邪悪と光

今日はある方と話していたのだが、その方がこういっていた。
『量子力学的に、素粒子のスケールで見る人間は光でしかない。』

人間はみな光なのだ、と。彼は話していた。

自分は、体験を通して人が宿す光について僅かばかりは理解しているつもりである。そこには光という一律の概念ではなく、くすんだ光もあればまばゆい光もある。

人は水を持っている。だからその水目掛けてこちらから投光すると、その人がいずれ水鏡の要領でその人自体が光を放つようになる。
光を放つようになったその人はまた新たに人に向かって光を放つようになる。
これを自分は光のバトンを渡すと表現しているが、これにはその人が持つ光の状態が”どれほど輝かしいか”という
パラメータが存在する。
全ての人が同じ状態で光の機能をしているようには思えていない。

くすんだ水鏡は磨くことで光をよく保持するようになる。
ここで指している磨くという行為は、美徳を重んじて行動することも重要なのだがそれ以上に瞑想が重要である。
もっと言えば、瞑想そのものではなく、瞑想から手に入る平穏が重要である。
瞑想といっても重要なのは座禅を組むことでもヨガをすることでもない。
何も考えず真剣に深呼吸をするという時間を増やすことだ。それだけでいい。一段でも深く呼吸ができるようになれば、人生に訪れる平穏の大きさはけた違いに変わってくる。

近年、変化は(古代と比べて)とても速い。
自分の光を増加させるには十分な環境であるといえる。

邪悪、という言葉を最近はどうしてかよく聞く。
自分は邪悪だから、そういうところが邪悪なんだよね、と。
あまりに複数の人から分けて聞くのでこれは今自分が聞くべき言葉であると思われるが、どうしてそのワードを聞かされているのかさっぱりわからない。

そもそも邪悪とは低下した光(乃至は低下した絶対善)のエネルギーである。

性善説、性悪説と二分されて、巷ではよく語られる。しかし実際はどちらでもない。人は二分される善と悪という性質を持っているわけではない。

哲学的な設問であるのにも関わらず重大な不備があることを長年、指摘されていない。(あるいは指摘されても些細なこととして隅に追いやられている)

そもそも善悪とは人間の視点によって張られるレッテルの名前である。
対して善悪と称される物事の本質は、エネルギー的状態の違いでしかない。

つまり人が生まれながらにして善であるか悪であるかは、個々人の人生観であり人生観である以上投影であり視点を変えても保持されるもの、つまり本質ではない。

邪悪とは。つまり幻想である。
彼らのいう邪悪という幻想は、一体何を指しているのだろう。自分はそれを聞いてどうすればいいのだろう。
とずっと考えている。

低いエネルギー状態を邪悪と呼んでいる人間に向かってそれはエネルギーが低いだけ、といったところで「ああ、そうか」とはならないだろう。
仮になったとしてなんになるのだろうか。
邪悪だと口にすることよりも、「こういう自分が善くないんだ」と感じている自分との対話を奨めるべきなのだろうか。

スピ業界では、自分が感じているから(しているから)、相手も感じている(している)という論法が大いに流行っている。
実際、観察を以てしてもどうやらそれは正しい。
では自分は自分の何を邪悪だと感じているのだろうか。
答えはたくさんの時間を必要とするようで、案外簡単に見つかりそうでもある。

自分は自分のことを(素粒子的にも、霊的にも)光であると、信じている。
実際ある特殊な分野に限って多くの人ができないことができ、見えないものが見える。
だからこそ、(中でも高位で完璧とされる)光の存在にはあってはならない低下したエネルギー領域、つまり邪悪を持つと感じるのだろう。
強い信念的光が強い(信念に当てはまらない部分)影を創り出しているのだ。

しかし重要なのは、強い光は必ず影を創り出すわけではない、ということだ。
(思想家を沢山輩出した昔の中国では、陰陽紋とセットで陰と陽の調律は絶対不変の真理として語られた背景がある。)
二元論は次元上昇によって法則を打ち破ることができる。つまり強い光ではなく、内的な領域で
”光を遮っているもの”にフォーカスを当てなければならないのだ。
それが新しい自己になるための、変容というものである。

自分が今、邪悪とよく耳にするのはおそらくそういった意味があると思われる。
所詮、邪悪など光のための踏み台でしかないのだ。

絶対善に包まれているのに、どこにいったら絶対善から離れたことになるのだろうと懊悩してはいけない。視点がほとんど自動的に変わっていくだけで、”位置”そのものが変わっていくわけではないのだ。

今更になるが絶対善という自身の哲学から生まれたワードが指し示す体系に言及しておく。

絶対善とは言葉の通り、変容しない善性を指している。
これは今の人類が嵌っている強力な陥穽であり頚木である。

そもそも、神が言っている言葉を翻訳した時(表現が突飛すぎる場合、自分がはっと気が付いた時と直しておいてほしい)
「すべての善は実行されている」といっていたのだ。

はじめ自分にはチンプンカンプンであった、が大抵そういう場合は、心の方が先に納得して頭が遅れて理解するだけである。
————諦めなければ。

世界に起こる、それこそ邪悪の塊であるような行為の数々が実は善であるなどと触れて回れば、思想家としてではなく異端者として病院に遅れられることだろう。

しかし重要なのは、それが起こっている、ということである。
「起こっていないのならば、それでよく、起こっているのならばそれでいいのだ。」
絶対善とは比較できない性質を持ち、相対することのできない性質を持っている。
相対も比較も、同じ領域に二つのものがなければならない。

善と悪は対立する。より分ける、分断する。
行為の底流に別のプロセスが存在するからだ。当然、相殺や競合が起こる。
しかし、絶対善という領域には、別のプロセスが存在しない。
全てが絶対善として定義されている。ほかに同じ領域に存在するものはない。

理屈はともかく事実として、闇なるものは存在しない。
絶対善という主張に照らせば、すべてが光の側面であると定義される。

この説明をしたときによく勘違いされるのだが、これは単に事実の列挙をしているのではない。
だから「ああ私、その話わかるよ」という相槌にはなんの筋合いもない。理解することには意味がないのだ。
この話(だけに関わらずあらゆる問いにおいて)をするときは必ず、用意されているその先の暗黙の問いが存在するのだ。

『その世界を生きていますか?』

という問いである。
これには口で答えることはできない。生きざま、そして光徳というパラメータなどを参照して、「あなた」の名前でタグ付けされ、時の始まりから終わりまでずっと自動的に回答されているものだ。

つまり邪悪(あるいは義憤、嫉妬、巨大な不安感)について思考し感じ、行動し、ジャッチしている時点で、自らの内的外的問わずすべての刹那を思い直し、もっとふさわしい自分になるための起点に立っているといえる。

絶対善という資本は非常に重要である。
生きたい世界を自分で選べているか。どの程度選びなおしてきたか。
名前がどうであれ絶対善という領域は常に自分の在り方を(自分の幸福のために)見直し、どの程度のレベルで生きているかを確かめるための、光のよすがになるのだ。

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