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【 〝共生〟とはなにか 】

 社会で多様性を重んじられる時代。

 今の世の中、街や情報の至るところで〝共生〟という言葉を目にする。確かに魅力的な言葉なのだが、あまりに多いので、捻くれ者のわたしなんかは軽はずみに使いすぎなんじゃないかと各々それを掲げる会社を訪ね歩いては問い詰めてみたくなる。

 いったいどこからどこまで〝共生〟できるのか と。

 「すべてだ」と言い張る人間も多くいる。しかしその中身は絶対ちがう。あなたに歯向かう人、あなたと意見の合わない人もいるだろう。人殺しをなんとも思わない人もいるだろう。人を殺してしまったけれど深く反省し出所した人間はどうか。あるいは人を差別する側の人、共生を避け、人を差別し、ヘイトクライムに参加する側の敵対者。。

 世の中には想像もしない多くの考え方をもつ人間がいる。それらすべてを受け入れ無償に愛することなどできるだろうか?

 かく言うわたしも昔、不肖ながらNOMANという実験的アート集団を集っていた際、〝共生〟と似たような「ノンジャンルという名のジャンル」というキーワードを声高に叫び、すべての人間を平等に扱おうとした経験がある。それはそれは本当に様々な人種に出逢った。なかでも一際目立ったのが、心に孤独を宿した 万人受けしないタイプの人種だった。彼らはとても個性的であり、かつナイーブであった。われわれの理想は高く、すべての人種を受け入れようと努力を惜しまなかったが、結果は目に見えて明らかだった。自分を受け入れてほしい反面、自己主張ばかり繰り広げる相手とは うまく釣り合いが取れない。まさしくそれは写し鏡であったのだが、統制をとろうとするリーダーさえ平等に扱いたいがゆえ、事実上、リーダー不在な やりたい放題のカオス状態が育ち、徐々に歪みは拡大し、仲違いが生じはじめ 数年も経たないうちに この高尚な理想は、脆く瓦解した。

 たしか、わたしは当時 それを「解散」とせず「散解」と発表した。なぜそう記したのか、自分の記憶も曖昧であるが、いずれにせよ我ながらかなり貴重な経験ができたと思っている。(機会があればまたいつかまとめて発表できたらと思う)

 こうした経緯もあって わたしは〝共生〟という言葉にはかなり過敏に反応してしまうのだ。

 だが「散解」したあとも、まだわたしはNOMANで、諦めてなどいないし、アングラからメジャーまで世界を彩る暗さも明るさも分け隔てなく享受し、心に落とし込みながら表現したり、表現者の作品を楽しんだりしている。

 まず障害ありき

 言うなればわたしの〝共生〟はそれであり こうした酸いも甘いも偏見なく受け入れられるNOMANな価値観を共有できる人たちとで理想の社会を築きたいと願っている。

 とても困難な道のりだが、争いをする、争いごとをする人らみて快楽に耽る、そんな今の不寛容な者らをなくす〝共生〟は、究極そこに行き着くのではないだろうか。


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