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金融資産は経験の負債でもある。

高学歴社会と借金で貧乏な若者。

 マスメディアでは若者の〇〇離れと話題に上がるが、一にも二にもお金がなく、貧乏であることに他ならない。金融広報中央委員会の統計では、20代単身者の保有資産額(中央値)は8万円となっている。

 現代の若者の半分以上が預金10万円にも満たずに、自分ひとりがその月を暮らすことで精一杯なのは、何も宵越しの銭は持たない江戸っ子タイプが爆増した訳ではなく、高学歴社会と貸与型奨学金によるものと推察される。

 先日、高卒採用の一人一社制を取り上げたメディアがあったが、その場に居たコメンテーターが実態を知らなそうな素振りを見せていた。演出の可能性もゼロではないが、コメンテーターの属性を考えれば、何の疑いも持たずに大学に進学できるような、学のある方の集まりだろうから、私は素直に知らないのだろうと受け取った。

 実態として、義務教育は中学までであるにも関わらず、一般社会では大学を卒業していることが当たり前で、ネームバリューのある企業ほど求人で大卒以上を条件としていることが殆どである。

 そうなると、可能性の幅を狭めないためにも、当然のように大学への進学を選択する。しかし、両親が想定しているよりも、大学の学費はインフレしていて、現に世帯年収600万円の家庭で子供2人が大学に通うと、生活水準は生活保護レベルまで低下することが指摘されている。

 世帯年収600万円は平均よりも高い数値である。年収や金融資産の平均というのは、往々にして少数の外れ値に位置する人々が平均を押し上げ、中央値と乖離する傾向にあるから、実態として全世帯の半数以上は世帯年収600万円に満たず、子供の学費を支払うと生活が立ち行かなくなる。

 そうして奨学金という名の借金を、平均288万円背負って大学を卒業して、10~20年掛けて返済していくが、大卒で大企業に入っても、労働集約型だと初任給が20万円に届かなかったりするため、返済をすると貯蓄をするゆとりなどなく、例えブラック企業でも蓄えがないため、辞めるに辞められない実情があるし、病気や災害など何かの拍子で毎月の賃金がなくなった瞬間に生活が立ち行かなくなる。実際問題、返済義務者の9%は延滞している。

マイナススタートする位なら高卒も一考。

 私は学生時代に、この職種なら就いても良いかと思えるような中で、大卒資格が必要なものがどれ位あるのかを調べた上で、借金してまで大卒である必要ないと判断して高卒で社会に出た。

 一社目は薄給ブラック企業で大外れも良いところだったが、二社目で可もなく不可もなくな取るに足らない企業に鞍替えしたが、そもそも借金はなかったため、一年目から十分に預金するだけの余力はあったし、既に手放した中古車も現金一括で購入していた。

 奨学金を返しながらだと、毎月無条件に数万円が口座から差し引かれるのだから、同じようにはならない。現に、同い年でも相手は大卒だから後輩というケースに巡り合ったが、賃金は大差ないのに私の方が羽振りは良さそうな気がする。

 生涯賃金は大卒の方が高いのかも知れないが、果たしてお高い学費を掛けるのに見合うだけのリターンが、出世街道とはほど遠い現業職で得られているかは疑問に思う。

 高卒で総資産ゼロの状態から蓄財をロケットスタートして、1年間で100万円を貯蓄。10年後の28歳時点で1,000万円を年率4%で運用出来れば、毎年何もしなくてもつみたてNISAの年間40万円の枠を埋められる規模の金融資産所得が、死ぬまで得られる計算で、寿命を81歳と想定しても単利でも2,120万円のリターンが見込め、老後資金問題は無視できる規模になる。

 奨学金を借りて大卒になると、社会に出た時点で総資産はマイナススタートで、総資産がゼロになるのは30代になってから。焦って結婚して養育がスタートすれば、子供が成人するまで貯蓄は儘ならず、老後不安から生涯現役を強いられる。

 はなから就社して定年まで働く気も、生涯現役を貫く気もなく、自分が必死こいて種の存続を推進しようとも思わなければ、高卒で社会に出て、早期に蓄財して資本主義社会と複利の恩恵を受けながら、リタイアする計画は理にかなっていると言える。

金融資産=我慢料?

 とはいえ、転職時に高卒で散々たる思いをしたことや、日本が没落した際に就労ビザを取るのにも大卒が有利なのは明白で、結局、金融資産所得で学費を賄えるようになったのを機に通信で大卒資格を取得する運びとなった。

 この時感じたのは、将来、職に就けるのかも定かではない自分の将来に対して、不相応な教育資金の前借りを行わなかったことで借金地獄を回避し、経済的にはまとまった金融資産を保有するに至った反面、10代後半から20代前半の4年間でしか味わえないであろう、大学生特有のキャンパスライフをあえて経験しなかった意味では、心の負債とも言える。

 その証拠に、金融資産1億円を遺して亡くなった方に対して、「もったいない」と思う方は多い。当事者としては、1億円の資産を運用した不労所得、すなわちコップから溢れた水で生活するための水源なのだから、そこには手を出さずに寿命を迎えただけの話だが、一般的な考えでは1億円もあれば、生前に色々な経験が出来たはずなのに、それを行わなかったことから来る「もったいない」だろう。

 このことからも、金融資産の大きさは、多彩な人生経験をする機会損失を数値化したものとも捉えられる。

 ここ数年の疫病や戦争の影響から、私の金融資産は実体経済とはかけ離れた増殖具合で推移して、3年で2倍になりそうな勢いとなっているが、これはかつて、時間との兼ね合いから先送りしてしまった、半年から1年程度社会から離脱して、世界一周航空券で世界一周旅行を満喫するために蓄えた資金が行き場を失った結果でもある。

 実行するのに十分な蓄えはあったのに、律儀に転職先を見つけて退職して、有休消化で横槍を入れられたため、世界一周航空券を使い潰すだけの時間が圧倒的に足りず、実行に至らなかった。

 結果論ではあるものの、その先送りが昨今の疫病と戦争であり、以前のグローバル社会からは遠ざかってしまった。疫病や世界情勢などを大して気にする必要がなかった頃に世界中を巡れたら、その後の人生にどれだけの影響があったかと思うと、次に何の躊躇いもなく世界旅行ができる時代が再び訪れる頃には、既に自身が今ほど若くないことと相まって余計に悲しくなる。

 借りたお金を返すアテも定かではないのに、大学を出るために多額の奨学金を借りて、社会に出てから返済に苦しんだり、宵越しの銭は持たないような、場当たり的な生き様も考えものだが、だからと言って、訪れるかも定かではない理想の未来のために、今を犠牲にして蓄財したところで、思い描いた未来がやって来る保証などどこにもない。

 私は経済的に独立する道半ばで、心当たりのない発作に襲われ、死を覚悟した時に極力お金を使わず、経験の負債から多額の金融資産を調達していた人生に軽く後悔した。「貯蓄から投資へ」が話題となる昨今だが、運用して増やすことはインデックスファンドで誰にでもできる。

 しかし、増やしたお金をいつ、どのように使うことで人生の満足度を上げるのかは、答えが人によって異なり、使いどころを賢く見極めるには相応のリテラシーが必要だと感じる今日この頃である。金融資産を増やして喜ぶのは大いに結構だが、心に経験の負債が累積していることを意識すると、今までとは一味違ったお金の使い方を見出せるかも知れない。


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