[重要回】スキルとエネルギーの相関関係と尊厳と愛の関わり前編

東京グールという一時、一世を風靡した漫画がある。
その中で登場する言葉、おそらく作者が自身の確たる哲学として手に入れた考え方である。
それは

「この世の不利益はすべて当人の能力不足」

である。

今日はこの言葉が示す論理の正当性を考えてみたい。

まず、運と言う要素はどう扱われているだろうか。
もともと足が微妙にうまく動かない人間がサッカー選手になるのに必要な努力量は、健常者と
同じではない、という歴然たる事実が存在する。
誰もが同じ能力を手に入れるのに必要な努力量、情報量は一律ではない。
能力とは、何を、そしてどこまでを指し占めているのだろうか。

じつは深く考えなくとも、答えは出ているようである。

大きな波濤に飲み込まれた人間は、波濤から逃げ延びる能力がなかっただろうか。
逆に逃げ延びた人間は波濤から逃げ延びる適切な能力を持っていたことになるだろうか。
否、否である。

能力はある程度相反する性質がある。
一見してわかりやすい相反ではない。さまざまなベクトルで能力は相反する。
まるでランダムに広げられた神経衰弱のトランプがひとつひっくり返れば違うところで勝手に
裏返っているような、乱数の大きさがあるように思える。

例えば、
人の気持ちを汲み取る能力は、誰かの気持ちを汲み取りこぼす能力でもある。
絵を描くとき、構図を覚えるのに理性を、感性を磨くのに右脳を使えば、(一概には言えないが大体の場合)言語能力が割を食う。
そして割を食った言語能力を取り戻すためには、またほかの部分が割を食う。

赤ん坊が歩けるようになる時、カロリー以外の代償を特に払っているようにみえないのは
能力を保持する最大数の拡張がなされているからである。
人はそれを成長と呼ぶが、幼少期の肉体的な能力は最大数が自然と上昇する傾向があるのに対して
精神から既発する能力のすべては成熟期を迎えた後はどこかの何かに紐づけされており、全体数が増えることはごく稀である。

重要なのは、精神的能力を獲得する際に発生する抵抗である。作用に対する反作用、飛行機が飛ぶときに
考えなければならない空気抵抗のようなものが精神能力類には存在する。

能力の多くは精神に起因する。
陸上の大会で誰もが破れなかった九秒台への壁が一人の選手が破ったとき。
同じ会場で後から走る別の選手が九秒台の記録を出したという話がある。

人類が出せないといわれてきた九秒台をできるんだという意識がなしえたのだ。

つまり人の能力と精神のあり方は切り分けることができず、そして精神能力の最大値を上げる方法は
日常的作業ではなし得られない。

このように能力の最大化とはトレーニングや専門的スキルだけではなく、精神性を大きく加味する
必要がある。

では精神と能力が密接に結びついているのならば、能力の最大値不足は精神の不足に当たるのだろうか。

自分はもう一つの要項を加味しなければならないと考えている。
エネルギーである。
精神とは心の働きと思考の既存バイアスをさした言葉だ。
心の働きと思考の既存バイアスは、どうして構成されたのだろう。
外的要因(特に幼少期の)と内的要因(対象者が本来持つ性質)があるのは前提として、成熟期以降であれば、それは当人が持つエネルギー量が非常に大きな比重を占めているといえる。
エネルギーとは大きな抵抗に超克する力だ。エネルギーがないまま動くということはコックピットを
開けたまま戦闘機に乗るようなもので、最悪肉体を粉々にする。

当人が持つエネルギーを規定する方程式は、非常に複雑で自分の中でもおおよそ察するくらいの理解度なので言明は避ける。
エネルギー量が十分でないまま働きを持つということは、肉体で言えばトレーニングをしていない
体でフルマラソンを走るようなものだ。
それと同じことが精神でも考えられる。

肉体の能力は筋肉や骨密度等を参照すればいいのに対して、精神に大きく起因する能力はエネルギー値を
参照するわけにはいかない。
可視化不可能であり、筋肉以上に変動速度が速く、そしてその原因も複雑怪奇だからだ。

事精神能力を伸ばすことに対して、エネルギーを底上げするという道程は必要になるだろう。
そもそもここでいうエネルギーとは魂の活動状態に依存していることが多い。

鋼の錬金術師で言われていた通り、精神とは魂と肉体を結ぶひものような役割をしている。
魂の活動が非活性的であるのに精神が活発であるなどということはない。
したがって、精神能力とは魂の能力と溶け合うように存在している。
魂の活動性、それが精神能力の源泉ともなりえる。

では魂の活性性は、どこような条件で決まるのだろう。
それはいわゆる今世だけできまるものではなく、魂の個性が活性性の大きな層状の段階を決め、
そして今世をどう過ごしてきたかという点によって、一つの段階の中の上層へ下層へと変動する。

つまり生まれ持った魂の個性が決めた段階を、今世によって変更することはほぼ不可能であるといえる。
なぜならそれは自己の崩壊を意味しているからだ。
魂はプロセスを重視する。つまり順番を意図する。
それを変更することは魂の個性の否定であり、これは魂にとって理解できることではない。
あなたが生まれた時から終わりの時まであなたであるように、魂もまた特定の段階を始めてから終わるまで
特定の個性を捨て去ることはない。

魂の全容は、精神の全容である。
しかし精神の全容は心の全容ではない。
心という器はエネルギー的な束縛を受けていない場合、基本的に常に自由である。

心は感情という道具を保管しておく水槽のようなもので、世間で言われている通り、穴が開いたり
底が抜けたり喜びに震えたりする。(本当に!)

精神能力の上昇を思ったとき、精神にアプローチするということは、心(あなたという個性が持つ感情バイアスとその記録)と理性(つまり自我を持つ特定の脳システム)にアプローチするということだ。

(魂を含めた)それらをすべてひっくるめて、アイデンティティと呼ぶ。

そしてそのアイデンティティの総和と一時的な変動を経て、人の目に触れたごくごく一部(鳥取砂丘とまではいかなくとも、砂場で落とした一つのビー玉くらい)
のことを、人は能力と呼ぶ。
そしてビー玉以外のすべての砂を人は潜在能力、あるいは可能性として定義することも間々あるが、実は
正確ではない。
潜在能力とは、ビー玉の外枠に当たる。
活動の有無、多寡の問題であり、自己に内包されているためだ。

従って、潜在能力ではないのであれば、つまり魂が持つ段階とは違う段階で発揮される予定の
能力には、潜在能力あるいは可能性として含まれることはない。

突然未来予知に目覚めた場合、それは魂の段階に該当しており層の隔たりだけが何らかの理由で埋まり
発揮されたと考える。

以上のように能力とはあらゆるジャンルの外延と繋がっており、それだけで自立することはない。
従って全くの間違いとは言わないが、表現には瑕疵があるといえる。
正確な表現は、「この世のすべての利益、不利益には、魂的段階とそれに伴う意味が存在する」

こうであるべきだと考える。

そうだとすれば、能力に伴う責任とは何だろう。

責任と能力といわれピンとくるものは自分にはない。
ただ責任と立場であれば、自分の予感はピンとアンテナを立てるように反応する。

ノブレスオブリージュ、地位や身分に伴う義務と責任である。

ここでいう身分とは何も貴族かどうかや家系がどうであるかではない。(家系は多少関係するけど・・・。)

魂の身分である。魂の身分とは、先述した魂の段階のことを指している。
ただ身分という言葉が使われる通り、いわゆる出生に大きく性質が起因する。

魂が育った場所、そのバイアスに魂は大きく影響を受けている。
地球である場合もあれば違う星である場合もあるらしいが、それについて詳しいことは知らない。

ただ魂が持つ(精神に影響する領域の)能力は、生まれ持った魂の身分に依存することも多いのは事実だ。

これを書いていて、自分はとても違和感のような嫌な気持ちがある。
潜在的に、人類はみな平等対等だと思っているからだ。
これに賛同するものは多くとも、実際にそうだとして行うものはほとんどいない。
そのほうが自分が有利だからだ。

貴族社会のような尊厳の意図的な操作に対して、激しい嫌悪感が立ち上ってくる。
金持ちで家庭がうまくいっている家の子供は最初から有利であるが、それも絶対的ではない。
人類の多くは絶対的な身分制度を破棄することができたのに、魂にさえ身分(星の性質)
が存在するのか。
しかもその段階の規定は絶対的に思えるほど強靭である。

我々は平等ではないのだろうか。初めから有利な人間は有利であり、力を持つものは最初から最後まで
力を助長させられるのだろうか。
魂でそんな理不尽が許されていいのだろうか。

自分は長年、そういった問いに対して、「能力の性質の違い、量の違いが尊厳の違いではない」という
説明を自身にしてきた。しかしそのたびに感情はそれを強く否定してきた。
実際に、そこに確かな尊厳が感じられないからだ。尊厳が効力をもって働いていないからだ。
とんだ詭弁であるといえる。

人間的視点で進める論理では、こうやって壁にぶつかることもある。
しかし魂的視点ではどうも違うらしい。
紙の上に書かれた迷路にゴールがなくとも、立方体に作られた迷路にゴールがあることもある。
視点が違うということは、それだけルールが違うのだ。

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