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「100歳までビキニを着る」をミッションに、女性がずっと自信を持って明るく豊かな人生を…

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「100歳までビキニを着る」をミッションに、女性がずっと自信を持って明るく豊かな人生を送るために後押しをするモチベーションスピーカーです。人生はジグゾーパズル。全ての出会い、出来事、選択が自分を作ります。いつもフェアでオープンでいることを務めていきたいです。

最近の記事

ファッションモデルの世界の裏側

Enchante(初めまして)。ムッシューヴァレンティノと握手をしたのは、ヴァレンティノのパリコレクションが終わったステージ裏。ゴージャスに日焼けした肌と上品な立ち振る舞いは、たった今コレクションの発表が終わった興奮とは打って変わって落ち着いたオーラを醸し出していた。 ファッションショーを見るという長年の夢が叶い、バックステージでデザイナーと握手すると言う夢見心地な気分は今自分がどこにいるのかさえも見失ってしまいそうだった。さらにヴァレンティノともなれば、出演モデルはほとん

    • 人生の選択ー未知の世界ースーパーモデル

      当時、眩いほど絶対的な存在感を持ったナオミキャンベル、クリスティターリントン、ケイトモスなどは「スーパーモデル」と呼ばれ、ファーストクラスで来日し、5つ星ホテルに滞在、ファッションショーでのワンステージでたった1着を着るだけでも数百万円と言うギャランティーが支払われていた。 最初に語学留学を決めた時、ある人が英語を勉強してどうするつもりなの?と聞いてきた。闇雲に行動しても目的がなければ実にならないと。ごもっともと。ただ私の場合は、生まれ育った場所での選択肢には甘えが邪魔して

      • 人生の決断ー最大の断捨離ーバリ島へ

        2010年12月、帰る家は無くなった片道切符で、主人と2人スーツケースを2つずつ、バリ島行きの飛行機に乗った。 20年間勤めたモデルマネージメント業は短期で常に新しいモデルたちとの出会いがあり、昔から夢だったファッションショーも裏側まで見ることができ、英語は日常語となり、これまでの経験をすべて詰め込むことができる仕事だった。辞めようと思うたびに、何かに引かれるように天職なのかと思いとどまることとなった。 もちろん大変な事を書き出したらキリがない。モデルと言えど10代のティ

        • モンマルトルで学んだユング

          1989年、初めてのパリ。 大きなスーツケースを2つ持って、夏を過ごしたドイツの友達のところからパリの北駅に着いた。ヨーロッパに居ながらにして、まだ携帯もインターネットもない時代にどこをどうやったのか今では思い出せないが、日本を出るきっかけとなったアメリカ人Dからの紹介でパリの最初のステイ先は決まっていた。はずだったが… 北駅で待つこと1日。連絡先の電話番号は暗記するほどかけて、しまいには私のメッセージで留守番もいっぱいになっていた。その日は連絡取れず、駅の目の前のホテルに

        ファッションモデルの世界の裏側

          ファミリー.1

          頑なな九州男児で、家庭でのコミュニケーション能力ほぼゼロの父の記憶が減って行く。感情は読み取れないが、いい時は昔々の歌を口ずさむ。 辛さを口にせず痛みも自分のせいにして頑張る九州女子の母は、「今を生きる」父に翻弄される。久々の帰省で家族の現実と向き合う。 多分、初めて、家族全員で色褪せたアルバムを見た。 父が作ったアルバム。几帳面に貼り付けられた写真、書き込まれたメッセージ。 古き昭和の時代。決して裕福ではなかったが、父は休みごとに家族を旅行に連れていってくれていた。

          ファミリー.1

          人生を味方に

          人生のターニングポイントを意識したことはありますか? 進学、旅行、恋愛、引っ越し、買い物での選択もやいつもと違う帰り道など、どんな小さなことでも人生のターニングポイントになる。 私は小学生に上がる時に、親から習い事としてピアノかバイオリンどちらかの選択肢ももらいピアノを選んだ。その選択は音楽好きの私を作り出し、高校で女子だけのロックバンドを組みステージで歌うという楽しみを味わった。ボーカルをやっていたから歌が上手いというと言うことではないが、人前でステージに立つと言うこと

          人生を味方に

          フランス女性に学んだ「女」の3ヵ条

          パリに1年半住んでいた。 ある日学校へ向かうバスの中、初老のマダム(きっと70代くらい)が乗ってきた。綺麗にセットされた白髪、それこそ顔はしわくちゃだったが、不自然にボトックスをするわけでもなく、洋服とマッチしたアイシャドーと唇の縦じまが目立つ赤い口紅を引いたマダムは足元こそゆっくりだったが堂々とバスに乗り込んできた。 これまたしわくちゃの手にはきちんとマニキュアが施され、薄いブルーのシャネル風のスーツは体に沿って仕立てられた質の良いものであることは一目瞭然。だって、フレ

          フランス女性に学んだ「女」の3ヵ条

          セドナで見つけた人生設定

          行きつけの歯医者さんでセドナについての本と出会った。 その何週間か前にヨガの先生をしている友達が一人でセドナに行き、息を呑むような景色の写真をFacebookにあげていたのを思い出した。 そして誰かが、セドナって行こうと思ってもなかなか行けないところだよね。何かが足止めしたりして、だから、行ける時に行ってしまうのが一番ってことも思い出した。 大の苦手な歯の治療中も、頭の中でセドナの空が広がってみょうに呼ばれているような気がしたのをはっきりと覚えている。 実は2ヶ月後に

          セドナで見つけた人生設定

          あきらめは手放すこと

          アメリカ行きは急に決まった。 妹が仕事関係から、「英語ができてすぐに動ける人探してます」に私を推薦してくれたのです。即面接に向かい、即採用。1ヶ月後にはアメリカ行きの飛行機の中にいた。この時は妹が背中を押してくれたのね。ありがとう。 アメリカ本土は初めてで、気分はアメリカンドリームの国!Yes! で、オハイオ州のクリーブランドと言う聞いたこともない街へ。日本企業のアメリカ支社だったから、全て生活の場は用意されていた。大きなキッチンに日本では見ないかなり高さのあるベッド。

          あきらめは手放すこと

          人生の選択はいつも背中を押されてpart2

          背中を押された場所は、池袋サンシャイン60の58階のレストラン。 その頃はまだ実家の長崎に住んでいたのだけど、いろんな縁がつながってアメリカ人のDとの出会いがあり、彼が背中を押した張本人。 Dはニューヨーク出身の20歳。すでに16歳でニューヨークを離れ、マジシャンになるべく世界中を旅して回っていた時に出会ったの。イケメンで魅力的なマジシャンにもちろん一目惚れで、言葉の壁はとても高かったけど、お互いの理解はほとんどイマジネーションの世界。mesmerising… その頃の

          人生の選択はいつも背中を押されてpart2

          人生の選択はいつも背中を押されてpart1.

          東京のモデルクラブで外国人のモデル達をオーデションに連れ周り売り込むと言う「マネージャー」の仕事を3年間。その後、デスクとしてモデル達のマネージメントをする「ブッカー」を3年。 モデル達を引き連れてめちゃくちゃ遊んだ。乃木坂の交差点の角で目覚めたこともあったし、モデルの部屋で朝まで過ごしたこともあった。いやあ、楽しかった。笑 その時代は東京に外人モデルが200人以上はいたはず。その子達が1つのテレビコーマーシャルや、雑誌のカバーをとりに行く。 まだ10代のモデル達が主流

          人生の選択はいつも背中を押されてpart1.