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芸術大学は芸術を教えるか?③

 第3弾の今回は、ベルリンに移り住んでから大学に入学するまでの話。

Altbau(アルトバウ)の家
 2015年3月に日本の大学を卒業した私は、必ず出席すると決めていた大事な友人の結婚式に参加し、5月の終わりにベルリンへと移住した。「ベルリンに住みたい!」という頑なな決意はあったものの、これから住む予定の家以外は何も決まっておらず、ビザも無いままとりあえずドイツに行ってなんとかしようと、大きなスーツケース2つと前回のブログに登場したフォトグラファーと共に日本を飛び立った。
 最初に住んだ家は、アートギャラリーのオーナーが管理しているアパートだった。日本語でベルリンの賃貸物件を検索すると、その物件が真っ先にヒットした。立地が良いかどうかは全く判断できなかったが、部屋は清潔そうで、何よりギャラリストが運営しているということに惹かれた。ドイツに着いてホステルやAirbnbを転々としながら家を決めるのはいやだったので、メールのやり取りだけで入居を決めた。
 物件を管理するオフィスに到着すると、大家であるギャラリストが私たちを出迎えた。「リアル湯婆婆だ……。」と思わせる迫力と独特のパワー、眼力に圧倒され、これが海外のギャラリストかと勝手に感心していた。私たちは集合場所を間違えたようで、彼女が呼んでくれたタクシーに乗って、ようやく目的のアパートに到着した。
 その家は古い造りという意味のAltbau(アルトバウ)と呼ばれる、築100年前後のアパートメントだった。エントランスの、見上げるほど大きな木製のドアにまず驚く。かなりの力を加えてドアを押し開け、やっとの思いで建物の中に入ると、エレベーターが無いことにショックを受けた。アルトバウの多くがすでにリノベーション済みだが、エレベーターまで新たに備え付けられている建物はあまりない。重たい荷物を引きずり上げながら4階(日本式で数えると5階)にある部屋までなんとか上りきる。息も絶え絶えに部屋に入ると、ウェブサイトに載っていた写真とほぼ同じ、リノベーションが済んだ、シンプルな部屋が広がっていた。写真ではサイズ感がつかめていなかったが、天井の高さは3〜4mくらいで、大きな窓から太陽の光がたっぷりと差し込んでいた。アルトバウは古いが、その造りをあえて好む人が多い。私もそのひとりで、今も大好きなアルトバウの家に住んでいる。

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 ドイツでは基本的にWG(Wohngemeinschaft)と呼ばれるルームシェアをするのが一般的だ。家族用に建てられたアパートが圧倒的に多いため、新築でない限りひとり暮らし用の物件はあまり多くない。学生や家庭を持たない人たちを中心に、多くの人がWGに住んでいる。そのアパートも見知らぬ人とシェアすることになっており、他の部屋に住んでいる人たちに挨拶して回った。同居人は物静かで親切そうな人たちで、問題なく一緒に住めそうだと安心した。
 入居してからしばらくはベルリン市内を見て歩き、スーパーで買い物をするだけでも楽しくて、毎日がとても新鮮だった。そんな頃、ギャラリストの湯婆婆からインターンとしてギャラリーを手伝わないかと声を掛けられた。ドイツ語を話せなくても英語で仕事をしてくれたらいい、報酬として家賃をタダにする、と言われ、何の経験も無い私にとってはアートに触れる悪くない機会だと思い、二つ返事でその誘いに応じた。

大学準備ビザを取得するために
 そうこうしながら、これから通う語学学校も決まっていった。当初はどこがいいのか、あてもなくネットで調べたりしていたが、ベルリンで生まれ育った知人に100年以上の歴史があるというHartnackschule(ハートナックシューレ)をおすすめされた。そして、6月になったその日から早速レッスンに通い始めた。
 大学準備ビザを取得するためには、住民登録、ドイツで使用する銀行口座の開設、100万円程度の貯蓄証明に3ヶ月先の語学レッスンの予約証明書の提出が、当時の大まかな取得条件だった。それもあって、私は午前9時から午前12時までの3時間、週5回のインテンシブクラスをA1レベル(レベルはA1〜C2まであり、Aは初級)からA2レベルまでの数ヶ月分を予約した。日本で購入した和独電子辞書をいつも持って歩き、準備万端で勉強し始めたが、他の言語でドイツ語を学ぶのは上達を妨げると注意を受けた。翌日から独独辞書を持参するよう先生に言われ、その日のうちに独独辞書に切り替えた。もちろん和独辞書も必要なときには使っていたが、なるべく日本語も英語も介さずに勉強するよう心がけた。そのため単語の基本的な読み方から挨拶、簡単な会話ができるまでに一番苦労した。授業では英語で一応質問はできるが、基本的には質問が出ない/できない授業構成になっていた。言語を丸ごと飲み込んでいくような感覚に近い、学習の仕方である。最初のうちはわからなかったが、少し言語を操れるようになってから、ドイツ語でドイツ語を勉強するという意味と、その大切さを痛感した。また、英語をすでに習得していたことに加え、大学時代にある程度フランス語を学んでいたこともかなりの助けになった。言語は学んだ経験が多ければ多いほど、新しい言語習得の上達もはやい。
 その他のビザ申請条件である住所登録だが、未登録の場合はドイツの銀行口座を開設できない。しかし、住民登録をするための書類を出してくれない家主も多くいる(行政に隠れて無断か違法で、自宅の一部か全部を賃貸物件にしているため)。不動産会社を通して家を借りるのがもちろん一番望ましいが、ドイツの銀行口座がない人に部屋を貸すことを好まない人も多くいる。それに加え、私の場合は仕事をするため、もしくは就職先があってドイツに移住したわけではなかったので、安定した定期的な収入の見込みを証明できなかった。その状態であれば、アパートの契約者として部屋を借りることはなかなか難しい。また日本にいる家族は保証人として認められず、ドイツに在住する人でなければ保証人になれない。そういった細々としたことが、契約者として入居することを更に困難なものにした。
 住民登録をしていなければ正式に携帯電話やインターネット回線の契約もできず、とにかく八方塞がりになりやすい。これほど大事なものだとは知らずにドイツで生活し始めたが、入居のハードルが低く、住民登録の手続きまで行ってくれる湯婆婆のアパートに住み始められたことはラッキーだった。
 そんなこんなで様々な手はずを整え一段落したところで、インターンも始まった。通常はフルタイムで働くところを、語学学校の終わった午後から働かせてもらえるよう、特別に認めてもらった。短くしてもらった労働時間と引き換えに、入居してまだ2週間ほど足らずの私たちは、急遽狭い部屋に引っ越さなければならなくなった。

ギャラリーでのインターン
 働き始めて最初の数日で分かったが、任された業務はギャラリーに関するものではなく、彼女がベルリン市内にいくつか所有しているアパートの管理だった。私はインターンを始めてから3日目で彼女に信頼され、全てのアパートの鍵の管理者となった。たくさんの鍵が保管されている金庫の鍵を渡され、新しい入居者が訪れたらその金庫を開けて、部屋を案内するよう言われた。私がアパート管理の仕事に対して少し落胆していたからか、
「将来的には海外のビエンナーレにも積極的に参加しようと思ってんのよ。だからそのときになったら、あなたにはリサーチやらコーディネートやらを任せるからね。」
と湯婆婆は私に言った。
 オフィスで他に働いていたのは、私より5歳ほど年上のとても親切な韓国人女性のキムと、たまに働きに来るイタリア系の男性だった。仕事を一から丁寧に教えてくれていたキムとはすぐに仲良くなり、休みの週末に、近くの公園へ出かけることにした。

 通りで売られているしぼりたてのオレンジジュースを2人とも揃って買い、緑が広がる公園のベンチに座る。普段オフィスでは話すことができない個人的な話や、湯婆婆の話をし始めた。キムは私と同じようにアーティストになることを志してベルリンへやって来たと言った。そして最初に入居したのが湯婆婆のところだったらしい。それから彼女に声を掛けられ、インターンとして働き始めてもう4〜5年になるという。当初はドイツ語を勉強して芸大に進学するという私と同じ目標を持っていたらしいが、フルタイムのインターン業務がその道を妨げていた。また親からのわずかな仕送りと、家賃を支払わずにすむアパートで生活するので経済的に手一杯だと言い、その状態から抜け出したくても抜け出せず、今に至るらしい。ドイツ語を話す機会はほとんどなくなって、語学学習も進学もなにもしないうちに今度は母親が病に倒れた。そのため、近々韓国へと完全帰国しなければいけないとため息をついていた。数年働いても、彼女は未だにアパートの管理だけを任されていて、アートに関する仕事を一度もしたことがないという。
「他に何もできることがないんだよね。韓国では美術大学に進学したんだけど、またドイツでも勉強しようと思って、夢を追いかけてここまで来た。でも簡単な英語が話せるくらいで、私には他になにもない。アートに関わる仕事を見つけようと思ってもそうそう見つからなくて、拾ってくれたのはここくらいだよ。」
そう俯いて、泣きそうになるのを静かに堪えていた。そして、私には同じような経験をして欲しくないと続けて言った。
 「まだ働き始めて1週間だけど、辞めたほうがいいかもなあ。」
この1週間、悶々としながら働いていた私はそうこぼした。
「うん、逃げて。」
彼女は穏やかに、でもまっすぐとこちらを向いて、一言そう言った。

湯婆婆のいる部屋
 翌日、私は湯婆婆のいるオフィスのドアを叩いた。
「どうぞ、入って。」
ドアの向こうから応答する声が聞こえ、私はドアを開けて、彼女のデスクを隔てて置かれた椅子に座った。
「ハロー。最近の調子はどう?キムとも仲良くやっていていいじゃない。」
湯婆婆は笑顔で話を始めた。彼女の背後の壁にかかっているのは、大きな白とグレーの抽象画だ。初めて彼女の部屋に入ってその迫力ある絵を見た瞬間、「すごいギャラリストだ。」と思わず感心させられたのを覚えている。彼女のギャラリーで展示した人はそのお礼として、彼女が気に入った作品を展示会後に贈与するのがお決まりだと、前に教えてくれた。そのペインティングも贈与された作品の1つだと知らされて以来、もはや全身の毛皮を剥がされた大きな動物のラグマットにしか見えない。
 私はキムと仲良くして分かったここのインターン事情を彼女に話し、もう働くのは辞めて、自分の目標にだけ向かって頑張りたいと伝えた。彼女は少しショックを受けた表情を見せ、しばらくの間こちらをキツく見つめていた。
「この街に来て早々、何も知らないあなたにアートに関わる機会を与えたのに。それを仇で返すなんて本当がっかりよ。しかもまだ働き始めたばっかりじゃない。でももういい。あなたのご希望通り、今週いっぱいでインターンは終わりね。」
「はい、すみません。ありがとうございます!」
そう言ってお辞儀をした後、私は部屋をあとにした。オフィスで私を待っていたキムは、ガッツポーズをしながら笑顔でこちらを見た。その日は週の半ばで、残り数日の勤務を気まずく思った。けれど、来週にはもうアパートの部屋を紹介するために自分の時間を使わなくていいと考えると、次第に晴れ晴れとした気持ちになっていった。

最後の日
 勤務最終日となった金曜日。オフィスにいた私を湯婆婆が突然呼び出し、彼女の部屋へと招き入れた。
「昨晩、見知らぬ人があるアパートの一室に入ったの。」
「えぇ!それで?そこにいた人は無事だったんですか?誰かが被害に遭ったとか……?」
私は驚いて話を促す。
「侵入者は玄関のドアを開けた瞬間に住居者と出くわして、そのまま逃げたみたい。深夜だったし、鉢合わせた住居人は相手の顔が見えなかったそうよ。被害は何もなくて、とにかく今はホッとしているけれど……。本当物騒になったねぇ、ベルリンも。警察を呼んで、いま捜査してもらっているところ。」
「それは大変でしたね。残念です、治安が悪くなってきているみたいで……。でも被害が無くてよかt」
「あんたがやったのはわかってんのよ!!」

言葉を言い切らないうちに、彼女が物凄い剣幕で私に怒鳴り立てる。「日本人で信頼できそうだからと思って、働き始めてたった3日のあなたにここの全てのアパートの鍵を預けたのに!辞める前にその特権を少しでも使ってやろうとか思ったんでしょ?あんたの魂胆は分かっているのよ、こっちもバカじゃないんだから。もう日本人は二度と信用しない。だいたい、働き始めてまだ少しも経っていないのにもう辞めるなんて言い出すから、変だなとは思っていたのよね。私のアパートから今すぐ出ていきなさい!じゃないといま、警察を呼ぶから。」 私は侵入者が入ったこと以上に驚いて、しばらく言葉を失った。そしてふと我に返り、反論しなくては!と思って咄嗟に出てくる言葉は「私はやっていない!」というだけの、とても貧しいものだった。私という人格ではなく、日本人というだけでしか結局は信頼されていなかったこと、次に彼女に会う日本人はおそらく偏見の目で見られてしまうこと、明日から突然住む場所を失う弱い立場に置かれていること、私にはまだちゃんと論理的に反論できるだけの言葉がないこと。突きつけられたいくつもの現実と様々な感情が一気に込み上げ、半泣きになりながらもやっぱり「私はやっていない。」の言葉しか口から出てこなかった。今すぐ荷物をまとめて2人とも出ていくようとどめを刺され、預かっていた金庫の鍵を机の上に置き、せめてもの抵抗として荒々しく彼女の部屋を出た。 
 そのままキムのデスクへと向かい、泣きながら何が起こったのかを手短に説明した。「ああ、そう、昨晩誰かが侵入したのは本当みたい。私も今朝聞いて驚いた。彼女の言い分はいつもすごく勝手だよね。気に食わない人が現れると、その人のことを一番理不尽なかたちで追い払うからさ。それに逆らう人とは何度も裁判を起こしてきたらしくて、まだ一度も負けたことがないって聞いた。付いている弁護士もこれまでに何度も変わっていて、今はある敏腕弁護士のひとりに落ち着いてる。だから本当にかわいそうだけど、言われたように今日か、遅くとも明日までには荷物をまとめて家を出ていくしかないと思う……。」 
 私はこれまで、日本語で検索してヒットした情報を頼りに働き口や賃貸物件を見つけたりしていた。けれども残念ながら、日本語という限定された情報を頼って良い状況に置かれたことはほとんどない。何も知らずに新しい街で生活しようとやってきた人、言語をうまく操れずに行き場所を失った人たちを搾取し、その取り分で生きている人たちばかりを見てきた。彼らの多くは意識的に日本人を搾取しているというより、「弱い立場の人をむしろ助けてあげている。」といったスタンスだ。その意識の元、劣悪な環境で人を働かせ続けたり、住まいを貸し出しているので、余計にタチが悪い。もちろんそんな人たちばかりではないが、そのようなことをよく目の当たりにしてきた。それ以来、何かを検索するときはなるべくフラットな情報が手に入るよう、英語かドイツ語でしかしないようになった。
 話を戻そう。湯婆婆から退去命令を受けた私は部屋に戻り、フォトグラファーの同居人にその事情を伝えた。そしてそのまま急いで荷物をまとめ、友人の友人宅に駆け込むことになった。ありがたいことに、大荷物を担いで突然やって来た私たちを、その彼女は難なく受け入れてくれた。家が見つかるまで住まわせてもらえることになり、何日続くかわからない居候期間が始まった。
 家を追い出されてから数日後。祖父が3日後には亡くなるかもしれないと、兄から突然の連絡を受けた。私はその日のうちにチケットを取って、翌日には日本行きの飛行機に乗り、思いも寄らないかたちでベルリンを去ることになった。

夏の終わり
 祖父の最期には、どうにか間に合うことができた。お通夜やお葬式が終わるまでしばらく家族と一緒にゆっくり過ごすことができ、張り詰めていた気持ちも、いつの間にかほぐれていた。それでも欠席状態が続いているドイツ語クラスの再受講手続きや、戻ってからの住まいは探し続けていた。毎日数十件の入居希望メールを送っても、わずかな返事しか返ってこないのがベルリンの住宅事情だ。当時から数年経った現在では更に競争率が高くなり、お手頃な賃料のWGの一部屋を見つけるのでも至難の業である。家賃は上昇し続け、街全体の急速なジェントリフィケーションが止まらない。昔ながらの個人経営店が潰れていく中、大型のショッピングモールや、価格や店内のインテリアがベルリンにしてはいささか気取りすぎたカフェやバー、レストランがどの地区にも現れるようになった。それなのに労働賃金の引き上げは、急激な物価と地価の上昇には到底見合わない速度でしか進んでいない。生活コストがかからないからこそたくさんのアーティストたちが集まり、クールでアングラな街となっていったベルリンだが、現在はその姿からどんどんと遠ざかっている。

 前述した通り、地縁も雇用先もなにもなかった当時の私は、当たり前だがシェアメイトを選別して家を決める余裕はなかった。WGはシェアハウスと呼ばれるものの、入居すれば賃貸契約を結べるというわけではない。アパートを借りている契約者(Hauptmieter: ハウプトミーター)のもとに住まわせてもらう(Untermieter:ウンターミーター)か、仮住まい(Zwischenmieter:ツヴィッシェンミーター)という立場で住むことが圧倒的に多い。家主は居住者へ退去を命じる場合、最低でも3ヶ月前までに通知しなければいけないという一般的なルールはあるものの、もちろんそんなことは無視して、簡単に追い出されることもよくある。家主が定めたWGルールに適応しなければいけないこともしばしばで、居住者全員がフェアに住居を共有しているとは言い難い。自分の家というよりは、人の家に住まわせてもらっているという気分である。
 あの当時は藁にもすがる思いで、数え切れないほどの物件に応募していた。返事が来た物件は、ミッテと呼ばれる街の中心エリアにある、広くて備え付けの家具も申し分ないアパートだった。そこには50代の男性が1人住んでいて、ポーランドにいる別れた妻と生まれたばかりの娘に会うため、いつも家にいるわけではないと書いてあった。期限付きの物件でもないし、賃料も払える範囲の額だった。居候先で生活を続けていたフォトグラファーはすでに完全帰国を決めていたが、私が日本にいる間にその家の内見をし、同居人となる人とも会って話をしてくれた。
「立地も部屋も良いけど、なんとなくあの人、嫌な予感がする。」
もう他に住めそうな場所も見つからない状況の中、内見後に彼女からそう告げられ、かなり落胆した。それでもSkypeでその男性と話してみると、気さくでオープンそうな人だという印象を受けた。彼女の感想には目をつぶり、居候先に残したままの私の荷物を、新居のアパートに運んでもらった。あらゆる橋渡しを終えた彼女はその後ひとり、生まれ育った東京へと戻った。お礼すら直接伝えることもできないまま、それ以来彼女と会うことはなくなってしまった。
 8月末。離れたときには真夏だったベルリンは、もうすでに肌寒くなっていた。新しい家で問題なく生活を始め、ようやく腰を据えて語学学校にもまた通い出した。仲良くしていたキムは、韓国に帰ってしまっていた。彼女も最後に湯婆婆からひどい仕打ちを受けて離れることになったらしいが、今は祖国に帰って家族の側にいられることが嬉しいとの連絡がきた。この街の人間関係は点だらけで、線にするのは難しい。


大学入試準備
 ベルリンに戻ってすぐ、大学入試の準備に取り掛かった。ドイツ国内にどんな芸術大学があるのかをまず調べ、入試の時期や条件、大学の設備などをそれぞれ確認していった。8月末の時点で私のドイツ語レベルはまだA2。多くの大学がC1(ネイティブレベル)の語学力を有することを入学の条件としていて、早くて年末から始まる入試までには明らかに間に合わなさそうだと、すでに心が折れそうになっていた。順調にこのまま語学学校に通い続けたとしても、B2クラスをようやく受け終わるくらいの進度である。しかし年内に合格するということしか考えていなかったので、現実的なことには目を向けずに、制作と語学学習により一層励んだ。
 ドイツの芸術大学では、気に入った教授を選んでその人の元で数年間かけて学ぶことになっている。そのことを知ってから、どの教授に学びたいかにフォーカスを当て、改めて大学を調べ直した。まずはドイツ国内の芸大の全教授をリストアップし、それぞれの教授の作品をチェックした。面白そうだと思えばインタビュー記事や作品のコンセプトなどを読み、学びたい教授を何名かに絞っていった。
 後々分かったことだが、多くの受験生が事前に教授と個人面談の約束をとりつけ、ポートフォリオを見せながら、入学後はどのようなことをしたいのかを話して顔見知りになる。教授側としてもその応募者とこの先数年間付き合うことになるかもしれないので、応募者と人間的に相性が合うか、制作している作品に対してアドバイスできるかなどを事前に確認できる。個人面談で教授から「クラスに来ていいよ。」と言われれば、その場で合格となる(もちろん、全ての大学がそのような仕組みになっているとは限らない)。一般入試を受験する人の多くが、面談を通して事前に合格した人たちのようで、普通に受験すると合格する確率はかなり低いと知らされた。そして個人面談お願いメールを送ったとしても、返答してくれる教授はそういないから期待しないように、とも言われた。家探しである程度メンタルが鍛えられていた私は、とにかく興味のある教授にポートフォリオを添付したメールを何件も送った。
 翌朝。ラッキーなことに何人かの教授からすでに返信があり、面談の約束を取りつけることができた。電車やバスに乗り、日帰りであらゆる都市へと出向いた。教授と一対一の面談の場合もあれば、教授が持つクラスでプレゼンをし、クラスに所属する学生たちから批評を受ける場合もあった。多くの場合、学生たちも新しい生徒を選ぶ大きな決定権を持っている。クラスに参加したいという志願者が果たして自分たちと合っているのか、この人と一緒に学びたいかなどを判断し、最後にみんなで議論をして投票したりする。
 訪問した全ての大学から承諾の返事をもらうことができ、とりあえず大学に進学することが事実上決まった。その結果に私の緊張は解れてふやけかけていたが、C1レベルの語学試験に合格するという試練がまだ残っていた。この時点で、私はB1クラスをちょうど終わったころだった。


ピンクの連帯感
 大学受験はなんとか順調に進められていたが、その間の私生活はぐちゃぐちゃで、ミッテのアパートから追い出される羽目になっていた。
 そこに住み始めて数週間が経って落ち着いた頃、ビザ取得への手続きを進めていた。ビザを発行する外国人局の予約ページは1年先まで予約で埋まっていて、毎日チェックしても空きは全く出ない。予約なしで行くなら深夜12時から入り口で待つべき、とネット上では噂されていた。外国人局が開くのは午前7時すぎ。さすがにそれはないだろうと思い、自信満々で午前3時ごろに建物の前に到着した。しかし、予想をはるかに超えた長蛇の列がすでにできていた。季節はもう秋になっていて、肌寒いを通り越した寒さである。それでもドアが開くまでの数時間を外で待たなければいけない。何層にも重ね着したヒートテックの上に真冬用の分厚いジャケットを羽織り、映画を数本ダウンロードしたパソコンと数冊の本を持参していたので、これでしばらくは大丈夫だろうと、また自信満々に列へと加わった。しかし、待ち始めて30分もしないうちに全身が冷え切ってしまった。時間つぶしに持ってきた本を読み始めるも、寒さに気を取られて内容が全く頭に入ってこない。手袋でページをめくるのも難儀で、何度も同じ行を読み返し、とうとう読むことを諦めてしまった。今度はダウンロードした映画を見始める。やはりそれにも全く集中できなかったが、もはや意地になって見終え、余計に疲れてしまった。そして当たり前だが、コンクリートの上に何時間も座っていられないことに気がついた。完全に盲点だった……。私のおしりはすでに、丸い切り餅のように硬く、平たくなっていった。
 列の前方には、シングルマットレスと掛け布団を持参して寝ている人たちが見える。列の真ん中あたりで待っている人の多くは、キャンプ用の折りたたみ椅子やベッド、ブランケットを持参していた。ある集団は電力をどこからか得て、ケトルでお湯を沸かせてカップラーメンを食べたり、温かい飲み物を飲みながら、iPadで映画を見て笑い合っている。もはや屋外リビングルームである。そんなプロたちを横目に、私は寒さの中で身を縮めながら、外国人局のドアが開くのをじっと待っていた。
 数時間後。日が差し昇り、寒さが和らぎ始めた。あの朝ほど、太陽の光に感謝した日はない。まだ弱々しい陽光で、ありがたく体を暖めてもらった。暗くてよく見えなかったお互いの顔も次第に鮮明になり、これまで黙って待っていた人たち同士が、だんだんとお互いに話し始める。不思議な連帯感が生まれていく中、私のすぐ後ろに座って待っていたキム・カーダシアン系の顔と体型をした女性が声を掛けてきた。
「おしり、痛いでしょ。このクッション使っていいよ。」
と、ピンクのファーのふわふわクッションを大きな買い物袋から取り出し、差し出してくれた。ありがたくそれを受け取ってコンクリートの上に置いて座ると、その柔らかさと温かさに救われた。


 話を聞くと、彼女はピンナップモデルをやっているお姉さんだった。プレイボールや有名雑誌にも載ったことがあると話し、過去のセクシーな写真をいくつか見せてくれた。ウクライナで生まれ育った彼女は、その後イスラエルに何年か住み、ベルリンに移住するため、ビザの申請に来たという。ビザ申請の条件となっている住民登録は辛うじてできたものの、長期で住める家が見つからず、一旦実家のあるウクライナに数週間後帰ってまたベルリンに戻ってくる予定だと話した。
「そうそう、荷物を置く場所がなくて困っているんだけど、ちょっと助けてくれない?私がウクライナにいる間の2〜3ヶ月くらい。ベルリンにはまたすぐ戻って来るから、その時まで預かってもらえるととても助かるんだけど……。」
彼女も苦労しているのだと思うと居た堪れなくなり、スーツケース2つくらい問題ないよと快諾した。
 ビザを無事に取得して数週間が経ったある日。朝7時になる少し前にアパートのベルが鳴った。、約束していたウクライナのお姉さんと数週間ぶりに会う。彼女はスーツケース2つと大きな段ボール4つと共に、階段を上がってきた。どの段ボールの角からも中身が少しはみ出していて、その重量と容量がどんなものか、ひと目で分かる。
「ちょっと荷物が増えてごめん!これ全部、置いとける?」
当初予定していた荷物よりもかなり増えている気がするが、ここで増えた分の荷物を断るわけにもいかない。とにかく運ばれた荷物の全てを一時的に預かることにした。ウクライナ行きの飛行機の搭乗まで残された時間はあまりないようで、私が荷物を受け取ると「またね!」と手短に言って、颯爽と去っていった。残された荷物が部屋をかなり占領してしまい、ホイホイと話を進めたことをうっすら後悔した。けれど数ヶ月なんて大したことはないと気を取り直し、早起きは三文の徳だと自分に言い聞かせて、ドイツ語の勉強に取りかかった。

Bluetooth生活
しばらくすると、ルームメイトが私の部屋のドアを壊さんばかりに叩いてきた。早朝にスーツケースやら段ボールを運び入れたことが、どうやら彼の睡眠を妨害したようだった。ドアの向こうでひどく怒鳴り続けている。人生で初めて目の当たりにする怒鳴り方とドアの叩き方で、急に怖くなった私は、机に座ったまましばらく黙り、動かずにいた。しかし、時間が経てば経つほど、彼の怒りのボルテージは上がる一方である。仕方なくゆっくりとドアを開けてみる。せき止められていた水が洪水となって溢れるかのように、彼が部屋に入ってきて更に怒鳴りたてる。今すぐこの家を出て行くよう、彼は何度も怒鳴り続けた。入居してまだ2ヶ月も経っていなかったので、まさかそんなことが理由で追い出されるとは思ってもみなかった。そのあまりの怒り方に、次は殴られるかもしれないと思い身構えつつも、とりあえず深呼吸を何度か繰り返した。出て行くまでの猶予は1ヶ月間だけだと一方的に決められ、何か言い返そうかとも考えたが、できる限りすぐに出ていくことを約束した。その代わり、激しく怒鳴ったりドアを叩いたりすることはもう二度としないで欲しいとお願いした。彼は自分の部屋に戻っていったが、何時間も何かをずっと叫び続けていた。


 自分の部屋のドアを閉め、すぐさまパソコンを開いて家を探し始める。ぼとりぼとりとパソコンの上に落ちる涙を拭う余裕さえない。私はベルリンに来てから、よく泣くようになっていた。そして泣くことはいつしか、笑うことと同じように、特別なことではなくなっていた。
 アパートに入居したとき、「大学が始まる秋になると家はなかなか見つからないから、夏のうちに家を決められた君はラッキーだよ。」と彼に言われたことを思い出した。全くその通りである。1ヶ月以上滞在できる、手頃な価格の部屋が見つからない。メールを送っても全く返事が来ない。そうこうしているうちに数週間が経ち、その間もルームメイトはほぼ毎日叫び続けていた。私が少しでも部屋から出ると、彼も部屋から出てきて、私との生活がどれだけ不快かを話してくる。洗濯機から洗濯物を取り出すときには、洗濯をする回数も、料理をする回数も多すぎてお前は金がかかりすぎる、と言いがかりをつけてきた。彼の食事はケトルでお湯を沸かせば済むようなものばかりで、バスルームには1ヶ月以上も同じバスタオルがぶら下がっていた。手拭きも私が替えなければ、永遠に半乾きのタオルで毎日手を拭くことになっていただろう。それと比べたら、私は確かにかなりコストの掛かるシェアメイトだった。どちらが良い、悪いの問題ではなく、単純にお互いの生活スタイルが違いすぎて、譲歩し合いながら一緒に住むことはもうできなかった。しばらくすると、語学学校を終えて真っ先に帰宅し、毎日家で勉強をしていることにも腹が立つと言われてしまった。家は図書館じゃないと怒鳴られるようになり、それ以来、早朝に昼食と夕食2つのお弁当を作って家を出た。語学学校が終わるとどこかで夜まで作業をし、寝るためだけに帰宅するようになっていった。家では彼の怒鳴り声が耳に入らないようBluetoothのイヤフォンで耳を塞ぎ、シャワーに入る時以外はずっと、眠りにつくまで音楽を聞く生活を送っていた。
 1ヶ月以内に家を出ていってくれと言われてから、あっという間に3週間が経過していた。部屋はまだ見つかっていない。精神的にももうそろそろ持たないと思い始め、一か八か、当時知り合ったばかりの人に、一緒に住まわせてもらえないかと頼んだ。一時的に住むならいいよと言ってもらえ、翌日にはピンナップお姉さんと自分の荷物をまとめて引っ越し、なんとかBluetooth生活から抜け出すことができた。


転々
 その後も住まいを転々とする生活は続き、3週間や2ヶ月間など、期限付きの物件にばかり住んでいた。その間はずっとピンナップお姉さんの荷物と一緒に移動していたが、お姉さんとはついに連絡が取れなくなってしまった。戻ってくると約束していた季節も、とうに過ぎていた。「彼女はもう戻ってこないよ。」そう友人たちに散々言われ、意を決し、断腸の思いで荷物を全て破棄した。その後しばらくはそわそわとしていたが、彼女から連絡がくることは一度もなく、私ももうそのことを気に留めることはなくなっていた。
 「明日からもう住める家がない!」という日をとうとう迎えた私は、ホステル生活を覚悟しつつも、まだ諦めきれずにいた。その日も朝から入居者を募集している物件に片っ端から電話をかけ続けていた。
 数時間後、『今日から住めます。』と書かれた物件へ送ったメッセージへの返答があった。私はすぐさま、そのオーナーに電話をかけた。電話に応答してくれたのは、クルド人の中年男性だった。私が今日で家が無くなることを勢いよく感情的になって伝えると、彼は同情してくれ、「今から内見に来ていいよ。」と言ってくれた。電話を切るとすぐに着替えて、そのまま内見に向かった。アパートに入って部屋に案内されると、シングルベッドを1つ置くともう足場がないような、究極的に狭い部屋が待っていた。写真では全くサイズ感が掴めていなかったが、これは結構狭い。しかし他の多くの賃貸物件と同じように家具家電付きなので、今日から住める。しかし、この狭さだと家で制作作業をするのは無理だった。その悩みをアーティストの彼はよく理解してくれ、彼が日中使っている隣の作業部屋を、夜はアトリエとして無料で使っていいと言ってくれた。こんな優しい人がいるのかと、思わず涙が出た。

チャイ
 入居したその日。雪は降っていなかったものの、体の芯から冷えるとても寒い日だった。またもやエレベーターの無いアルトバウの4階にある部屋だったので、彼と一緒に荷物を運び上げる。部屋は座る場所もないほどに荷物で溢れかえり、どっと疲れた私はキッチンのテーブルで一息ついていた。何か口にしたいと思うが、外に出るのが億劫でそのまま座り続けた。ふと、まだ空の食器棚が目に入った。その棚の上には、チャイセットが置かれている。トルコ料理屋なんかでよく見るやつである。美しいなぁと眺めていると、どこかへ行っていた彼が、ファラフェルを2つ抱えて家に戻ってきた。
「お腹空いているだろ?すごく美味しいってもんじゃないけど、そんなに悪くないから、良かったら食べて。」
と、家の斜め向かいにあるというケバブ屋の包みを渡してくれた。彼とファラフェルの温かさが心に沁みて、今度こそ平和に住めそうだと安堵した。


 2人とも同じくらいお腹が空いていたのか、一言も喋らず、一気にファラフェルを食べ終えてしまった。しばらくすると彼は棚の上からチャイセットを取り、ケトルでお湯を沸かし始めた。その間に手際よく、バクラヴァとトルキッシュ・ディライトを皿に盛って、テーブルの上に置く。ちょうどお湯が沸き、お茶を入れてしばらく待ってから、アツアツのチャイを小さなグラスの中に注ぎ込んでくれた。ありがとうとお礼を言ってお菓子を一口かじると、あまりの甘さに全身の毛穴が開く。チャイを飲もうとグラスに手を伸ばせば、熱すぎて触れることもできない。チャイが少し冷めるまでの間、お互いの話をし始めた。
 芸術大学に通うためにドイツに来たと言うと、彼はベルリン芸術大学でナラティヴ・フィルムを学んだと教えてくれた。そして「クルド」という言葉すら聞いたことのなかった私に、クルドの歴史やクルド人として生きることの難しさを、丁寧に教えてくれた。そうして私も、これまでの悩みや出来事を彼に打ち明けていった。
「最初のうちは誰でも大変だよ。でもだんだんと、大丈夫だと思えるときが来る。だから心配いらないよ。ここに住んでいれば安心だし、困ったらいつでも相談して。」
そう言ってもらえ、前を向いて頑張らなければいけないと思った。何のために私はベルリンにまでやって来たのか。その動機をもう一度確かめながら、彼との会話は長く続いた。
 チャイが入っていたグラスはとっくに冷め切っていて、ティーポットが空になった後も、私たちはずっと話し込んでいた。ふと時計を見ると、もう深夜の12時を過ぎていた。カフェインをかなり摂取したにも関わらず、まぶたは重くなっていて、瞬きをするともう開きそうにない。ここに住めることを何よりも嬉しく思うと彼に何度も伝えた後、「そろそろ寝るね。」と言って、椅子から腰を浮かした。すると、前のめりになって彼に近づいた私の顔面は強引に掴まれて引き寄せられ、お互いの唇が触れそうになった。あまりの突飛さと眠気が相まって反応は鈍くなっていたが、目の前にある彼の顔面を、ようやく押し返した。予想外の展開に驚き、ショックでしばらく固まってしまった。レイプとは言わないけれど、そんなことをされる直前の気持ちになって、ホカホカと温まっていた体は、目の前のチャイグラスのように、小さく、硬く、冷たくなっていた。
「心を開いてくれたと思ったからつい……。」
彼は色々と弁解した。それまでも、女性であることで男性との間で勘違いが起きたり、無断で体に触れられたりと、身の危険や気持ち悪さを感じたことを何度か経験していた。それらも重なって、彼に対して猛烈に嫌悪感を抱き始めた。もし一言断りを入れてくれていたら、状況はかなり違っていた。ようやく安心して長らく住めると思ったのに。そう言ったのに。今すぐこの家を飛び出したい気持ちになって、でももう他に行くあてが無いことも分かっていて、また涙が溢れた。
 彼はごめんと何度も言って、家族が待つ家へと帰っていった。それからしばらくの間、日中は作業をするために家にやって来る彼を避け、日が暮れるまではなるべく家の外で時間を過ごした。家が怖い。いつも何かしらの問題に引き込まれるのは、私の何かが決定的におかしいのだろう。どうしてこんなにも、人に振り回されるのか。なんで大事なときに言葉が出てこないのか。どうしようもない無力さと、説明のつかない運の悪さ。どうすればよかったのかわからずにトラブルばかりを抱え、どんよりとした毎日を過ごしていた。

それでも私の人生を変えた彼の言葉
 ドイツの芸術大学の中で難関校の1つと言われているのが、ベルリン芸術大学(UdK)である。300年以上の歴史を持つヨーロッパで最大の芸術大学で、ファイン・アートのみならず、音楽、ダンス、劇、建築、デザイン、ファッション、ライティング、ジャーナリズムなど、学科はおよそ30ほどにまで細分化されている。
 難関と言われる理由の1つはやはり、受験者数が圧倒的に多いことだろう。20〜30名ほどの枠に、かなり多くの受験生が殺到する。ドイツでアートの中心といえばベルリンであり、チャンスの多くはベルリンに転がっている。ギャラリーの数、アーティストの数、プロジェクトスペースの数、展示への来場者数など、あらゆるものが群を抜いて、首都ベルリンに集中している。UdKはトップアーティストを目玉教授として招聘し、それが大学の売りにもなっている。しかし実際のところ、売れているアーティストたちは自身の制作で多忙なので、学期中に2〜3回ほど、ただクラスに顔を出す程度の教授が多いのも事実である。また生徒の好き嫌いが激しい教授がほとんどで、それが影響し、生徒に対しての指導には大きく差が出ることもよくある。それでも、キャリアのためのコネクションづくりや、有名アーティストの元で学んだという箔をつけるため、UdKで学ぶことを目指す人もかなりいる。


 ここまで散々な目にばかり遭ってきていたが、それでもなぜか、ベルリンを離れようと考えたことは一度もなかった。なぜかこの街はいつも魅力的だった。ただUdKは事前の教授との面談による裏道入学もなく、数えきれないほどのポートフォリオ全てに大学側は目を通さないという噂もよく耳にした。なので、受験してもどうせ落ちるだけ、とチャレンジする気は全くなかった。事実上他の大学に合格していたことで少し安心もしていたが、落ち着いて家にもいられない状況で受験し続けるのにも、正直疲れ果てていた。
 入居初日の夜の出来事以来、家主の彼と家で出くわすたび、私はビクビクしていた。それでも彼は、あまり見かけなくなった私を、これまで以上に気にかけてくれた。彼に対する嫌悪感や恐怖心はまだまだ残っていたものの、生きていたらあの日のような出来事もまあ起こるだろうと思い始めていた。
 彼はある日、私の受験の進み具合はどうか尋ねてきた。ミュンヘン美術院に行くかもしれないと答えた私に、UdKには受験しないのか聞いてきた。
「うーん、みんな難しいって言っているし、どうせ私のポートフォリオなんて作っても見てもらえなさそうだし、受験はしないつもり。合格する自信もまったく無いし。そもそも受験の締め切りまであと1週間もなくて、これから準備する時間もないよ。」
「そんなのわからないよ、やってみるまで。挑戦してみてよ!君ならきっと大丈夫。この家から大学まで40分位しかかからないんだし、わざわざ遠くにある、つまらないミュンヘンに引っ越すことないよ。受験はタダなんだから誰にでもチャンスがある。それに君にはまだ諦めなくてもいいほどに、若さと時間もあるだろう。」
その一言に背中を押され、私は急遽ポートフォリオを作ることにした。ビデオと写真の作品以外はオリジナルの作品を提出するのになっていたので、6冊目となるこのポートフォリオを作るのには、結構重い腰を上げて取り掛かった。
 締め切り当日。私は作りたてのポートフォリオを抱えて大学に向かった。大まかに言えば、ポートフォリオは平面に限り、最大でA0サイズまでという条件だった。私はA2ほどのサイズで、白い厚紙で自分なりに製本した。大学までの道中、電車内でA0サイズの大きなポートフォリオを抱えた人たちを何人も見かけ、最寄り駅に着くとみな同じ方向へと歩き始めた。学内にある提出窓口から大学の隣の建物まで、長蛇の列が伸びている。列に並び始めてから数時間後、ようやく窓口まで辿り着いた。倉庫のようなその部屋には、ずらりとたくさんのポートフォリオが並べられている。どれも大きなサイズで存在感があり、カラフルなものも多い。「これは誰も全部に目を通さないわ……。」思わず納得してしまった。真っ白で小さい、目立たないシンプルなポートフォリオを作ったことを多少後悔しながらも、仕方なく提出して家へと帰った。
 すでに落ちたと悟った私は、気晴らしにこれまでやってきたベルリンのココア巡りの中で、一番美味しいココアを出すカフェに向かった。「もうこれで受験は終わりだ〜。」解放されたと思うとスッキリして、家に帰って夕食を食べると、あっという間に深い眠りに落ちた。

UdKからの返事
 受験から数ヶ月後、UdKからのメールを受信した。1次試験からかなり時間が経ってのメールなので全く期待せずにメールを開くと、1次試験通過の知らせを目にした。何度も確認したが、数週間後にある2次試験まで進めるという事実は、間違っていないようだった。思いもよらない嬉しい知らせに少し喜んだものの、何かの間違いかもしれないと、試験が始まるまでその疑いは晴れないままだった。
 2次試験がどんなものなのかを聞いて回ったり、オンラインで調べたりしたが、ずっと謎のままだった。そのため特になんの準備もできずに、無防備で試験会場へと向かった。会場に着くと、大きな講義室にはすでに他の受験者たちが座って待っていた。約束の時間になり、試験官が名簿に記載されている名前を1つずつ読み上げ始める。自分の名前が呼ばれてやっと、合格メールは私宛てだったのだと安堵した。
 試験官はまず、この2次試験は4日間に渡って行われると告げた。1日目は筆記試験だと言って、早速答案用紙が全員に配られた。A4用紙4枚を受け取って、内容を確認する。それぞれに短い設問が印刷されていて、残りの大きな余白が解答欄となっていた。4時間で4つの問いに答えるというのが筆記試験である。4つの設問は詳しく覚えていないが、なぜUdKで学びたいのか、卒業後は5%ほどかそれ以下の学生しかアートを生業にできていないという確率が出ているが、それに対してどう思うか/それなのになぜ入学したいのか、あるアーティスト、もしくは美術館かギャラリーを1つ挙げて批評せよ、といったような質問だったと思う。ドイツ語が母語でない生徒は、英語または辞書を使って答えてもいいことになっていた。私は頑張って勉強してきたドイツ語を使ってみようと、持参していた電子辞書を開きながら質問に答えていった。恐らく、めちゃくちゃな文章だったと思う……。
 当時どのように回答したのかをここで共有したいが、今の私が考えた答えのような気がするので、その内容はもう忘れてしまったと思う。4時間はあっという間に過ぎ、解答用紙が回収された。そして試験官は、次の制作課題を発表した。

①UdKという空間を観察し、その空間内で作品をつくりなさい。メディアは問わない。
②あるものを抽象化した作品をつくりなさい。メディアは問わない。

こちらも課題の内容を完璧に覚えてはいないが、以上のような内容だったと思う。①と②の両方、もしくはどちらかを翌日と翌々日の2日間で制作し、4日目には面接とプレゼンテーションを行うとのことだった。
 1日目の試験を終えると、受験者たちは学内を見て回りながら、どんな作品を制作しようかとそれぞれが考えていた。私もしばらく建物を見て回ったが、大きくて似たような部屋が並ぶ迷宮のようである。あまり全体像を把握できないまま、疲れてそのまま家路に着いた。夕食をさっさと済ませ、翌日に向けて構想を練る。血迷って有名なアーティストたちがこれまでどんな作品をつくってきたのかなど調べたりしたが、数時間くらいしてようやく意味のない悪あがきだと気が付き、パソコンを閉じて早々と眠りについた。
 翌朝。大学に到着した私は、再度建物内を歩いて回った。建築ばかりに気を取られていたが、各所にそれぞれ独特の香りがあることに気がついた。それは工房やアトリエに通いつめて制作している学生たちとの香りとも混ざり合ったもので、これらを収集しようと決めた。その日は雨が降っていたので、建物を這ってすっと落ちてくる雫を空気と一緒に収集したり、各所の空気を透明の袋に詰め、風船のようにぷっくりと張るまで口をきつく締めた。袋だけ見ると全て同じように見えるので、それがどこから採集された空気なのかを特定できない。そのため、各所でポラロイド写真を撮って時間と場所を記録し、アーカイブ的に作品を発表することにした。

最終試験
 試験最終日。面接が行われる部屋の前に到着すると、かなり使い古された大きなソファに、何人かが座っていた。目の前の部屋では個人面接が行われているようで、みんな順番待ちをしていた。ある人は名前を呼ばれたときに不在になってしまわないよう、集合時間の6時間ほど前から待っていて、またある人は、美術館やアーティスト名などが書いてある束になったフラッシュカードを、もうすでに何周もし終えているようだった。独特の緊張感が漂っている。面接を終えて部屋から出てきた人はみな口を揃えて、大したことないよ、と言って去っていった。
 ソファの上でしばらくじっと座っていると、ネックレスにしては結構重そうなチェーンを首にかけた女性が、階段を上がってくるのが見える。体を左に寄せて、彼女が座れるスペースをつくる。
「ありがとう。」
そう言って私の隣に腰掛け、小さなシャンパンをカバンから取り出してボトルを開ける。
「飲む?酔ってないとやってらんないよ。緊張が全然ほぐれないからさ。2本買っててよかったわ〜。」
そう言って一気にボトルの半分くらいを飲み干し、私に差し出した。それが最後の1本だと知り、大事に飲んで欲しいと言って、私は飲むのを遠慮した。彼女は7歳の子どもを持つシングルマザーで、普段はミュンヘンに住むタトゥーアーティストだと話した。子どもが小学生になったのを機に、タトゥーのために始めたドローイングを作品として描きたいと思い、UdKに受験したという。普段は1人で息子にかかりきりだが、今回ばかりは1週間ほど両親の元に預けてきたらしい。この試験が終われば、最近できたばかりのボーイフレンドと落ち合い、2人きりになってベルリンのクラブで遊び倒す時間が待っていると、嬉しそうに話してくれた。自分が心から楽しめるものを知っていて、それを思い切り楽しむ人たちによく出会うベルリンが、私はとても好きである。彼女の話を聴いているだけで、こちらまでハッピーになっていった。そうしている間に、自分の番が回ってきた。「頑張って!」と彼女から温かいウインクを受け取り、重たいドアを押し開けて中に入った。

 大きな部屋に、15人ほどの面接官たちが横一列に揃って座っている。そして彼らから4mほど離れた部屋の真ん中に、ぽつんと椅子が置かれている。
「マツサキスガノさんで、間違いないですか?はい、ではそちらに腰掛けて。」
どうして余計に緊張させるような雰囲気をわざわざ作るのだろう……と少し不愉快な気持ちになりつつ、言われるがままに腰を掛けた。面接はドイツ語か英語かを選べ、私は英語で受けたいと希望した。
 面接官が座る机の隣には、学生2人が座っている。そのうちの1人がモニターにUSBを挿入し、私が提出したビデオ作品を再生した。そして1次試験で提出したポートフォリオの端と端を2人が持って広げ、面接官の前をゆっくりと歩く。一往復し終えると、次のページをめくってまた一往復する。面接官はポートフォリオの作品と、今回の課題作品のコンセプトなどについて、手短に質問をした。面接は5分ほどで呆気なく終わった。内容はもう覚えていないが、とても淡々としたものだったことをよく覚えている。部屋を出て待合スペースに戻ると、タトゥーアーティストの彼女はもうわりと酔っていて、ソファの上に深く沈み込んでいる。
「どうだった?」とそこにいた全員に聞かれ、本当に大したことはなかったことを伝えた。「新学期にまた大学で会えたら良いね!」とお互いに声を掛け合い、私はその場を後にした。
 面接から数週間後。合格通知が届き、私は心底喜んだ。ずっと気にかけてくれていたクルド人の彼にもすぐさま合格の報告をし、一緒に心から喜んでくれた。これから長らく住むことになる街を改めて歩きたくなって、外に出た。今までやってきたこと、乗り越えてきたことが報われた気がした。歩いている途中で花屋を見かけ、明るい色の花を組み合わせて束にしてもらい、家に戻った。全てが始まった家の食卓に、それをそっと置いた。彼との関係性も、彼への信頼も、少しずつ回復していった。
 人生は、どうなるか本当にわからない。ある人のたった一言で、全く違う運命を辿ることになったりする。「やってみてよ!」あの日彼が言った何気ない一言が、私の全てを変えた。私はいつでも、今でも、自分に自信がない。ベルリンに来た当初はさらに自信がなくて、臆病だった。だから、他の人がどうしているのかをよく観察していたし、どうしたら目標を達成できるかをいつも分析しながら、あれこれ考えていた。その観察と心がけがうまく道をひらくこともあれば、妨げることもあり、私の場合はうまくいかないことの方が多かった。過去も未来も考えずに、人と自分を比べず、今この瞬間にできる努力をし続けると、いつの間にか自分の目標を達成できていた。それができたのは、多くの人たちの支えがあったこそであり、私のことを信じて応援し、前向きな言葉を投げかけ続けてくれた人たちのおかげである。「大丈夫、できるよ。」と誰かに言ってもらえるだけで、寄り添ってもらえるだけで、不安な時もそこから滑り落ちずに歩き続けられる。だから私も、そうやって誰かに優しく、寄り添える人になっていたい。


もたれかかる
 日本にいたら呼吸をするのと同じように当たり前にできていたことは、ドイツに住み始めた途端にできなくなった。そして、これまで当たり前にあったものを失った。帰る場所がないということ。人とのコミュニケーションにどうしようもない問題を抱えること。アジア人女性というだけで強く生きなければいけないと度々自覚させられること。言語は自分を守るために習得するのだと思い知らされること。当たり前だったことのために毎日戦わなければいけない自分を、当時は恥ずかしく思っていた。私は心をひらくまでに時間がかかる人間ではあるが、本当に苦しかったその当時、人に迷惑と心配をかけるのを恐れて、うまく言葉にしたり、助けを求めることができなかった。私がここで書き残したかったのは、大学受験のサクセス・ストーリーではない。私にとって受験準備は、生活の基盤を固めることよりも簡単で、シンプルなものだった。プレゼンも、作品のコンセプトを書くことも、辛抱強く練習し、多くのものを読んだり、知識を得たり、良質なものを吸収することで、誰でもある程度上達する。ただそれ以外の、ここには書ききれないほどのささやかな困難が、私の向かおうとする道と心を塞いだ。本当に落ち着いて生活できるようになったのは、移住してから3年くらい経ったころだと思う。ちょっとしたことなのに助けが必要になったとき、弱気になったとき、もういやだと思ったとき。それぞれの瞬間を、少しずつ無理をしながら1人で立ちすくみ続けると、その痛みが幻の痛みとなって、不意にまた疼くことがある。同じことで2度も心を痛める必要はないのに。辛いと思ったあのとき、素直に誰かに、少しだけもたれ掛かればよかったと思う。だからこのブログが、どこかにもたれ掛かってみようかなと思える誰かのきっかけになれたら、とても嬉しい。


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