見出し画像

タイタニック号の記憶を持つ少年 Starboardの真相 120年ぶりに解明 ジェイミー君は誰だったの?



      天国が見える窓



事象の地平線2097のデザイン この記事の抜粋です。天才物理学者の言葉を思い出してください。ホログラム理論では人間の魂も量子もつれでつながっている世界を、まだ、世界は気づいていない



ベルファストで建造されたタイタニック号

 
 ハリウッド映画にもなっているタイタニック号の記憶を持つ少年が、アメリカのウィスコンシン州に住むジェーミー君。

 タイタニック号の事故後86年経つ1998年当時、4歳のジェーミー君は突然タイタニック号の絵を描き始めました。

一度タイタニックの映画を見てからは50枚以上の絵を描き、ジェーミー君が描くタイタニック号には4本の煙突がありますが、その内の1本からは煙が出ていません。

なぜなら「その1本の煙突はダミーだから」と言います。

実際にタイタニック号は、4本の内の1本の煙突を換気の目的に使用しており、煙が出ませんでした。
他にも当時の人しか知り得ないタイタニック号の問題を知っていました。
ジェーミー君はタイタニック号の記憶を話すようになってから、毎晩、自分が溺れて死ぬ悪夢にうなされるようになったため、当時タイタニック号に乗船していた客の生まれ変わりだと言われています。




「天国には窓があるんだよ、ママ。」


ジェイミー君4才

 ジェイミーには小さいころから少し英国なまりがあった。彼には言語障害もあったためそのせいだろうと家族は思っていた。

そのうちジェイミーは専門用語を話し始める。左右を示すのに「Port」と「Starboard」を使うのだ。覚えておいて下さいね

訂正しようとしても聞かず、「Port」と「Starboard」以外の言葉は使わなかった。この時も家族はテレビで見たものに夢中になっているのだろうと思っていた。

4~5歳の頃、ジェイミーは悪夢を見るようになる。眠りについた後に何かをたたく音がしたかと思うと突然走りはじめるのだ。
家族や周囲の者に目もくれず、パニックになりながら逃げるかのようにひたすら走った。かなり困惑しているように見え、家族も途方に暮れた。
医者からは夢遊病だろうと言われるが、繰り返される悪夢に家族は動揺する。
悪夢と簡単に言うが現実は恐ろしいものである。
しかし、これは始まりに過ぎなかった。
息子を起こさないようにアドバイスされていた家族は、ただそれを見ているしかなく、つらいものだった。

就寝につき眠りに落ちるところまではいいのだが、しばらくするとたたき始める音が聞こえる。
汗をかき、泣いて叫び声をあげ、悪夢が終わる頃には彼のパジャマはぐしょぐしょに濡れていた。そしてベッドから飛び出し廊下を走るのがパターンだった。

いつまで続くのか、終わりがあるのかさえ分からない状況に、スーザンは無力さを感じるた。悪夢を見ている時に話すのは、水、溺れる、下を通るといったことだった。

スーザンはこれらに関係している何かがあるはずと思うようになる。ひどいトラウマとなる何かの記憶を持っていて戦っているのではないかと。

これに対しティールは家族に落ち着いた方がよいと助言する。心理学者の彼女は悪夢はよくあることだと知っていたからである。 
ジェイミーが4歳の頃のこと。家族は外出しジェイミーはベビーシッターが見ていた。家に帰ると彼が映画「タイタニック」の後半を観たことが分かる。家族としては余りうれしくないことだった。

その翌日、ジェイミーはタイタニックの絵を何度も何度も描く。2週間の間に約50枚は描いた。

スーザンは最初、映画を観たせいだろうと思っていた。とても感情的になる映画だからである。ところがその後も彼はどこへ行こうが、ノートブック、学校、紙のランチョンマットなどにタイタニックを何度も何度も描き続ける。憑りつかれたかのように描き続ける姿は家族を動揺させた。

その中の何枚かは大人が描いたもののようだった。ある絵には100以上の窓が描かれ、鉛筆一本で船の全ての階層が描かれていた。まるで船を半分に割って、中の全てが見えるかように。

ジェイミーはこの船を知っている。心で記憶しているのだとスーザンは確信する。タイタニックの映画を観ただけでこれは描けるものではない。それに映画のメインはラブストーリーだ。

そして彼は事故そのものについて話すようになる。彼はボイラールームの人々が閉じ込められて最初に亡くなった事実に対し、それが自分のせいであるかのように完全に取り乱していた。

事故は起きるべきではなかった。
ミスがあり、それは手抜きによるものだった。ボイラールームの人たちは閉じ込められずに済んだはずだ、と言って泣いた。
それはスーザンにとっても悲しく辛いもので、息子と一緒に泣いた。

ジェイミーのタイタニックの悲劇への執着は明らかにひどくなり、ティールはセラピーの必要性を考えた。
もしかしたら映画でトラウマを受けたのかもしれない、そして絵を描くことで解決しようとしているのかもしれないと。
しかしそれも説明がつかない。近年の子供たちはもっとさまざまなことに触れているのに、100年前に沈んだ船に動揺するものだろうか。

彼には船について相当の知識があった。その関心のレベルも何か深いつながりがあるに違いないと思えた。

スーザンは輪廻転生を常に信じていたため、人生は一度きりではないという考えに抵抗はなかった。彼女はジェイミーが言った言葉を集めジャーナルを作った。

そして徐々に息子はタイタニックに乗っていたのに違いない、それ以外にこの船についてこれほど知り尽くせるはずがないと確信するようになったのだ。

ジェイミーは5歳の頃から、船を造る時ミスがあったことを主張していた。鋼(スチール)を使う代わりに鉄を使ったことが間違っていたのだと。5歳児が母親にこのようなことを話していたのだ。

船が氷山にぶつかった時、
ボイラールームにいた人達は非常ドアに閉じ込められた。
「彼らは最初に亡くなったんだよ、ママ。分からないでしょ。」
と言ってジェイミーは泣いた。 


彼は誰だったのか?



トーマス・アンドリューズ・ジュニア(Thomas Andrews, Jr., 1873年2月7日 - 1912年4月15日)は、アイルランド生まれの実業家・造船家。ベルファストにある造船会社ハーランド・アンド・ウルフの常務取締役兼設計部門部長。アンドリューズは遠洋定期客船タイタニック号の設計担当者だった。彼はタイタニック号の処女航海に同行し、1912年4月14日に船が氷山に衝突して沈没した事故で、亡くなった。享年39才だった。

新聞記事では、アンドリューズは英雄扱いを受けた。タイタニック号の客室係で、アンドリューズに説得されて救命ボートに乗り込んだメアリー・スローンは、のちの手紙に次のように記した。
「アンドリューズ氏は、運命に立ち向かう真のヒーローだ。大きな危険を認識しながらも、命がけでタイタニック号の女性や子どもを救った。彼だからこそ、できたことだ」
数年内には、アンドリューズの人生は記念に値すると考えた議会議員ホレス・プランケット卿の要望により、シアン・ブロック(Shan Bullock)著の簡単な伝記が出版された。

故郷コンバーにはごく早い段階で、この街出身の唯一のタイタニックの犠牲者を記念する充実した施設が建設された。
1914年1月には、トーマス・アンドリューズ・Jr.記念ホールが竣工された。建築はヤング・アンド・マッケンジーで、彫刻はソフィア・ロザムンド・プリーガーが担当した。ホールは現在、サウス・イースト教育委員会の管理で、アンドリューズ記念小学校が使用している。

 正確にはジェイミー君が彼だったかは証拠がまだ足りていません。もっと、探してみます😭



映画タイタニック🎞の真実

 ローズとジャックは架空の人物です。様々な人間が乗船していたので、こういう恋物語もあったかも知れないというフィクションです。当時の貴族社会の暮らしぶりや、救命ボートが乗客全員を乗せられる数がなかったことなどは史実に基づいています。昨年亡くなった、当時3歳だった最後の生き証人の女性によると、映画にもそのシーンがありましたが、沈んでいく船の甲板で最後まで楽団が曲を演奏していたというのは本当だった


天国には窓がある?


映画タイタニックでも描かれていますが、救命ボードはタイタニックの乗客にはとても足りず、女性と子供が優先して乗せられていました。

そんな中、夫イジドー・ストラウスと妻アイダ・ストラウスにもボード乗船の際に、別れが迫っていました。
しかし、妻アイダ・ストラウスはボードが出る直前に自らボードを降り、最期まで添い遂げることを選びました。40年連れ添ったとても仲の良い夫婦だったようです。

妻アイダ・ストラウスは自分だけが助かることより、夫と一生添い遂げることを選びました。


また、夫ハドソン・アリソン、妻ベス・ワルドー・アリソン家族も例外ではありませんでした。
夫とはぐれた妻ベス・ワルドー・アリソンが娘ロレーヌと最後の救命ボードに乗るかどうかの決断を迫られた時、夫を探しに行くことを選びボートには乗らなかったそうです。
その後家族はタイタニック船内で再会し、最期の時まで笑って寄り添っていたそうです。

このように、タイタニックには他にも数々の愛の物語があったようで、ヒロイン・ローズのモデルは複数いたとも言われています。



ベルファストのランドウルフ

1911年にベルファストで建造されたタイタニック号が、イギリスのサウサンプトン港からニューヨークに向けた処女航海に出航したのは1912年4月10日。
その航海中の4月14日深夜、北大西洋の氷山に接触して沈没してしまった。

タイタニック号沈没から100年を経たベルファストには、タイタニック号関連の資料が豊富な大型展示館タイタニック・ベルファストがオープン。



アイルランドから🇮🇪離れて

ジェイミー君は誰だったの? 似ているのは一等航海士

ウィリアム・マクマスター・マードック: William McMaster Murdoch、1873年2月28日- 1912年4月15日)は、イギリスの航海士。客船タイタニック号に一等航海士として乗船しており[1]、同船の沈没事故により命を落とした。

ケープタウン、南米などを航海した。
1895年3月23日には一等航海士(1st mate's certificate)の試験に合格し、バークのセント・カスバート号(St. Cuthburt)に一等航海士として勤務[2]。ついで1896年9月28日に特別船長資格英語版)(Extra Master's Certificate)の試験に合格し[2]、1897年4月からバークのリドゲート号(Lydgate)で勤務し、同船で中国にも航海した[2]。
1899年ホワイト・スター・ライン社に入社した[2]。はじめオーストラリア航路に勤務し、メディック号の四等航海士、1901年からルーニック号の二等航海士となる。ルーニック号勤務中の1903年2月12日にニュージーランドで教師をしていたエイダ・フローレンス・バンクス(Ada Florence Banks)と出会い、彼女と遠距離恋愛を始めた。
1903年から大西洋航路に転属となり、アラビック号の二等航海士、1904年にはセルティック号英語版)の二等航海士、後に一等航海士となった。さらにゲルマニック号の一等航海士、オーシャニック号英語版)の二等航海士などを経て、1907年にはアドリアティック号の一等航海士に就任した[2]。1907年9月2日サウサンプトンでエイダと結婚した


タイタニック号の一等航海士


1912年3月、タイタニック号乗務を命じられる。マードックは当初航海士長だったが、大型船舶の航海士長の経験がないことをスミス船長に憂慮され、オリンピック号の航海士長だったヘンリー・ティングル・ワイルドがこの船での航海士長として急遽転属することになり、マードックは一等航海士に降格された。
タイタニックのブリッジの指揮はスミス船長、ワイルド航海士長、マードック一等航海士、ライトラー二等航海士の4人の上級士官達が交代制で執った。

1912年4月14日午後11時40分にタイタニックが氷山に衝突した際にはマードックが当直だった。衝突直前、氷山を発見したマストの見張りからの電話で「正面に氷山」との報告を受けた六等航海士ジェームズ・ポール・ムーディはすぐにマードックに対してその言葉を繰り返して報告した。

マードックは操舵員ロバート・ヒッチェンスにHard a starboard取舵一杯と指示。さらに機関室用信号機を使って両エンジンに全速後進の指示を出した。
結果、氷山への正面衝突は免れたものの、船体右舷と氷山が接触した。

マードックはすぐにボイラー室と機関室の防水壁を閉じるスイッチを押し、

ブリッジへ戻ってきたスミス船長に状況を報告した。

その後、トマス・アンドリューズの船室でタイタニックが沈没するであろう旨の状況説明を受けたスミス船長は、4月15日に入った午前0時5分頃に救命ボートの準備をするよう指示を出し、マードックは乗客を集める準備にかかった。

さらに午後0時20分、スミス船長はマードックを右舷ボート、二等航海士ライトラーを左舷ボート担当に任じた。
またスミス船長は女性と子どもを優先するよう命じていたが、この命令をライトラーは徹底したのに対し、マードックは緩やかに適用した。たとえば主人と離れたがらない夫人などの場合、マードックは座席に余裕があれば夫と一緒に乗ることを許可することが多かった。それによって余計な遅れをなくそうという考えからだった。

ライトラーによれば、マードックは午前2時15分頃、折り畳み式のA号ボートを吊り柱に取り付けようと悪戦苦闘していたところ、船首が沈んで船尾が上がるにつれてボートデッキを上がってくる水に飲み込まれて命を落としたという。しかし、この場合左舷に居たライトラーから右舷に居たはずのマードックが死角になっているはずだった。

彼の遺体は発見されなかった。
享年39才だった。



事象の地平線
EventHrizonの日本語版記事です。

北米とEUだけで3億人の職が1-3年の間に失われます。それではいけないので、何かお役に立てればと思い公開しました。ですが、契約で記事は水面下に一度消えます



タイタニック号から引き上げられた宝石



しかし、タイタニック号が海底から引き揚げられた貴重な宝物のなかで、最高額となったのは、沈没する最期まで、演奏を続けたタイタニック演奏団の所有バイオリン。
1億5000万ー2億円の値段が付いた。



バイオリン奏者のウォレス・ハートリー

 この音楽隊が、乗客に落ち着いて救命艇へ移動してもらうため、自身らは最後まで演奏を続け、その運命を船と共にしたのは事実

 このリーダーとなっていたのが、映画でも「君らと演奏できたことを光栄に思う」と発していた、バイオリン奏者のウォレス・ハートリーだ。1878年にイングランドで生まれたハートリーは、父が聖歌隊と教会学校の長を務めていて、そこでバイオリン演奏を学んだ。卒業後もオーケストラで活躍し、やがてタイタニック号のバンドマスターを務めることとなる。プロポーズしたばかりの婚約者マリア・ロビンソンと離れ離れになるため、はじめは悩んだそうだが、この仕事が将来につながるかもしれないと考え、乗船を決意した。


そして、バイオリニスト、ハートリーの精神と名はタイタニックと永遠に生きる






 この記事はEventHrizon2097の一部分です。タイタニック号の真相としては120年ぶりです。しかし、全体記事は人類史上初の内容です

全人類の想像を絶する書物

Event Hrizon 2097




直前の内容



#第三の眼 #前世  #前世の記憶



この記事が参加している募集

SF小説が好き

恋愛小説が好き

バンコク駐在記者。ミャンマーのヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。ウィルス戦争取材に呼び戻され、世界最前線で戦うためコロナウィルスの突然変異に迫る😂もし、頂上に立てなかったら、日本は中国から千年の隷属国家に貶められます、戦いのすべてはコロナ感染で苦しむ人々のために❗️