【ぜひ読んで】エネルギーという言葉が指し示す事柄と言語の効用vol.1

この記事ではエネルギーという言葉が汎用される。
哲学者にとって新しい哲学的体系を構築する際、既存の言語枠に適切な言葉がない場合造語という
手段をとることは間々みられる。
自分はそれは非常に素晴らしいことだと感じている。
我々は言語思考を常とする一方で、言語がなんたるかをいつも疎かにしている。
言語を深めない哲学者は存在しない。言語学者であり言語の実践者でなければ哲学者であることは適わない。

ある方がこう言っていた。(以下意訳)
「私はエネルギーという言葉が非常に嫌いだ。今エネルギーという言葉は非常に適当に使われている。
 電気を指しているなら電気エネルギーというべきだし地熱はエネルギーとは違う。誰もがエネルギーと口にする一方でエネルギーが本当になんであるかを考えていない」

これには言語の動きに敏感であるという点に賛美を送る一方で、自分は真っ向から反論したい。
本来言語とはひとそれぞれが独自のものを持っており他者共通ではない。
愛や夢という抽象的な概念を扱うときは殊更言葉は画一性を失う。
当人がどういう意味を持たせているかは人生経験に依存し、文脈のなかでどういった意図を持たせているかは当人の言語知能に依存する。
強烈なリアリティを以って使われるのが「お金」である。
お金という言葉を使うとき、人は無意識に自分が眺めているお金を言葉に潜める。
自分が使ってきたお金の額のうちにはある程度の力が持たされており、巨額になれば途端に夢想的な
響きが宿される。
お金という言葉の本質がその人の収入に依存するというのならば、言葉を勉強する時収入の動きを見なければならないなどという主張は奇天烈である。が、どういう
人生経験をしたきた人がその言葉を使っているかという点は鑑みなければならない重要な点であるといえる。
当然同一の経験をすることは人類の数が百億の大台に乗ったとしても不可能であるため、我々は主観的には別々の言葉を使い仮想的に同一のものを分け合おうとしているのだ。
それが対話であり言語のけして分離できない本質のひとつである。

エネルギーという言葉は非常に乱用されているという指摘は正しい。
しかし自分からしてみれば、”乱用”されていない言葉など存在しない。
文脈と人生経験に依存しない言葉など存在しない。

言葉は独立することはできない。具体、抽象問わず文脈上では何かと何かを繋ぐための媒介として機能しているし、その機能の仕方は誰がその言葉を発しているかによって決まる。
加えて、誰が発するかだけではなく、誰が聞くかによっても変わるため言語は非常にアンフェアな道具である。

自分が定義する”エネルギー”は、「目的を達するためのリソースかコスト」としている。
ここでいう目的とは哲学的な響きを持ちあらゆるものを指している。
運搬を目的とした電車のエネルギーは電気であり、活動を目的とした人間のエネルギーは(生態的な文脈であれば)カロリーである。
機能を目的とした心のエネルギーは波動であり、よい波動と自由を目的とした愛のエネルギーは(人間の間に巻き起こる文脈であれば)光である。
エネルギーという言葉は非常に言葉本来の姿をしており、あらゆる形で機能しあらゆる物事を指し示す。
言葉の柔軟性と不確かさを象徴し、一単語にとらわれることなく全体像を眺めることを勧めているようにも
感じられる。

自分が使うエネルギーは哲学的な示唆がある場合を除いて多くの場合は波動のことを指しているが
波動という言葉では波動の働きを指し示しているようには思われない。
現在の日本人が使う波動は非常に空想的な響きを持ち、適切な文脈で使われることの少ない背景がある。
そもそも波動とは波の形状のエネルギーのことを指していると自分は解釈しているが、エネルギーという言葉を
使って定義する以上その裏には”目的”(向かう先)が存在しなければならない。
エネルギーは動きを支える媒介を指しているからだ。(エネルギーは波動とは違い、動きと共に使われる。
動きを暗喩する以上、目的地というベクトルが必要である。)
つまり波動という言葉は昨今の現状を鑑みるに”何に作用しているのか”という点が軽視されがちである。
波動という言葉に見られる意味として、適切であるとはいえない。

例えば電車が電気の供給を切られ、運用期間を終え、博物館に飾られたとしよう。
電車の目的は運搬であったが目的を果たせなくなった、と考えるべきではない。
電車の次の目的は展示である。つまり博物館で「これは1998年より運行された○○電車で~」と説明が
ある限り、(人々がそう認知している限り)電車はまだ電車である。
しかし宇宙人(あるいは電車を見たことがなくその機能を全く想像できない人、原始人でもいい)が
その展示された電車を眺めたとき、それはただの箱である。電車ではない。
「これは電車と呼ばれていた」という名前だけの情報伝達では、真に電車という言葉を通じて説明が果たされたことにはならない。
何をするのか、どう機能するのか。それがこの世界に名前がつく物事の本質の大部分を占め、波動という言葉
には動きの裏打ちがないまま使われエネルギーは動きの本質をとらえたまま使われているというそれぞれの背景が、言葉の本質を揺らがしている。
(波動という言葉を使う人間全員が量子力学者だったら話は別だが)

以上を鑑みても、哲学者は哲学をしている時間と同じかそれ以上に言葉の資質について非常に深い洞察を
醸成する時間を持っておかなければならない。
エネルギーという言葉が使われてきた歴史を鑑みるにエネルギーという言葉以上に適切な歴史を内包する単語は存在しないように自分は思える。

再記するが、自分が使うエネルギーとは「目的を達するためのリソースかコスト」という意味がある。
ここでいう目的とは人間が意思を持って掲げる目的ではなく動きのベクトルのことを指している。
現象を特定の形や状態にするために必要とするものといってもいいだろうと思う。
スピ界隈ではそれが波動であり、電車にとってはそれが電気であり、社会人にとっては気力や体力を指すこともある。

あらゆる言葉がその場その場で姿を変えるように、たとえ単調に見える一つの主張でもその奥には何層にもわたって真意や語弊の層が存在することを忘れてはならない。

動きのベクトルとは、あらゆるミクロ的あらゆるマクロ的幅を指し示し可視不可視を問わないことは
覚えておかなければならない。
電車の展示において電車の理解を深めるという目的があった時、知的生命体の思考レベルに干渉するという
動きが目的として設定されている。
ニューロンの構築式が物理上で変化しているのだ。思考の幅が変わるという意味であり、思考の幅が変われば
つまりそれはそのあとのその人間の人生、すべてを変えられる変数を創造するということである。

スピリチャル界隈の一部分では、波動は高い、低いだけで語られる傾向にあり、それが向かう先が
文脈に潜んでいないことが多い。
向かう先が不明瞭な波動という言葉が非常に空虚な響きを持つのは、発言者と対象の波動(エネルギー)との乖離を示しているからだ。
働きを持つという以上、働きの始まりと終わりという働きの全体像を知覚する必要に迫られる。
連続する時の幅の中で対象の波動を断面的にしか捉えられていない、ということが乖離の正体であると思われる。
断面的にのみとらえられた波動という言葉では波動の働きの何も指し示していない。

以上の主張に対して有効な反論点は、波動という働きそのものがが意図と乖離しているという指摘だと思われる。
つまり波動はそもそも形而上に超自然的に存在するものであり、働きの方向はあってもすべてが誰かの意図を介したものではないという指摘を考える。

超自然的、という言葉が指し示す範囲はその人の宇宙論を基盤として機能するためこの文脈での取り扱いは難しい。絡まった紐を解こうとしてもとをたどっていくうちに
複雑に絡まった点を通過するような煩雑さが見えてくる。
しかし波動という概念は宇宙論と丁寧に癒着しているためここを避けて通るわけにはいかない。

波動、(自分の言葉で言えば霊的文脈におけるエネルギー)は、あらゆる知的生命体の意図を受けているはずだ。
ここでいう知的生命体の定義は、既存の流れを変更できる知恵もしくは信念を持っているもののことで
霊的肉体的問わずあらゆる存在が当てはまることになる。
その知恵や信念は、人間が生後、能動的に取捨選択して手に入れるような、所謂アイデンティティから発揮されるような個性的なものではない。
俯瞰して眺めてみれば、それは一種の莫大なシステムの一部分のように見えることもある。
ひとつひとつの構築された道をよくよく眺めてみるとやはりそれは信念としか呼べない意図が存在する。
これは電気に置き換えればモジュール化された電気回路版のような構図であり、ニューロンとシナプスの神経回路のような構図に酷似している。

それらの信念で構築された”道”は、波動の流れる方向を決定し、超自然的に存在する波動そのものに
働きを与える。
波動が自らの信念が構築した道の外を通る時、誰かの信念で構築された道を通るのは自然なことだ。

道を通らない波動というものがあるのであれば、先述した反論は有効である。
しかしそんなものがあるのだろうか。
上に伸びる重ねられた電子回路基板で次元の違いを指し示すことができるとして、上方の電気が正確なベクトルを失い、回路版の外に放電していると仮定した場合、それは
秩序の崩壊を意味している。下の回路版に似たような何か知らのエラーが廻っても不自然ではない。

照応の法則というものがある。
下のもののごとく、上も然り。で語られる法則はすべてにではないにしろある程度の効力を持っている。
これに照らして考えれば上の無秩序は下の無秩序を招くことになる。
因って、意図のない波動は存在せず、一見して道を通っていないように見える波動も行く先が存在するのならば
それは誰かの意図に従って動いていると考えられる。
意図のない波動と出会うとき、それは自分の知覚レベルの範囲の外側にいるだれかが導き、使役している
波動であると定義できる。

ひとつの小さな支道を歩くとき、やがてそれが大道へとつながるのは自然なことであり行く先が必ずローマではないにしても、誰かが意図したものであることは
必至であるといえる。

補足であるが、サイコロの目のような話型も考えておく。
上記の話は、発展して賽を振った時出る目は必ず誰かが意図したものである、と言いたいわけではない。
ただその場所、その時、賽を振るという行為を全体的に捉えたとき、やはり誰かの意図は存在する。
誰の意図が存在するかはエネルギー的イニシアチブがどのように流動するかを説明しなければならず
その手段として文字媒体を選ぶのはあまりにチャレンジングであるため控えるが、
刹那や部分的視野に囚われることなく、大流を眺めることで我々が今どこにいるのかを理解する助けになるだろうと思う。

以上では、エネルギーや波動といった例を挙げて言葉の性質に触れると共に自身の宇宙論の一部に触れた。
言語は哲学の基であり、哲人の出自から終生まで付き添う。まるで老人のための杖のように傍を
離れることはない。
その人を知りたければ言っていることではなくやっていることを見なさい、という教えは確かに効力を持っているが、自分からすればその人が言っていることを少し聞けばその人の人生がどのようなものであるかを知れる。
それほどに言葉は数多の情報を孕んでおり、有効に使うことが人生にどれほど大きな影響を齎してくれるのかが
理解できると思う。

言葉の重要性の啓示は今日日目新しくもない。中世ヨーロッパでも寓話的に示されることが何度もあった。
杜撰な言葉の乱用を諫める目的で、悪しき言葉を使う人間の言葉の内容を現実化し、愛し合っている恋人が
喧嘩した際に相手に死ね、と叫んだ翌日、相手が死んでしまうという霊的ムーブメントがあった。

その一例を以って、人々に言葉を慎重に使う啓蒙的寓話としての創造を意図したわけだが、あまりいいアプローチであったとはいえない。
言葉の効力を示すのならば、素晴らしい言葉使いをしているものだけがどうしてだか望外の幸に恵まれまくるというケースを寓話として広める方がよかったし
(言葉と結果の因果がわかりにくいとしても)、悪しきを言ってはならない、という教えよりも善きを口にし続けよという啓示の方が効力としては十全であると思う。

言語知能的に見て、人類は進歩していない。
バベルの塔が崩れたとき、一つだった大陸が切り別れ、共通だった言語を分離することになったと神話では語る。
しかし人種における言語は文明の枠内であり、冒頭で述べた通り、言語知能とその帰属性は個人の枠内に留まる。
真の意味で我々が進化するには、教育は欠かせず、ここでいう教育とは育児や学校教育ではなく、大人が自己を啓発する意味として、教育が必要なのである。
先人の自己啓蒙なくして後塵の教育はあり得ない。

日常で使われる言葉は我々がどのようなレベルで生きているかを示してくれており、真の意味で自分が為すことを
教えてくれている。
破滅的な人生を望んでいないのであれば、心中、心外問わず善い言葉を使う必要があるのは言うまでもない。

難しい語彙を覚える必要はないし、哲学に身を投じる必要もない。難しい文を書く必要もないし、東大やハーバード大学で教えらえることを無理して学ぶ必要もない。
それにマメができるほど勉強する必要もない。
ただ、啓蒙的でなければいけない。
啓蒙とは盲目的な自らの行いを発見し受容することだ。認知は改善の一歩であり、それは進歩のプロセスである。
認知なくしての改善は洗脳と同じである。自分は改善されたのだ、と声を張って主張することはできても、進歩したということはできない。

蒙昧は他者に従い付き添うことを認めることであり、それは知能的な服従を意味する。
言葉の力の改善において、他者は導くことはできても完全に改善に関与することはできない。
自らの行いとし、自らの因果とし、再創造するプロセスにおいて、自分の領域で王たりえんと君臨するのは常に自分だけである。

それぞれが自己の無意識に立ち戻り、適当に使ってきた言葉を意図して使うようになれば、誰かにコントロールされることなく、覚醒的な生き方ができるようになるだろう。
原因不明の事柄において頭を悩ませることは大いになくなるし、部分的なプロセスを全体的に眺めることができる。
全体的な視野を持つことができれば、一見歓迎できない事柄も、一時的なものであり虹を見るための雨に過ぎないと理解できる。
やまない雨はないというつもりはないが、雨が降っているときに心に描かれた虹は、雨の時を味方にしてくれる。
苦痛を取り払い、雨の一側面である慈しみを拡大して感じさせてくれるはずだ。


後編 →  https://note.com/rich_crocus215/n/n82ce42bacb48

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