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【エッセイ】「思う存分、幸せになれ」vol.7 「匂い」

深夜1時。部屋の電気をすべて消し、窓を開ける。籠っていた熱を出すように空気を入れ換えるこの時間がとても好きだ。月明かりがほんのりと窓際を照らして、やわらかい気持ちになる。

初夏の夜は気持ちがいい。風は爽やかで、どことなく明るくて、夜の怖さが襲ってないから。どの季節の夜にも良さはあるけれど、春の夜は夢のように儚いし、夏の夜は異様な暑さで流れた汗がすぐ冷たくなってしまうから苦しい。秋の夜は何故か寂しく、冬の夜はどこまでも寒くて切ない。だからやっぱり初夏の夜が一番好きだといつも思う。そして何と言っても、この時期特有の“夜の匂い”が、私のお気に入りなのだ。

未だにこの匂いの正体を私は知らない。おそらく推測するに、湿気を含んだ空気、または水分を湛えた草木や土の匂いだろうか。それが外から深夜のひんやりとした風を連れて、ブワァッと部屋の中へと入ってくる。すべてを浄化するように。この瞬間のときめきは、いくつになっても消えない。むしろ歳を重ねるにつれ、より一層そのときめきに焦がれるようになっていると感じる。

小学生の頃、林間学校と称して数日間、山の中で寝泊まりするという行事があった。2日目の夜、暗く静まり返った林の中を生徒全員で進み、その先にある広場でキャンプファイアーが行われた。担任の先生が自前のフォークギターを肩から掛け、その音色に合わせて『今日の日はさようなら』を歌ったことを思い出す。わくわくした気持ちと、数日間、家族と離れて少しだけ心細い気持ちが交錯する、そんな遠い日の懐かしい記憶。あの時も初夏で、この匂いがしていた。

匂いは記憶と密接に結びついていると思う。私が初夏の夜の匂いを嗅ぐとき林間学校の夜を思い出すように、匂いは図らずとも私たちの記憶を呼び覚ましてしまう。夏祭りの屋台の食べ物、好きだった人が付けていた香水、大学の講義室…。例えを挙げ出したらキリがないほど、匂いとは心の中にしまっていた何かを想起させる力がある。

きっとこれからも、匂いは様々な私の記憶を解き、懐かしさや切なさを連れてくるだろう。それは私を、時に恐ろしく、時に幸せな気持ちにさせるのだ。この感情は「エモい」なんて言葉では言い表せない。だけど、それなら何と言い表せばいいのだろう。こういう時に言葉は感情を超えてくれない。

そんなことを考えていると、家族から「そろそろ窓を閉めて」と言われた。空気の入れ換わった部屋の中が少しだけ肌寒くなっていたことに気づく。窓ガラスに手をかけて、もう一度だけ清らかな空気を肺に入れる。身体全体が夜の匂いに染まっていった。それに満足して、外の空気を閉じ込めるように窓を閉め、そろそろとベッドに入った。

幸せな気持ちを感じながら眠りにつく。匂いとは、私が生きてきた証なのかもしれないなと思った。誰かにとってはどうでもいい匂いでも、私にとっては大切なもので、反対に、私にとっては取るに足らない匂いも、誰かにとってはその人の記憶において重要なものなのかもしれない。それは誰にも分からなくて、分かり合えなくて、だけど分かり合わなくても構わない、自分だけの宝物なのかもしれない。そんな宝物をやさしく抱きしめて、生きていけたらいいなと薄まる意識の中で考えた。

室内にはまだ、夜の匂いが残っている。



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