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【 作家と作品の関係性について 】


人に評される語られるってどんな気分なのだろう。


 わたしは幸か不幸か愚鈍な性格なもので あまり自分が登場してるシーンに出会したことがないのだけど(エゴサーチすれば出てくるのか。いや怖いわ;)売れる有名人ともなれば あることないこと多くのことを評し語られる。

 今やネットSNS全盛の時代。
もはや作品だけで語られることが難しくなってきている

 詩人 最果タヒさんが顔出ししない理由を こんなふうに語っておられるのが印象的でした。

「作者の顔がうっすらと見えるのが嫌い」
「太宰治の過去の話とか、知らないまま、作品を読みたかった」

 最近流行りのAdoさんとかも 同じような理由かもしれません。

 人間性に問題なければ、これは単なる作家さんのこだわりにすぎない。 けれどもなかには〝売れる前にバカやってた人〟〝売れてから慢心してバカやってしまった人〟もいる。

 SNSの影響で 本来の自分の不仕埒さ悪辣さまで自作の評に及んで 一気に奈落の底へ突き落とされる有名人も増えている。

 例えば写真家のアラーキーだとか、音楽家コーネリアス小山田圭吾だとか
映画監督園子温なんかはその典型的な例かもしれない。

 園氏の映画「自殺サークル」は ペシミストの選ぶ映画のベスト10に
挙げておりますが(現在執筆中)、観た当初は本当にセンセーショナルで
熱を上げたものでした。しかし当時はそこまで彼の素性を知らなかった。知ってしまっていたならば、作品にもまた違う印象を持ったことでしょう。

 わたしはなるべく作品と作家とは別に置きたい派なので、「愛のむきだし」(園子温)や「センチメンタルな旅」(アラーキー)や「POINT」(コーネリアス)など、相変わらず好きは好きなのだけど 世間的評価が落ちるのを目の当たりにすると、当然寂しい。

 ぶっ飛んだ過激な作品であればあるほど、作家の狂気性が生み出している面も否定し難いので、わたしからすれば「やっぱりな」くらいの諦観しかないのだけど、それが露骨に暴かれると「闇落ちしましたね」と憐憫したくもなる。

 作家と作品の関係性は切っても切れないもの
 これは仕方のないこと。
 仕方のないことだとわかっていながら
 それでもやはり残念な気がしてならない。

あゝ無情 … 。


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