体調は良い。悪いのは視力と人付き合いだけ。
ストレスに対する根本的な処方箋。
タイトルは大原扁理氏の「なるべく働きたくない人のためのお金の話」に出てくるユーモラスな一文である。
初めて読んだ当初は、視力と人付き合いは大して良くはない私からすれば、そう言える日が来ると良いな程度の認識だったが、地方で生活コストを引き締めて、隠居生活のそれに近いことをしている今となっては、確実にその道を進んでいる。
とはいえ、私の場合は大病を患ったことを口実にドロップアウトしている節はあるため、体調が良いかと問われると微妙だが、社畜時代に体調不良を訴えていたにも関わらず、医者を含めて病気を見落とされた結果、肝機能障害の末期症状が出ている中、ルーチンワークをやらされていた時に比べれば、確実に体調は良い。
と言うのも、退職後はもっぱら株取引以外でまとまった金額を得ている業はなく、投資はギャンブルだと考え違いをしているパンピーからしてみれば、ニートのそれに近い。厳密には、通信制大学に在籍している永遠の大学生であるため、ニートの定義からは外れる。
そんな脱賃金労働者状態となってから、季節が一巡しつつあるが、帰省時に移されたのを除けば風邪を引かなくなった。散々悩まされていた耳鳴りやフケも殆どなくなった。
副産物的に尋常じゃない量の漢方薬を備蓄する必要もなくなった。(鉄道員は運転作業を扱う職業柄、西洋薬を服用しての業務は禁じられているため)
高卒で社会に出て、20代半ばで内臓を悪くした程度に、社会生活でのストレスで急激に消耗する部類の人種なのだから、社会から距離を置くことが、ストレスに対する根本的な処方箋だったのだろう。
独りで居ても孤独を感じない能力。
そうして平日の9時〜15時は日本株の市場が動いているため基本的には引きこもり、土休日は街に出ると人混みが嫌なため引きこもる。
そうして日頃、他者との接点がスーパーと図書館、銭湯の番台、薬局、役場程度と、この社会に居場所を求める人には堪えるであろう生活を営んでいるが、基本的には人嫌いな当事者としては、全く苦にならない。
恐らくHSP的な気質があるのだろう。感受性の高さから、パンピーが気付かないような些細な部分にも気付いてしまうが故に無駄に消耗する。だからこそ、他者との接点を持つ=疲れるに繋がる訳で、別に毎日どっぷり疲れたいマゾヒストでもない限り、独りで居る方が圧倒的に楽なのである。
傍から見たら孤独な人に映るのだろうが、客観的に「孤独」であっても、当の本人が「孤独感」に苛まれている訳でなければ、大した問題ではない。反対にどれほどのパリピであっても、当事者が「孤独感」に苛まれているのであれば、そちらの方が問題なのである。
よく定年退職とか、セミリタイア後に社会との接点を失い、寂しさに耐えきれなくなって結局、賃金労働者という元サヤに戻るオチはありがちだ。
勉強ができるとか、努力ができることに素質があるように、独りで居ても孤独を感じないことにも素質があるのだろう。
私の場合、工業高校を卒業後に社会に出たところで、決められたことを決められた通りやるだけの単純作業にしか従事せず、代わりはいくらでも居ると言われ、どこまで行っても取るに足らない社会の歯車でしかなかったことから、そもそも社会に自分の居場所があるという意識が希薄だったのも影響しているのだろう。
エリート街道を進んできた人ほど、この手の錯覚に陥っているように思うが、別にスティーブ・ジョブズ亡き後のアップルが、時価総額を上げ続けているように、どれほど重要なポジションであろうと、代わりは居る以上、どこまで行っても社会に自分の居場所などというものはない。
現時点で最後の職種となっている電車の運転も、社会的には意義のある仕事に思われているかもしれないが、別にどこかの駅を12時00分に出発する〇〇線の列車を運転する人が、私でなければならない理由など、どこにもない。
その事実が変わらない以上、いつかは社会の枠組みから外れて、独りになる時が来るのだから、独りで居ても孤独を感じないスキルを身に付けた方が、人生設計上プラスに働くのではないかと考えるが、いかがだろうか。
職で重視する項目を間違えている。
アドラー心理学では「課題の分離」として、「自分の課題」と「他人の課題」に大別して、自身の力量ではどうすることもできない後者に対して気を揉むのは野暮だと切り捨てている。
対人関係のストレスは「課題の分離」によって、その殆どが解消されるのではないか?という前提のもと、煎じ詰めれば、他人に期待せず、自分で変えられることだけに意識を向けるべき的な考え方とも捉えられる。
これは自身の職業観にも応用可能なものと考える。我々は往々にして仕事選びで「知名度」、「給料」、「正規雇用」、「世間体」辺りを重要視しがちだが、それを満たしているであろう、毎朝、満員電車で死んだ魚の目をして通勤しているサラリーマンが幸せそうには見えない。
つまり、重視する項目を間違えている可能性が高い。上記の4項目は大部分が「他人の課題」だからだ。
所属組織の知名度は自身の力量で変えられる類のものではない。給料も典型的な年功序列制の日系企業ほど、給与テーブルがガチガチに設定されていて、年齢と経年と学歴と役職でほぼ決まり、賃上げ交渉の余地はない。
正規雇用も、周辺的正社員の言葉があるように、実態としては非正規と大差ない処遇だったり、某中古自動車屋のように正社員なのを良いことに、生殺与奪権が奪われ、嫌がらせの転勤などで奴隷の如く扱われると、自身の生活で主導権が握れなくなる意味で、雇用をダシに自由を奪われる足枷でしかない。
世間体も自分の力量で良し悪しを決めるというよりは、他人からの評価でしかなく、たとえ竹○工務店に勤めても、町工場とかダッサwみたいな評価をするオツムの弱い人種が居るのも事実で、そう考えると、他人の評価軸で生きることの不毛さが浮かび上がる。
自分の人生なのだから、私のような隠居株トレーダーと、知名度、雇用、世間体辺りが最悪でも、自分で生活の主導権を持てて、自分の意志で生業を変えられる自由さえあれば、それで良いと思える人は、自分の内なる心の声に従って生きた方が、ストレスのない生活が営めるだろう。