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3.11のとき海外にいた日本人がもつ「疎外感」

今日で東日本大震災から13年経つ。
毎年この時期になると、多くの人が震災の記憶を語り、あの日亡くなった命や消えていった街に想いを馳せる。干支も一周以上すると、あの日を知らない・記憶にない世代も増えてきた。

じつ私は、震災時の日本を知らない。日本が未曽有の悲劇に襲われたあの日、遠いオーストラリアの地にいたからだ。

だから国全体がどんな状況だったのか、社会の不安や緊張がどれだけ蔓延していたのか、当時のことはまったく分からない。帰国してからニュースや伝聞などで“起こった事実”は知ってはいる。当時の報道のアーカイヴ映像もたくさん見た。だけど、どこか「自分のリアル」ではない感覚だ。ある意味、3.11を知らない世代と同じ感覚かもしれない。

スマホもまだ普及していない時代、当時海外にいた日本人が3.11をどう捉えていたのか。どんな状況に陥っていたのか。

ひとりの元留学生の記憶を書き残しておく。



前置き。

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当時大学2回生だった私は、春休みを利用してオーストラリア・メルボルンに短期留学していた。

高校生の時に修学旅行で初めてオーストラリアを訪れ、「すごく楽しかった! また絶対に行く!」と誓ってから約3年。念願叶っての留学だったこともあり、行く前からワクワクとドキドキがとまらなかった。

留学中のプログラムはこうだ。

ホームステイ形式で、平日は公立大学のインターナショナルカレッジにて英語を勉強。土曜日に現地学生がガイドを務める「エクスカーション(小旅行)」があり、日曜日は唯一の完全フリー。

留学中の楽しかった思い出はまたいつか語るが、とにかく現地人との交流が多い日々だった。


3.11の前に発生していたニュージーランド・カンタベリー地震

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3.11の半月ほど前、オーストラリアの隣国ニュージーランドで地震が起こっていた。特に被害が大きかった都市の名を取り「クライストチャーチ地震」とも呼ばれるこの地震は、M6を観測する大規模なものだった。

すぐ隣の国での出来事。日本人留学生も犠牲になっていたことから、「オーストラリアでも起きたらどうしよう」と少し怖かったのを覚えている。

「経度的に日本でも地震起きそう」と感じたことも。

地震プレートがどうたらとか、断層が云々とかは、地理の授業をサボっていたので分からない。正直、日本とニュージーランドの経度も40度ほどズレている。アホな学生の「何となく」な感想だったわけだが、それが当たるとは夢にも思わなかった。


3.11当日。平和に一日が終わるはずだった。

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(※ステイしていた家のダイニング)

2011年3月11日。いつも通りに学校が終わり、夕日を浴びながら帰路につく。

「今日の夜ごはんは何だろうな~~」と、空きっ腹を鳴らしながらステイ先の玄関を開き、カタコトで「I’m home~~」と帰宅を告げた瞬間、ママが血相を変えて駆け寄ってきた。

「今すぐテレビを見て!!!!(和訳)」

あまりの勢いに度肝を抜いた。頭にはてなを浮かべつつ、テレビがあるダイニングへと足を進める。ちいさなブラウン管には、見たこともない光景が映っていた。

「は?」

思わず声が出た。なに、これ?

真っ黒に波打つソレが津波で、山以外の何もかもが飲み込まれたと理解したのは、数分経ってから。不謹慎に思われるかもしれないが、特撮オタの私は一瞬、「……ついにゴジラが日本にきたのかな」と本気で思ってしまったのだ。それくらい、現実味の無い映像だった。


ニュース番組のテロップで流れる「JAPAN TSUNAMI HITS」の文字。
キャスターが何か説明しているけれど、語学力の無い留学生には分からない。「MIYAGI(宮城)、IWATE(岩手)、FUKUSHIMA(福島)……」と地名が聞こえ、少なくとも地元の九州や大学がある関西ではないと知る。

茫然と立ち尽くしたまま、思い出したかのようにステイ先のママを見た。
心配そうな顔で「アナタの家は大丈夫なの?」と訊かれ、力なく「たぶん……」と答えるのが精一杯だった。


錯綜する情報。何が起こっているの?

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(※ステイ先の自室)

ひとまず家族に電話せねば!
ダイニングから自室に戻り最初にしたことは、実家の父の安否確認だ。

数コール目で繋がった父に、「地震大丈夫なの?!」と問うと、「こっちは何でもない。東北や関東は酷いみたいだけど……」と返ってきた。

「九州は影響ないから安心しろ」と言われ、家族が無事だったことに胸を撫でおろす。「気を付けてね」と通話を切ってすぐに、iモードの画面を開いた。

当時はまだガラケーが主流で、一部の学生がネット接続可能なiPod touchを持っているくらい。スマホもiPhoneも販売はされていたが、一般に浸透していなかった時代だ。

ガラケーでは国際通話も国際パケット通信料もバカ高い。だから留学中は1日1回mixiに日記を書く以外、ネットに接続していなかった。

ノートPCなんて持ってきていないし、ステイ先にPCはない。背に腹は代えられないとiモードを繋ぐも、当時は今と違って便利なニュースサイトなんて少なかった。

mixi経由でニュースを漁るが、「東北地方で大地震」「津波で壊滅状態」など、表面的な情報しか分からない。日本や各都市がどうなっているのか、人がどうなっているのか、リアルな情報は何ひとつ入ってこなかった。

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(※通っていた学校)

翌日。いつもと同じように登校し、学校のPCからYahoo!に接続する。
被害状況などのトピックスがずらりと並んでいるが、断片的な情報も多く、時系列が把握できない。学校の談話ルームにテレビが設置されていたけれど、英語を聞き取れないのだから報道番組も意味をなさない。

授業合間の休み時間やランチタイムを使って、ネットニュースに齧りつく。
次から次へと情報が上書きされていき、全体像はまったく見えなかった。

「情報がぐっちゃぐちゃだ。日本の状況が全く分からないよ……」

他の日本人学生たちも同じ気持ちだったようで、「私たちどうなるの? 向こうはどうなっているの?」と不安そうに顔を見合わせていた。

そしてその日の午後。ステイ先に帰宅して見たのは、福島原発一号機の爆発映像。「JAPAN NUCLEAR MELTDOWN」と書かれたテロップ。

「ああ……日本終わったな」

他人事にも似た絶望感が襲った。


行く先々で、あらゆる人から心配される。

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(※留学チームのメンバー&現地学生と。前列右端が筆者)

結局、私を含む関西の留学チームは、修了日まで予定通りオーストラリアに滞在した。東北から来た別のチームは緊急帰国になったらしい。

数日経つと何となく状況も見えてきて、「ひとまず関西は大丈夫みたいだ」と私たちのチームは気持ちを切り替えることにした。

薄情に思われるだろうか。しかし、日本の現状も社会の状況もまともに分からない私たちにとって、住居地や地元ではない場所での地震は、やはり「自分には関係無い」感覚がしていたのだ。

とはいえ、行く先々でたくさんの人から心配された。

学校の先生。クラスメイト。カフェテリアの店員さん。休みの日に立ち寄ったお店の人。

「あなたはチャイニーズ? ジャパニーズ? 家族は無事?」

老若男女問わず、みんな眉を落としながら優しく尋ねてくれた。とりわけ印象に残っているのが、クラスメイトのモハンマドだ。

18歳のモハンマドはサウジアラビアからの留学生。いつもおちゃらけていて、授業はサボりまくり、たまに出たかと思うと茶々を入れて空気をぶっ壊す青年。ムードメーカーというよりは、「アイツなんなんだよ」と各国の留学生から煙たがられていた。

彼とクラスメイトだった私や同じ留学メンバーの友人(以下Mちゃん・上記写真、筆者の隣)も、「モハンマド真面目にやれよ! 授業の邪魔するな!」と快く思っていなかった。

3.11の翌日、学校近くのバス停で合流したMちゃんと校舎に入ると、モハンマドが私たちを見つけて一目散に近付いてきた。

「君たちの家は大丈夫だった?! 家族は無事?!」

心配しきった顔で私たちを気遣う彼を見て、私もMちゃんも目を丸くする。

「私たちの家族は大丈夫だったよ、ありがとう」

「ならよかった……ああなんてことだ……気を落とさないで……」

カタコトの英語で一生懸命励ましてくれるモハンマド。

「モハンマド……めっちゃ良い奴やん……」

つい日本語でそう溢すと、隣に立っていたMちゃんも「めっちゃ優しい……」と呟いた。

「 助けになれることがあれば言ってね!」と力強く言い残し、手を振って去っていくモハンマド。

いやお前これから授業やぞ、どこ行くねん。

などはさておき、「厄介者扱いされていたモハンマドが実は心優しい人物だった」と分かったこの出来事は、忘れられないエピソードのひとつとなった。
その後しばらくMちゃんとは「モハンマド、ダメな奴だと思ってたけど、めっちゃ優しくて良い奴やん!!」と感動し合い、ふたり揃ってモハンマドと仲良くなった。

(モハンマドの写真を載せたかったが、彼とは写真を撮っていなかったらしい。残念)

共有できない「あの頃」の記憶

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(※デグレイブスストリートで食べた朝食)

さて、前述のように留学中はmixiに日記を投稿していたのだが、3.11以後「楽しい日記は書けない」雰囲気になっていた。mixiユーザー全体が自粛ムードで、フレンドたちが投稿する日記も真面目なものばかり。その中でひとりだけ「留学中の楽しい出来事!」なんて書くのも憚れたが、結局一言断りを入れて留学日記は続けることに。

今だったら確実に自粛警察が湧くだろうな……と思わなくもない。

当時の日記がこちら。

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モハンマドお前――――!!!!!(この2日後に評価がガラっと変わることになるとは)


ところで、mixiには「mixiボイス」というTwitterに似た機能がある。3.11以後、フレンドたちがmixiボイスに不可解なつぶやきをするようになった。

「ポポポポーン!」

はて? なんのこっちゃ?
首を90度傾げても分からない。ポポポーンってなに?

何の前置きもなく呟かれ出した、謎の言葉。フレンドに「ポポポポーンって?」と聞いても、「CMでやってるやつ!」としか教えてもらえない。
ますますワケが分からない。ポポポポーンって何なのよ。

結局帰国するまでポポポポーンの正体は分からず、帰国した時にはポポポポーンは流されなくなっていた。


話についていけないのは、ACの広告に限らない。今でも飲み会などで3.11の話になった時、「あの時はこうだったよね、ああだったよね」という会話にのれないのだ。

みんなが「わかるわかる。ニュースで毎日こんなの流れてさ」「あの時関東にいたから帰宅難民になって」などと話している間、私は完全に蚊帳の外だ。

体験していないから、当時みんながどれだけ大変で、何を味わっていたのか分からない。私だけかと思っていたけれど、留学メンバーのMちゃんも同じことを言っていた。

「3.11の話になると、急に疎外感っていうか、自分だけ知らないって置いてけぼりになるよね」

その瞬間だけ、日本人なのに日本人ではない感覚になる、といったら大袈裟だろうか。

阪神淡路大震災が起こった時、私は4歳。だからその時の記憶も無い。阪神淡路大震災も3.11も、間違いなく日本の転換点・変化の契機となった。今の社会を支える多くの人間にとって、忘れがたい大きな出来事のはずだ。

子供の時ならいざ知らず、成人して起こった社会的混乱を知らないのは、居心地の悪さのようなものを感じる。定期的に当時の報道アーカイヴを見まくっているのも、言い表せない感情と無知を埋めるためなのかもしれない。

以前にclubhouseでこの話をした時、震災時関東にいた方がこう仰っていた。

『あの震災がきっかけで、自分に何ができるだろうって考えました』

この言葉は二通りの解釈ができる。社会や他者のために自分に何ができるか。自分の人生のために何ができるか。私が当時の報道を漁っているのは、「知らない」自分のためなのだろう。


最後に。

英語が分からないなりに、当時豪州メディアのニュースも必死に見てはいた。その中で、津波や原発の映像に加えて記憶に焼き付いているものがある。

震災から3日後くらいだろうか。ステイ先のママに渡された新聞。その一面に大きく掲載されていたのは、必死に救助活動を行う自衛官の写真。

泥まみれになりながら人を助けているその姿を見て、「自衛隊、かっこいいな」と素直に思った。
(その後、予備自衛官になろうと申し込んだのは内緒のおはなし。)


軽々しく「被災者の方々のご冥福をお祈りします」と言ってしまうのは偽善者っぽくてしたくない。でも指一本でできる偽善なら、今日くらいしてもいいだろう。



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