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覆水盆に返らず。


本当に大切なものは、失って始めて気付く。

 「推しは推せる時に推せ。」昨年の2月最後の日に、黒崎真音さんが急逝したことが公になり、この言葉の重みをまざまざと痛感した。

 あれから約10ヶ月の時を経て、彼女が大病を患ってから、復活を遂げるまでのドキュメンタリー映画を劇場で観る運びとなった。

 制作途中の急逝だったため、公開そのものが危ぶまれたものの、本人が生前から提案していた、クラウドファンディングによって公開まで漕ぎ着けた。目標額を大きく上回る支援が得られた辺りからも、彼女の人気の根強さが窺える。

 私も学生時代から、彼女のエネルギッシュな歌声に魅了されたうちのひとりだ。アイデンティティの形成にも多分に影響を受けている。

 高卒で社会に出た頃は、手取り13万円でおまえが終わってんだよww状態だったことを言い訳に、お金に困らない生活ができるようになった暁には、ライブに参加したいと漠然と考えていたが、お金に困らない生活ができるようになった今、彼女はもうこの世に居ない。

 本当に大切なものは、失って始めて気付くのだと、やりたいことを先送りした自分自身の愚かさを呪った。

※以下、ネタバレ注意※

 「もし君があの日の僕になっても」のタイトルにもあるように、「あの日の僕」は、紛れもなく硬膜外血腫で倒れた彼女自身であり、その際に味わった絶望感に対して、どう向き合っていくかを、ドキュメンタリー形式で見せる作品となっている。

 私も彼女が倒れた3ヶ月後に病気で倒れたため、作品の序盤から共感を通り越し、似たような境遇の渦中で、もがき苦しむ者として同調するあまり、涙で視界が歪んでいた。

 なんか具合悪いなと内心思いながらも、いつもの日常を繰り返そうとした。蓋を開けてみたら大きな病気で倒れていて、その日を境にこれまでの日常が一瞬で崩れ去る。

 一命を取り留めた後に待ち受けるのは、「これ自分なのかな?って言うような自分」。彼女は「つぎはぎ」とも表現していた。

 どこかで矛盾を抱えながらも、これまで積み上げてきた自分。それが突然の病気を引き金に、全てが一瞬でバラバラになった感覚を味わい、その破片を必死になってかき集めようとする。そうして、両手で拾い集めた(捨てられなかった)大切なものを軸に再構築を試みる。だから「つぎはぎ」。

 作中のライブMCで、暗い話をするつもりはないと前置きしつつも、「こんなにボロボロになった自分を見て、誰がこんな私を欲しがるのだろう」とか、「絶望」とか、「全部終わりにしよう」と重く暗い心境を、絞り出して言葉に変えていく様子が印象的だった。

 若くして大きな病気を患うと、自分で自分を「ガラクタ」とか「ジャンク品」と卑下しなければ正気を保てない程度に、精神的に来るものがあるのは、私も同じ地獄を味わったから理解できる。

 同世代の周囲を見渡しても、病気とは無縁な生活を送っているからこそ、どうして自分だけ…的な思考回路に陥り、入院中に何もできず、時間だけは膨大にある環境も相まって、頭ではバカバカしいことだと理解しながらも、自分で自分を傷つける方向に走ってしまう。

 私も病に倒れて「絶望」を味わい、「全部終わりにしよう」と思うまでは彼女と同じだが、病気を口実に、これまで積み上げてきたものを全部終わりにした側と、進む先が違った。私が20代ということもあり、倒れる前と同じ環境に戻ったら、今よりも悲惨な結末を迎えかねず、死んじゃっちゃ面白くないと考えての店仕舞いだった。

 その一方で、彼女は時期的に病み上がりと思われる中、これからの人生を弱者として、他人に同情されながら生きるのは違うと、ストイックなまでに元の場所に戻った。

 と言うよりも、変わらずアーティストとして生き続ける覚悟を決めたのだろう。それが例え自らの命をすり減らす行為だと、薄々気付いていたとしても。

 作中のライブ映像で、何事もなかったかのように、エネルギッシュに振る舞う彼女の姿を見ていると、こちらが時折辛くなった。

 他人に心配されたくない思いから、無理して平気そうな振る舞いに徹していたのではないかと。「黒崎真音」という看板や、我々の期待が重荷だったのかも知れないと。似たような境遇に身を置いたからこそ、あれだけ重い病気を患って、平気な訳がないと勘繰ってしまう。

 たとえ辛くとも、前に進んだ自分の姿と、「明日も明後日も、あなたが笑ってますように」を伝えたかった本人は、もうこの世に居ない訳で、その結末を知りながら、最後に彼女自身の「ただいま」で終劇する。

 病に倒れてから、復活するまでの軌跡のドキュメンタリー作品なのだから、彼女が生きていたら、締め括りの「ただいま」は感動的な言葉として受け取れたに違いないが、本人亡き今となっては、ただただ切なかった。

 紆余曲折を経て映画となる前に、「あの日の僕」となった私は、未だその渦中で立ち止まり、もがき苦しんでいる。

 そんな身としては、画面の世界に映し出される彼女の姿を見ては、弱者側に甘んじている自分が腑抜けて見えると同時に、彼女の結末を知っているが故に、今後どう生きれば良いのか、そのヒントを作中で見つけ出すことはできなかった。

 覆水盆に返らず。今になってどれほど故人を思ったところで、生前に全力で推せなかった私の過去は取り返せない。だからこそ、彼女が私に残してくれたものを、自分なりに昇華しながら生きていく他ない。

 こんなサヨナラは嫌だからこそ、最後の言葉を覆すために私は出来る事をする。かつて彼女が神田沙也加さんに向けて、そう綴ったように、今度は私が出来る事をする番なのかも知れない。


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