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早期退職するも、引退ではない。

職業で括ろうとしてはいけない。

 本職?人間だ。先月、東京都美術館にて開催されていたTARO展のキャッチコピーにも使われた、岡本太郎さんの名言である。彼は自分から芸術家と名乗らず、人間だと言っていただけでなく、生涯を通じて絵画や彫刻、陶芸品を売らないスタンスを貫いた。

 作品をお金に変えた方が生活には困らなくなるだろうが、個人に売ってしてしまえば、多くの人が目にする機会を失い、観る人に影響を与える芸術作品としての体を成さなくなると考えていたためである。

 だからこそ、美術展で圧倒的な作品数を展示できて、没後に生まれた私でも、殆ど全ての作品を鑑賞することができる訳で、非常にありがたい話で心から尊敬している。

 気になる点は、どうやって生計を立てていたかに尽きるが、執筆やパブリックアートの依頼、講演会などと言われている。晩年はテレビタレント的な役割も引き受けて、爆発面白おじさんとしてお茶の間を賑わせた。

 だから、個人の特徴を端的に表現するために括る職業を、岡本太郎さんに当てはめようとすると、かえってややこしくなるため、本職が人間という表現は言い得て妙なのだ。

 そんな太郎さんに影響を多分に受けている私も、概念上の職業は鉄道員とか、電車の運転士とか言われているらしいが、同時に学生でもある。平日休みなら日本株の相場が動いているため、パソコンに張り付いて、9時〜15時で取引を行うため、利ざやの多寡は別にしても、個人投資家的な側面もある。

 とはいえ、クレジットカードを申し込む時の職業欄はひとつしかない。項目欄に複数列挙することもできなくはないが、悪戯だと思われかねず、ただ単に会社員と記載した時よりも、審査が通らなくなり、発行できなくなる可能性が高くなるオチが容易に想像できるため、便宜上、会社員だけを記載して、結果として小さな嘘をつくことになる。

 学割を受ける際も同様である。一応20代であるため、対面で確認されても外見上の違和感はないと思いたいが、20世紀生まれの生年月日をまじまじとみられると、流石に普遍的な人生を歩んでいれば、とっくに社会人になっている年齢だからか、一瞬フリーズされたことはある。

カオスなライフステージが本望。

 教育→就労→引退。バブルが崩壊するその時くらいまで、世間一般で良しとされていた、年功序列、終身雇用が前提のライフステージである。しかし時代はマルチステージ。

 一度就労した後に、リカレント教育やリスキリングを通じて、自己投資という名の再教育を受けて、より単価や付加価値の高い働き方を選択したり、価値観に寄り添った生活を営むなど、引退までのプロセスが多様化するのは、年功序列、終身雇用の前提が崩れて、政府が再教育の後押しをする姿勢であることからも明白である。

 私は高校を出て一度社会に出たが、社会人と並行して学士を取得する道を選んだ。そして、今春に早期退職して、賃金労働者からは一旦距離を置く。そう考えると現在の就労・教育・兼業投資→教育・兼業投資に移行し、永遠の大学生では学費もバカにならないため、教育も2年足らずで卒業できれば、晴れて専業投資家となる。

 そのため、早期退職はするものの引退する訳ではない。かと言って起業している訳でもないという、何ともややこしいカオスなステージに今春から突入する。

 一応の最終目標としては、安定配当のポートフォリオを構築できる資産規模になったと思えたら、個別株を月に何度も取引してキャピタルを取りに行くこともせず、本当に何もせずフラフラしているだけの、夏目漱石が憧れた高等遊民を味わいたいと願っている。

働かず 身銭も切らずに 食べるご飯 その美味しさは いと至高なり

何の為に生まれて、何をして生きるのか。

 かの有名な某マーチの歌詞だが、AED講習で心臓マッサージのリズムを取る際のネタとして、しばしば用いられる。鉄道の現場では、やなせたかし派閥と、藤子・F・不二雄派閥に二分されるが、私は作品はともかくとして、超遅咲きで何歳でも挑戦できる勇気を貰える点で、やなせたかし派閥である。

 中途半端なことは好きではないため、講習で指名されれば腹を括るしかない。やるからには全力である。いい歳になりつつある大の大人が、3歳児に負けず劣らずの熱唱具合で心臓マッサージをしては、同僚に冷笑されるどころか、講師にも引かれる始末。

 因みにその後のAED講習で指名されることはなくなり、他の若手が割りを食っているものと思われるが、現職などいつ辞めても構わないと思っていたため、気にも留めていない辺りが、社会不適合者感満載であり、ここからは歌詞を振り返りながら、熟考モードに切り替える。

 人間誰しも生まれるのは受け身である。物心ついて気付いた時には生まれている。生年月日は記録されているものの、それが本当かは自分では分からない。とはいえ、生れて来た以上は、生きねばならぬ。

 生きているうちに何をしたいのか。それを探すつもりで一旦社会に出ると、目の前の仕事に追われて、時間が経つにつれて内なる道標を見失い迷子になる。

 無理して会社に勤める必要が、果たしてあるのだろうか。日常生活で常に無理を重ねていないだろうか。無理を重ねるとやがて慣れとなり、感覚が麻痺して今の自分が苦しいのかそうかすら分からなくなる。壊れた時にはもう遅い。

 シン・エヴァンゲリオンの第3村でのアヤナミレイ(仮称)ではないが、方向性を見失いそうになったら、仕事って何?と自問自答してみると良いのかも知れない。第3村のおばちゃま方のように、考えたこともなく、生きづらさを感じながらも、日々を惰性で過ごしている人が現代には多過ぎるのだから。


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