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1 人生の放課後を過ごす私は...

60代後半の私は人生の放課後を過ごしています。教師をしていたときは授業が終わると放課後でした。でも今は毎日が放課後です。折に触れて教師だったときのことが頭に浮かんできます。日常の何げないときに浮かぶ「先生」と呼ばれていたあの頃のこと。

大学を卒業して教師になったのは20代初めでした。未熟な私を子どもたちは「先生」と呼んでくれました。最初はちょっと照れくさく感じましたが、それから40年あまりずっと「先生」と呼ばれてきました。公立中学校で30年近く、その後、公立高校や私立の小中学校、大学でも教えました。ずっと「先生」でした。教え子は今も私のことを「先生」と呼びます。ふと「先生」ってなんだろうって思ったりします。 
 
教師時代を振り返ると「あれでよかったのかな」と思うことがたくさんあります。自分は間違っていたのではないか、子どもたちに悪いことをしたのではないか、独善的だったのではないか。今ならきっと別の対応をすると思うことも少なくありません。楽しい思い出は山ほどありますが苦い記憶もあります。教師として抱えたたくさんの課題や葛藤、疑問が解決されないまま今も私の中に残されています。

人生の放課後を過ごす今、そうした問題をじっくり考えてみようと思います。私の放課後はこの先どこまで続くかわかりません。このあたりで教師時代を振り返り、教育について考えるのも悪くないと思うのです。世の中が急速に変わり、学校も変化が求められています。私が教職を離れたここ数年でも大きく変化しています。授業の進め方や教師の働き方など時代に合わせてやり方を変えることは大事です。教師だった時に「変えたい」「変えなければ」と思っていたことがここに来て少しづつ変わり始めています。その一方で変わらないことも多くあります。変えなくてよいこと、いつまでも残しておきたいことが大切にされるのはよいと思います。でも、変えた方がよいのに変わらないこともあります。人によって意見が違うのでまとまらなかったり、コンセンサスが得られなかったり、制度的に変えるのが難しかったりするからです。変えるには乗り越えなければならない課題がたくさんあると実感します。

一方、時代に合わせるためだからと言って何もかも変える必要もないと思います。昨今の変化の中で私がちょっと残念だと思うのが教師、生徒、保護者の関係性です。「昔はよかった」というつもりは決してありません。でも個人情報や個人的なつながりに慎重になりすぎて教師と生徒、保護者の関係が以前に比べて希薄になってきているように感じます。溝が広がっているように感じるのは私だけでしょうか。

教師としての自分の実践を振り返りながらそんなことをあれこれ考えてみたいと思います。人生後半のリフレクションです。記事に目を止めてくださる方と問題意識を共有できたらとても嬉しく思います。

日常何気なく浮かんでくる記憶の風景は決して順序よく並んではいません。あるときはついこの前のこと、ある時は何十年も前のことというように、年度も日時も場所もすべてばらばらで交錯しています。それゆえnoteの記事も時間軸に沿ってきちんと並んではいません。時空を超えて記憶の中を旅しながら思い浮かぶ風景をスケッチしていきたいと思います。



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