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信仰なきは罪(第一説教集5章3部試訳) #29

原題: A Sermon of Good Works annexed unto Faith. (信仰にともなう善き行いについて)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です): 



第2部の振り返り

 この説教では善き行いについて正しく知るべきであるということをお話しています。神が人々に求められる善き行いとはどのようなものでしょうか。それは神が聖書のなかではっきりと命じられていることであり、人間が自分の頭の中で神の御言葉によらない盲目的な利己心から考えたものなどではありません。人間は善き行いというものの本質を見誤り、神をいたく失望させ、その御心と戒律から離れてしまっています。みなさんはこの人の世が、人々の頭の中で考えただけの礼拝に基づいて、その始まりからキリストが現れるまで神の律法から離れ、神に仕え讃美を献げようとしながらどれだけ間違った方法を求めてきたかを知りました。また人々が自分たち自身の慣習を神の律法よりもどれだけ上に置いてきたのかも知りました。

ユダヤ教にまさるキリスト教の悪弊

とても残念なことですが、この時代において、堕落によって、言いかえればキリストが示された美しく神々しい教義である神の律法を守っているようにしながら、その神の律法を無視することによって、ユダヤ人の間であった以上のことが起こっています。どのような知識や学びも神への真の信仰に結びつける人間であれば誰でも悲しくなるでしょう。かくも誤った教義や、迷信や偶像崇拝や、偽善や無法さや悪弊がキリスト教に入ってきて、神の聖なる御言葉という美味なパンの中で次第に種を膨らませてそれを蝕んでいます。極めて盲目であったユダヤ人でさえも、長く偶像を持つことはありませんでしたし、わたしたちのこの時代で見られるように、そういったものに跪くことも口づけすることも、香を焚くこともありませんでした。

キリスト教界における不敬な動き

不健全な信仰を持つ分派はユダヤ人のあいだでも四十はなく、今日のわたしたちにあるほどの迷信的で不信心な悪弊もありませんでした。ユダヤ人の分派や宗派では、それを拝する人々が不遜にも宗教国家と名づけたところにおいてあまたの偽善的でいいかげんなことが為されていました。彼らが言うところでは、彼らのランプがいつも照らされていて、自分たちの罪だけではなく同じ教えを拝する同胞や兄弟姉妹たちの罪をも贖えるとのことでした。こういうユダヤ人と同じようにして、真の信仰を持たない者たちが、多くの無知な人々に不敬にも巧妙に自説を広めています。そのような人々の中に入り込んであたかも功徳を売るかのように、聖遺物や偶像や聖骨などあまたのものを売りさばいてきました。さらにそういったものすべてを聖なるものと呼び、聖なる僧服、聖なる帯、聖なる贖宥状、ロザリオ、聖なる靴、聖なる法など、何もかもが聖なるものとされていました。

宗教には三つの土台がある

大人の男女も子どもたちも、瘧や疫病から身を守るために修道士の外套を着なければならないなどということ以上に愚かで迷信的で、不信心なものなどあるのでしょうか。この世での生を終えて土に埋められるときに人々にその外套をかけるのは、そういったものから自分を守ってもらいたいという希望からであったとでも言うのでしょうか。そのような迷信めいたことは、わたしたちの国にあっては神のご加護によりほとんど見られはしていないのですが、それでも外国に目を向けますと、知識がある人もない人も含めて多くの人のなかに潜んでいます。ここで、寄宿舎や修道院で奇妙な衣装を着て沈黙のなか、皆で集まって肉や飲み物などを選ぶにあたってどのような非道や悪弊があったのかを、かかる数多くの迷信を避けるために三つの点からみてみましょう。それはよく宗教における三つの本質であり三つの土台と呼ばれているものです。服従と純潔と清貧の三つです。

宗教の土台その1~服従と純潔

 まず宗教における父なる存在に対する服従とは本来的には自分から進んで持つものです。その服従においては宗教の規範や聖典の定めるところによって、そもそも人は自らの父母への服従からも、王や皇帝といったあらゆる時の権力への服従からも自由です。人が父なる存在に服従するのは神の律法における義務であるためです。服従の行いとして為してはいけないのは、この求められる服従を捨て去ることです。次に、どのようにして純潔の務めが守られたのかについては、沈黙のうちに伝えるのがより誠実でありますし、人々の不貞な生活を述べることによって貞節で信心深い人の耳を汚してしまう不貞な言葉をもってするよりも、良く知られている有様をこの人の世に見てもらうこととしましょう。

宗教の土台その2~清貧

そして清貧について言えば、いわば宝石や食器など貴重な品を持っている人々は、自身が商人や紳士や、男爵や伯爵や公爵と同じかそれ以上であるとしてしまいます。「プロプリウム・イン・コミュニ」すなわち「共有財産」という巧みで洗練された言葉によって彼らはこの人の世を欺き、その財産や富を手にしていながら、自分たちは誓約を守っていて清貧を守っているとしました。富を手にしていながら、彼らは修道院長や副院長や上司の許可がないことを口実として、自身の父母はもとより、施しを必要とする貧しい人々へ救いの手を差し伸べることはしませんでした。彼らはすべての人から受け取っておきながら、必要とするどの人にも与えはしませんでした。神の律法によれば助けるべきであるのにです。彼らの慣習や法を見れば、神の律法がそういうものと同じではないことがわかります。

キリストはファリサイ派を咎められた

キリストがファリサイ派に対して言われた言葉がまさにそうでしょう。「なぜ、あなたがたも自分の言い伝えのために、神の戒めを破っているのか(マタ15・3)。」「唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている(同15・8)。」彼らは高潔であるようなふりをして未亡人や無垢な人々に取り入ろうとし、その夫や友人たちのために三十日間の慰霊ミサや礼拝をしてそういう人々を自分たちの祈りのなかに取り込み、昼も夜もたいそう長く祈っていました。キリストはご自身の言葉で真実を突かれました。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だから、人一倍厳しい裁きを受けることになる。律法学者とファリサイ派の人々。あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いヘナの子にしてしまう(同23・14~15)。」

イングランドの宗教的健全への感謝

ああ、神に誉れがありますように。神はかつてかの高貴で高名な君主であるヨシャファトやヨシヤやヒゼキヤになされたように、極めて忠実にして真の僕であるかのヘンリー八世王の心に光をともされ、純粋な心を与えられました。その心によって王は神の御言葉についての知識と神の栄光を求め、反キリストが作り出した神の真の御言葉とその御名を誉め讃えることに反するあらゆる迷信やファリサイ派的な考えを排しました。神よ、わたしたちすべてを王に忠実な真の臣下としていただき、神ご自身の御言葉という甘美で美味なパンをお与えください。キリストがお命じになっているように、人間の不確かな信仰としてあるあらゆるファリサイ派的で教皇主義的なパンの種を避けさせてください。この種は神の御前にあって忌まわしいものであり、神の戒律とキリストの真の教えとは相反するものであるのですが、どういうわけか、最も神の御心に適っていて健全な形のものであるかのように捉えられています。

教皇主義的な迷信による悪弊

神の聖なる戒律に従うよりも、あたかも彼らが言うような法や慣習や信仰に従うほうが、人間がもっと神の御心に適っていてもっと健全であるというようにされてしまっています。この不信心でまったく正しくない教えを排するために、数珠の玉やマリア讃歌や、ロザリオの祈りや十五の祈りや、聖ベルナルドゥスの幻視や聖アガタの手紙や、煉獄や贖罪のミサや、十字架の道行きの留や、特赦の年やにせの聖遺物や聖別された数珠や鐘やパンや水やシュロの葉やろうそくや火などといったさまざまな教皇主義的な迷信とその悪用を思い起こしてみましょう。このほかにも、迷信的な断食や宗教団体と、正しいものとみなされて神の栄光や戒律への大きな偏見につながり、最も高いところにあって最も聖なるものとされて売買された免罪のための物品もあります。そこで永遠の命を得て、罪の赦しがあるとされたのです。

ローマの法や教令による悪弊

またまがいものが作られ、実りのない儀式やローマの不信心な法律や教令や公会議もすすめられましたが、そういったものには権威も知恵も知識も信仰もありません。彼らが言うには、そういったローマの決まり事は四つの福音書と同じようにすべての人々に受け入れられるべきで、あらゆる君主たちの法がこのローマの法に従うべきであるということです。そうして神の律法は置き去りにされて省みられず、ローマの法や教令や会議が独自の慣習と儀式をもって順守されて神の律法よりも重きを置かれました。人々は無知ゆえに、このようなことが神の御心に適っていると考え、これらを順守することが神の律法を守ることよりも聖であり、神への健全な礼拝と讃美の形であって神に喜ばれることであると考えました。

人々は教皇主義的な権威に騙された

このように人間は神の聖なる律法を求めてそれを守るよりも、誤って神への迷信めいた讃美を自分たちの頭の中で作り出してそれを行い、それを保とうとして熱心に祈りを献げるに至りました。さらには神の律法を人間の法とし人間の法を神の律法として、それをあらゆる法のなかで最も完全で聖なるものとしました。このようにすべてが混乱したので、真実をあえて主張して神の律法を人間の法と分けることを知っていたのは、ごく少数の学識のある人のなかのさらに少数の人のみでした。そのような中で多くの誤りや迷信や偶像崇拝や無意味な教えや理に適わない正義や激しい論争が、あらゆる不信心な生活と共に生まれました。

神を信じ神の律法を守るべし

 したがって、神を正しく心から讃えようとするならば、また自らの魂とやがて来る苦痛も終わりもない生に重きを置くのならば、何よりも神の御言葉を読んで聞くことに力を注ぎましょう。力の限り熱心に神の御心に適おうとしましょう。みなさんが神の御心に適うためにするべきことを心に留めていきましょう。まずみなさんは神に確たる信仰を置き、自らを神にすべて委ねて幸いなる時も災いなる時も神を愛し、またそれ以上に神を畏れなければなりません。神の御心に適って友も敵も含めてすべての人を愛さなければなりません。その人たちもみなさんと同じく、神にかたどって創られてキリストに贖われているからです。どのようにすれば自分がすべての人々に対してまたすべての為政者に対して善を行い、誰をも傷つけないでいることができるのかを考えましょう。

キリスト教的人間像をもつ生活の勧め

目の前にいようといなかろうと、罰を恐れてのみではなく良心によって、神の律法によってそうするように定められていることを意識し、すべての為政者に服従して雇い主には忠実に誠実に仕えましょう。両親に従わないなどということのないようにし、むしろ尊敬を払って助けて喜ばせましょう。誰をも迫害せず殺めることも暴力を振るうこともなく、中傷したり憎んだりしてもいけません。力の限り、すべての人を愛し、すべての人についてよく言い、誰にでも救いの手を差し伸べましょう。そうです、あなたを憎んでいて、あなたを悪く言っていて、あなたに大きく害をもたらしている敵に対してもです。他人のものを奪ってはいけません。隣人のものをむやみに欲しがってもいけません。いま確かに持っているもので満足し、求められればそれを喜んで差し出しましょう。あらゆる偶像崇拝や魔術や偽証から離れましょう。望んでであれそうでなくてであれ、他人の妻や未亡人や女中などと姦淫や密通などの不貞を行ってはいけません。

結びの祈り

神に心からの大切な正しい讃美を向けて信仰にあって働き、天に至る正しい道であると神が定められた神の戒律に従ってこの世での一生を通じて道を歩み続ければ、キリストが約束なされたとおりに、必ずや祝福された永遠の命に至って神と共にとこしえに栄えと喜びのうちに生きることができます。讃美と誉れと御国とが永遠に神にありますように。アーメン。


今回は第一説教集第5章「信仰にともなう善き行いについて」の第3部「信仰なきは罪」の試訳でした。これで第5章を終えることになります。次回は第6章「愛について」の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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