陰陽師に憧れて京都旅(その5)平安時代はとんでもなく広かった糺の森
出張中の京都駅でアポのドタキャンを知って怒り狂った男二人。その勢いのままに「丑の刻参り」の聖地・貴船神社へ向かう。
しかし、そこには怒りや呪いすら清める清浄な空間があった。賢者のような気持ちになって下山し、下鴨神社に向かう二人であった。
【みんなの青春の地・鴨川デルタ】
貴船口から叡山電車で出町柳駅に移動。
そこから高野川と鴨川の合流する三角州・鴨川デルタに向かう。
デートスポットや名所として有名な鴨川デルタ。映画やアニメ、様々な物語で登場する。
森見登美彦の「四畳半神話体系」では、拗らせた主人公が青春に勤しむ学生たちに嫉妬して花火を打ち込む衝撃的なシーンがある。
飛び石をつたってでも渡れるが鴨川デルタの面白いところ。
この三角州に発展したのが、下鴨神社の社叢「糺の森」である。
【旧三井家下鴨別邸の零れそうな紅葉】
鴨川デルタから下鴨神社を目指して歩いていくと、血のように赤い紅葉が、塀から零れ落ちているように見えた。
もう冬だというのに、血のように赤い紅葉だった。
紅葉の木がある塀の向こうは「旧三井家下鴨別邸」だ。
そう、あの三井財閥である。
この下鴨別邸は、数ある別邸の中でも三井家の祖霊を祀る顕名霊社が鎮座していたため別格扱いだったという。
【移動する祖霊社・顕名霊社】
移動する湖・ロプノール湖みたいだが、「顕名霊社」は様々な地を巡ってきた不思議な祖霊社だ。
もともと三井家が崇敬していたのは呉服を扱うが故に養蚕の神である木嶋坐天照御魂神社 (通称蚕ノ社)だったという。
宝暦元年(1751年)には神社の境内に「顕名霊社」を創建したが、明治7年(1874年)廃仏毀釈から護るために油小路にあった三井総領家邸内に引き取った。
東京へ注力しつつあった三井家は、東京・深川の三井別邸にも「顕名霊社」の社殿を創建し、京都・東京両地で祖霊を祀ったのだという。
廃仏毀釈運動が一段落したら、木嶋坐天照御魂神社に顕名霊社は戻った。
その後、三井家は、明治31年(1898年)に下鴨神社の南に6千坪の土地を購入し「下鴨別邸」とし、明治42年(1909年)三井家の遠祖・三井高安の300年忌に際して、「顕名霊社」を下鴨別邸に引き取ったのだという。
しかし、戦後の財閥解体によって下鴨別邸は国有化され、顕名霊社を預かった三井総領家邸も昭和33年(1958年)に処分されたため、現在、顕名霊社は東京都墨田区の三囲神社にて護られている。
まとめると
木嶋坐天照御魂神社→油小路の三井総領邸&東京・深川の三井別邸→木嶋坐天照御魂神社→下鴨別邸→三井総領家邸→東京の三囲神社←イマココ
廃仏毀釈、財閥解体という価値観が一変するような大事件を乗り越えて護りきった三井家の崇敬の念がすごい。
国有化されると宗教施設だと考えられる祖霊社は置けないというのは政教分離の原則でよく言われるが、宗教と伝統文化は密接に絡み合っていて本当に難しい話だと思う。
数百年続く名家の祖霊社の置かれていた別邸という、これまた厨二心をくすぐる話である。
少し見えた紅葉がこれほど美しいのだから、公開されているお庭は尚のこと美しいのだろう。
だが、今は糺の森へ歩みを進める。
【平安時代の40分の1となった糺の森】
糺の森とは下鴨神社の社叢であり、野生動物も暮らす原生林である。
古くから有名で、「枕草子」「源氏物語」「新古今和歌集」にも登場している。
12万4000平方メートルの広さがあるが、平安時代にはなんと40倍の495万平方メートルもあったという。
平安時代の糺の森は、もし現存すれば明治神宮内苑の7倍、ニューヨークのセントラルパークの1・5倍にもなる広大な森だった。
しかし、応仁の乱の戦火で7割を失い、さらに明治の自社領の没収で今の大きさになった。
「糺の森」は、縄文時代の森が現在まで行き続いているのだという。
【物語の中の「糺の森」】
そういえば森見登美彦の小説「有頂天家族」は、糺の森に住むタヌキ一家の話だった。
京都の各所に天狗や鬼などが潜んでおり、楽しいばかりではなく悲しみが底流に流れている不思議な物語だった。
森見登美彦の小説は荒唐無稽に思えても、京都に来ればなんだかありそうな気がするから面白い。
また同じ森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」では糺の森で夏に開催される「下鴨納涼古本まつり」が重要なイベントになっている。
森の中での古本市とは面白い。小説の設定のようで、事実は小説より奇なり。
誰もが知る古典「源氏物語」「枕草子」から、現代の小説にも描かれる糺の森は古人と現代人の心を繋いでいるのかもしれない。
【「ただす」って何?】
そもそも「糺の森」の「ただす」ってなんだろう。
「糺」とは「縄をよりあわせる」意があり、集めるにも通じる。
また一説には、賀茂川と高野川の形成する三角州を「只洲」と呼んだのではないか、とか、「清らかな水が澄み渡る場所」という意味で「直澄」だったのではないか、とも言われる。
さらには蓼が群生することから「蓼洲」がなまったとか、ご祭神賀茂建角身命が民衆の争いを聞き糺したことから「不浄を糺す」意味であるとか、諸説あり定まらない。
どれもこれも一定の説得力があるような気がする。
由来がわからないのが神社の古さを示しているようで、余計に神秘的だ。
【関西ラグビー発祥の地】
糺の森には様々な社が鎮座しているが、その中に「雑太社」がある。
ラグビーボールのようなものが社の中に鎮座している・・・ありゃなんだ・・・
実は日本初のラグビー部は慶應義塾だが、二番目は京都大学の前進となる旧制第三高校だった。
明治44年(1910年)に慶應義塾のラグビー部から手ほどきを受けて練習した地が、ここ糺の森だったのだ。
神域で何やってるんだ!とツッコミが入りそうだが、神域の中で暮らし、日常と非日常が限りなく近いのが京都の持ち味なのだろう。
「関西ラグビー発祥の地」は糺の森だった。
【1000年の祭りの積み重ね】
糺の森には祭祀遺跡がある。
平安時代から現代までの祭祀の後が積み重なって遺跡になっている。
シュリーマンが発掘したヒッサリクの丘のように時代ごとに何層にも積み重なっている。
千年前の人と同じ場所で畏怖を感じ祭祀を行なっているというのは感動的な事実だ。
ギリシャには遺跡がたくさんあるが現在は観光地となり祈りの場ではなくなっている。
現在も祈りが積み重なっていることの凄みを感じるのだ。
さぁそれでは糺の森を通り抜け、いよいよ下鴨神社をお参りする。
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