見出し画像

人生の修羅場には哲学が使える。


自己啓発本は実用性皆無。

 最後だし…。在籍している通信制大学の、4年次進級に際して履修科目の登録で哲学をチョイスした時、心の中でそう呟いた。

 今までの3年間は、4年で卒業することが何よりの目的だったため、いかに単位が取れそうかが指標として重要だったため、ほぼ確実に取れるであろう、得意分野である金融、経済、会計が主軸の無難な選択ばかりだった。

 その作戦が功を奏して、社会人と並行しながら学業に取り組んでいるにも関わらず、一度として単位を落とすことなくこれまで推移し、身体が壊れたのを機に先に社会人を卒業し、フル単位の大学4年生と謎の状態になった。

 在学中に取得した資格が単位認定される予定であることを鑑みると、卒業要件の不足単位数は13。一方で履修登録では30単位以上選択している訳だから、極端な話、最後の1年は興味本位でつまみ食いした結果が大火傷でも、半分くらい取れれば卒業要件は満たせる訳で、好き勝手選んでも問題ないと判断したひとつが哲学である。

 私は自己啓発書の類は、10代最後の2年くらいを最後に、20代に入ってから読む機会が激減した。読んだ時はやる気スイッチを押してもらえた感覚があっても、現実世界にそっくりそのまま落とし込めず、実用性がないことに気付いてしまったからである。

 20代に入る前にそれに気付けたのは幸いだが、それ以降は鵜呑みにしないどころか、どのような表現を使うと、チコちゃんに叱られるタイプの人間を感化させられるのか。の観点で流し読みするようになった。

 そうして批判的思考力、いわゆるクリティカルシンキングを養っては、営業マンが得意とする営業トークの腰を折っては、自分のペースに引き摺り込むようになり、その思想がどこか哲学的だと思いながらも、学問としてはこれまで触れずにいた。

パラノとスキゾ。

 そんな中で哲学を体系的に学ぶべく履修登録を済ませ、学費を払い込んだ後に通信教材が届き、読み進めるうちにパラノとスキゾの用語に出会った。

 パラノ人間はアイデンティティにこだわる人で、スキゾ人間はこだわらない人。前者が分かりやすい一貫性があるのに対して、後者は色々なことに興味を持ち転々とするため、実像が掴みづらいかも知れない。

 例えるならパラノ人間は、典型的な日系企業サラリーマン人生そのものである。良い大学を出て、良い企業に入り、良い家に住む。そうすることで、有名大学出身、大企業勤務、高級住宅地住まいの〇〇さん。と言ったステータスという名のアイデンティティが得られ、それが自分の価値であると錯覚する。

 ではスキゾ人間はどんな人か。代表的なのは「多動力」の著者であるホリエモンだろう。色んな意味で何かと話題に事欠かない人だが、自由奔放で直感的に興味を持った領域は、その道のノウハウがなくても取り敢えず試してみて、既存の枠組みに囚われていないから、時々革新的な何かを生み出す。

 日本は職人のような、この道何年的なパラノ人間を礼賛する一方で、職を転々とするタイプのスキゾ人間を卑下する傾向にあり、日本でGAFAのようなメガテックが育たないのは、そうした「逃げ」を恥とする風土もあるのだろう。

逃げるは恥だが役に立つ。

 現に浅田彰氏はスキゾ型を「逃げるヒト」と定義している。パラノ型を「住むヒト」と定義しているのだから、定住の対義語で移住に近い表現を持ってくるのが妥当だと思うが、日本人的な感性だと「逃げる」の方が特徴を説明するのに、的を得ていたのだろう。

 先月の記事で、私は「安定」を「根を張る行為のようなもの」「身動きが取れなくなる」と記したが、これはパラノ型を表しており、特徴のひとつである「環境変化に弱い」に当てはまる。

 言葉が違うだけで、思考のフレームワークは哲学と何ら変わらなかったのである。哲学はそうした我々が住む世界の状況を、正確に把握するための切り口として、小難しい概念を用語にしているだけの場合が多いことが、今回の学修の成果でもあった。

 因みに上記の言語化に至る概念も「シニフィアン」と「シニフィエ」の言い換えに過ぎない。

 過去の記事でも、↑は「疎外」、↓は「脱構築」を言い換えているに過ぎず、自身の浅はかさを思い知らされた。

 さて、見出しの伏線回収をすると、ガッキーが可愛い印象がどうしても先行してしまうが、真面目な話、変化の激しい現代社会では、環境変化が短いスパンで起きることが予想され、たとえパラノ型でも、どこかで「逃げる」必要に迫られる時が来る可能性が高い。

 そんな未来を考えると本当に「逃げる」が「恥」なのだろうか。パラノ型の思考だと逃げる=腰抜けと思いがちだが、本当に腰抜けなら現状維持以外に選択できないだろうから、逃げられないはずである。

 つまり、ある程度の「勇気」や「強かさ」を持ち合わせている人間が、スキゾ型の特徴である「逃げる」ことができ、それができない人間が、沈みゆく日系企業の泥舟に留まっているとも捉えられる。

 現に私は高卒で鉄道会社に就いたが、コロナ禍を境に「この業界に居たらマズい」と直感して、ストレス過多で身体が壊れる絶好の口実を得て、業界から撒いた。

 そして今、株で生計を立てつつ、大学で経営で役立つ分野を学んでいる。工業学科で溶接や電気工事、動力車操縦者の資格を持ち、労働集約型産業で単純作業を繰り返していた人間が、今や広義の商学を学び、簿記やFPの資格を取りつつ、マネーゲームという頭脳労働の極地に居座っている。そこに一貫性はない。

 出自の属性的にパラノ人間まみれの環境だったから、逃げる直前に横槍が凄かったものの、直感に従い高校時代から20代前半まで積み上げてきたアイデンティティを全部捨て、スキゾ型に転身した。

 それでもどうにかなっている現状を鑑みると、本当は定住や安定ではなく、自由や身軽さを求めるスキゾ型にも関わらず、典型的な日本のサラリーマンであるパラノ型で妥協している人は、過去の自分も含めて、誰かが敷いたレールからはみ出す「勇気」がないのだろう。

 そう考えると、「逃げる」は「恥」ではなく「勇気」そのものだ。

 私は運良く環境変化に直撃して、スキゾ型に転身する機会に恵まれたが、これを見て悶々と悩む方は、私のしょうもない記事や自己啓発書を読むよりも、哲学を学んでみたほうが人生の修羅場で役に立つはずである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?