息するような記憶の再生リプレイ……満員電車で彼女の体をまさぐる汚い手、酔っぱらったふりで彼女の肩に回される腕、彼女のブラウスの胸元に何度も落ちる会議中の目。彼女の尊厳を削り取ってきたすべてのコンタクトの感触がまざまざと蘇りがえり、感情がコントロールできる限界を超えてしまった。
 
「おい、大丈夫か?」
 翔が恭子の両腕をつかんだ。答えない恭子を見つめ軽く揺すぶる。その時恭子は身震いして叫んだ。
「嫌っ。手を離して! 離して、って言ってるでしょ!」
 すべての人が動きを止め、翔と恭子を見た。翔はそっと手を離し、足早にその場から立ち去った。
 
 謝らなきゃ。私が拒絶したのは彼じゃない、って伝えなきゃ。
 

あの娘はだあれ?(五)

 なんでこのサ店に入ったのかは忘れてしまったが、彼女が入ってきた時のことはよく覚えている。つまらなさげに歩いてくる大柄な、いい体の女。でもそこじゃない。ピンときたのは、おれはこの女と暮らしてたことがある、ってことだ。いつ、どこで、かは分らないが絶対だ。おれが、どこかで会いませんでしたっけ? って聞いたら、ぽかんとしてたっけ。
 おれの記憶がどこからくるのかはわからない。だから彼女がおれの記憶をおれと共有していなくても、それは仕方がない。だが、今のおれが今のままで、あんたを欲しいと言うのはいけないことか? おれだけのものになれって言うのはいけないことか? 恭子の目の中にあった炎のような拒絶を思い出しながら、翔は喫茶店の古びた扉を押した。

神保町・午後三時三十分

 恭子は翔に謝った。そして言った、私が拒絶したのはあなたじゃない、私を貪る対象としてしか見ない視線、と。抽象的な言い方しかできなかったが、わかってほしかった、なぜ私がズタズタだったかを。だがそこで唐突に、私は彼を貪ってはいなかったか、という問いが頭をもたげた。
 若く、美しく、伸びやかな肢体。滑らかな胸、硬い腹、彼女を押し開く熱い隆まり。汗と吐息の中で溶けていくような瞬間。上気した肌と青みがかった目。私はそれらをどれだけ愛したことだろう。でも、私は彼の祝福された物質的存在の中に潜む不安や葛藤を見なかった。彼の過去を無思慮な行動の連続と決めつけ、ひも解いてみようとはしなかった。奇妙にゆがんでしまった「今」を必死に理解しようとしている彼を、冷めたまなざしで見つめていただけだった。そんな不公正unjustな関係に彼をピン止めしておきながら、私は彼に何をわか理解ってほしいと言うのか? 恐ろしい矛盾がぱっくり口をあけて恭子を飲み込み、彼女は翔から目を逸らしてしまった。
  言葉を探してもがく恭子を遮って翔は言った。
「そんな気にしなくっていいっス。おれ、気にしてませんから。それに……」
 小さなピアスのオーナメントが揺れる。
「おれ今度引っ越すんです。...…でも、今度の部屋わりと大きいから、よかったら遊びに来て」 

抱擁(二)

 そっかー。でも、来てくれたらオレ、手料理振る舞っちゃうよ~、と冗談めかして言いながら去っていく翔を見送りながら恭子は思った。こんなことは昔からあったに違いない。ブエノスアイレスのボカの売春宿でも、ありふれた事だったに違いない。今を生き延びるに必死の若い男と、時間が与えた幾つもの傷のせいで、まっすぐな愛にためらってしまう女。求めあっているのに、抱擁がほどけてしまう。……どうすればよかった? でもどうしようもなかった? それに手料理ってなによ。料理なんかしたことないくせに。私から離れていきたいなら、もうちょっとましな嘘つきなさいよ。涙がこぼれてきて、止められないじゃない。 

サルミエント・午前十一時

 パタゴニアでは夏でも冷たい風が吹きすさぶ。真っ青な空に押しつぶされたかのような丈の低い灌木しかない荒涼とした風景が続く。ほっとするな。時折風景にレンズを向けながら森下は思う。ここには視線がないもの。何かを追いかけ、理解しようとし、時には糾弾する、人々の間のエネルギーの流れ。こちらを見てほしいという願いのなかで、振り向いてもらえず消耗し、返された視線に貫かれ血を流す。……写真も視線だ。でも、この風景は視線を返さない。
 
 調査隊のキャンプDから真澄のいるサルミエント近くの化石発掘現場まで車で二時間弱、パタゴニアの基準では近い。ディエゴが調査隊の支援員として採用されたと伝えた時、真澄はとても喜んで、時間があったらぜひ遊びにきて頂戴、と発掘現場の住所などを記した返信をくれた。キャンプDに補給を届け廃棄物を回収してから、ディエゴとガブリエラは年季のはいった四駆を運転して、その発掘現場へと向かった。ガブリエラはアメリカ生まれのチリ人でディエゴと同じジュニア枠採用の支援員だ。来年アリゾナの環境科学学部に進学すると決めていて、そのあとはサンチアゴ・デ・チリの地球科学学部の大学院で博士号をとって、アメリカ海洋大気局に就職する、のだそうだ。サルミエントにいる「アリゾナ大学のプロフェッソーラ女性の教授」が遊びにおいでって言ってくれてるんだ、と話をすると、私も一緒に行きたい、と即座に言った。
 ディエゴは彼女の迷いのなさが羨ましい。
「アメリカのパスポートは有効に使わなきゃ。ディエゴもそう思わない?」
ディエゴは自分の二つ目の国籍のことを忘れたわけではない、が、その「血統によって付与された」アメリカ国籍は、ぱっくり口を開けたクレバスを想起させる。アメリカ人の血って何だろう。じゃあ、アルゼンチン人の血は? The Americasと複数形で呼ばれる地には、恐ろしい数の血統が流れ込み混じりあっている……。が、ガブリエラはそんな逡巡には無縁で、軽々とクレバスを飛び越えていく。
 
 真澄はディエゴたちがいるビジターセンターにすぐやってきた。抱擁と挨拶の後、彼女は言った。今日は日本からの環境団体の人たちもくるから、いつもより詳しい見学ツアーをするの。一緒にくるといいわ。
「……直接火山灰を被ったサンタ・クルスのペトリフィカドス森林地帯と違って、ホセ・オルマヘアの石化森林は、噴火に伴う地滑りなどで流された木々が海流よって運ばれ、さらに津波で内陸に打ち上げられ、凍結して出来たんです、なので、木の幹だけでなく、葉や根、種子などの化石も豊富に含んでいるんです……」 
 真澄が慣れた様子でビジターに説明していく。化石の発掘現場、クリーニング過程、保管庫、次期5カ年計画の説明ビデオ……一行は発掘現場をくまなく歩きまわり、六千五百万年前と今を行き来する。
 矢継ぎ早に真澄に質問しているガブリエラの横で、ディエゴは夢想する。……太古の森が引き裂かれ、片側は天を衝く山脈となりもう片側は海に沈む。噴火と津波で荒れ果てた大地に、やがて適応した生物が現れ、繁栄し、溢れ、あるものは生き残り、あるものは死ぬ。破壊と創造のサイクルは様々な時間と空間のスケールで繰り返し止まることがない。その循環する巨大な自然の力の前に、一個体の選択に何の意味があるだろうか? いや意味はある、と彼は思う、循環は時間線上に伸びた螺旋であり、その螺旋の一点で選択はなされる。そして、その点を過去から現在までつなぎあわせた線は個体ごとに異なる。その固有性の保証が彼に希望を与える。だから、注意深く選んでいこう。そうしていつか愛おしく思い出したい、自分の軌跡を。過ちも含めて。

「それ、化石?」 
 ディエゴの胸元に黒い革ひもでぶら下がっている楔形の石をさして、ガブリエラが訊いた。
「いや、違うと思う。おばあちゃんがくれた、ただの幸運のお守りだよ」
 そうなんだ。でも幸運は多いほうがいいよね。そう言って彼女は笑った。【完】

**読んで下さってどうもありがとう**

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