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大人の恋愛小説「情緒ある別れ」

※こちら↓のYouTubeで朗読しているオリジナル小説です。


 本を読む彼の横顔が、たまらなく好きだった。
 彼はいつも、とても静かに本を読んでいた。にこりともせず、苦しそうな顔もせず、ただ深く本に入り込み、呼吸をしていた。
 夜中、わたしが目を覚ますと、彼は窓際の椅子に腰を掛けて本を読んでいた。窓の外の月明かりが彼の姿を照らし出す。角ばった本の影と滑らかな彼の横顔の影がフローリングに映し出される。わたしは寝たふりをしたまま、その姿を目に焼き付けた。

 彼の部屋は本ばかりだった。さほど広くない部屋の壁一面の本棚にぎゅうぎゅうに本が詰め込まれていて、いつか床が抜けてしまうのではないかとわたしは本気で心配していた。
 今の時代、電子書籍だってあるというのに、彼は紙の本にこだわった。
「だって、情緒がないだろう?」
 わたしの疑問に彼はしたり顔でそう答えた。
 彼の本棚には、古ぼけて色あせた古書もいくつか収められていた。
「こういう古い本はどうやって見つけてくるの?」
「ああ。神保町の古本屋を巡ったり、インターネットのオークションサイトで競り落とすんだよ」
「電子書籍は情緒がないのに、インターネットで買うのはいいの?」
 わたしはからかい混じりにそう尋ねた。
「手元に来るまでの過程は気にしない。手元に来て、読むときに情緒があるかが大事なんだ」
 彼がさも当然のように自信満々に語るものだから、わたしは「まあ、そんなものか」とそのときは納得したけれど、よくよく考えたらよくわからない理屈だった。
 彼と話していると、似たようなことが時折あった。彼なりに筋が通っているようなのだが、わたしには矛盾しているように思える会話。それがわたしたちのコミュニケーションだった。

「ねえ、これ何の本?他の本より随分古そうだけど」
 わたしはひときわ色あせた薄い文庫本を手に取った。ページの端はよれ、失敗したクッキーのような焦げた色をしている。
「それはある歌人の遺書だよ」
「えっ?遺書?遺書が本になってるの?」
 おどろいて彼を見上げると、「そんなにおどろくこと?」と彼は飲んでいたコーヒーをテーブルに置いて笑った。
「正確に言うと遺書だけじゃなくて、彼の短歌も載っているよ。最後のパートが彼の遺書なんだ。この人は20歳で自ら命を絶ったんだ。服毒してから首を吊って亡くなるまでの間のことが、事細かに彼の手で記されている。正真正銘の美しい遺書だよ」
 わたしは奥付を開いた。『昭和四47年初版発行』とある。昭和20年が1945年のはずだから、昭和47年は1972年になる。40年も前のことだ。想像がつかない。
「もし今の時代だったら、この人はYoutubeで中継なんてしてしまいそうね」
 もろくなった古本を丁寧に本棚に差し込みながら、わたしはそう言った。
「それは嫌だな。情緒がない」
 彼はまた情緒という言葉を口にした。
「死に方に情緒が必要なの?」
「死に方じゃない。終わり方には情緒がなくちゃダメなんだ。Youtubeだなんて生々しすぎる。何の余地もない」
 彼との会話はいつもこんな風だった。彼の話が進むにつれてわたしには理解できなくなってくる。すると彼はそれを感じ取って、口をつぐむのだ。

 彼はその後すぐにわたしの前から姿を消した。
彼の仕事仲間の一人から電話がかかってきた。一際寒い冬の夜だった。
「あいつが会社を無断欠勤した。家に行ってみたけどいないんだ。何か知らないか?」
 わたしは何も答えられず、その場で硬直した。一週間ほど連絡が途絶えていたけれど、わたしたちの間ではよくあることだった。
 わたしはすぐに彼の家に向かった。彼の部屋は何も変わらなかった。財布だけがなくなり、スマートフォンも家の鍵も、情緒の塊である本たちもそのまま残されていた。
 警察を呼んだが、事件性はなく、自分の意思で失踪したのだろうと判断された。家族のいない彼の残した荷物は、わたしがすべて処分した。一緒に食事をしたローテーブルも、面白い動画を見せ合ったスマートフォンも、一緒に眠ったベッドも淡々と処分できたのに、彼の本だけは彼の魂を散らしてしまうようで、涙が止まらなかった。

 あれから7年──
 彼は死んだことになった。
 彼が姿を消してから、3人と付き合った。3人とも彼とは違い、情緒なんて言葉は使わなかった。とてもシンプルで、わかりやすくて、笑顔に嘘がなくて、その余地のなさが、わたしを安心させた。けれど、結局わたしは今一人でいる。一人でいることに慣れ、かつてない平穏を味わっている。

 彼が生きているのかどうか、誰にもわからない。「間違いなくもういないのだ」と思う日もあれば、その翌日に「いや、生きているはずだ」と思うこともある。ただひとつ、確信を持って言えるのは、この失踪が、彼の言う「情緒のある終わり方」だったということだ。

 ──終わり方には情緒がなくちゃダメなんだ。

 こんなに穏やかに暮らしているのに、時折彼の言葉がリフレインする。その度に、あの美しい横顔を思い出してしまうのだ。


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