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恵まれた環境と能力を、恵まれない人を貶めるために使う能力主義


やはりサンデル教授の指摘は正しかった

 先日、新入社員への訓示で「毎日毎日野菜を売ったり牛の世話をする仕事とは違って、県職員の皆さんは知性が高い」と職業差別を助長しかねない発言をした、某知事が辞意を表明した。(辞めるとは言っていない)

 高学歴エリートの方々は、ジェンダー平等や人種差別には敏感な一方で、貧困や低学歴、容姿(デブ)を差別して、見下す傾向にある能力主義の不都合な事実を、サンデル教授が指摘していたが、それが正しいことを裏付ける内容となった。

 なぜ頭の良い人たちが、貧困や低学歴、容姿(デブ)を見下すのかと言えば、能力主義の幻想を抱いており、努力すれば解決できるにも関わらず、それを放置しているのは怠惰な人だと考えるからだ。

 性別や人種は生まれ持った個性であり、当人の努力で変えられる性質のものではない。

 だが、デブで嫌な思いをしたのであれば、努力して痩せることで状況を変えられる。学歴や貧困も、機会は平等に与えられているにも関わらず、努力せずにその機会を活かさなかった人=怠惰と判断して見下す格好だろう。

 しかし、努力できる能力も遺伝子で決まることが、ミシガン州立大学とテキサス大学の合同研究「音楽の成果の遺伝学:遺伝子と環境の相関と相互作用の証拠」で明らかになっており、努力できるのも才能であり、誰もが持ち合わせている訳ではないのは紛れもない事実である。

 それでも、努力をすれば報われるような恵まれた環境で育つと、自然と良い大学、良い会社に行ける可能性が高いため、自ずと周囲は努力できる能力のある人が集まり、努力はできて当たり前だと錯覚する。

 高学歴エリートほど、自分たちが生まれながらに持ち合わせている恵まれた環境や、恵まれた能力が当たり前すぎて、自分が恵まれている自覚がなく社会に出ては、ヒエラルキーの割合高い位置に居続ける結果、自分の実力で人の上に立っていると錯覚しては傲慢になり、恵まれない人を自己責任論で差別するようになるのだろう。

 なまじ学があるが故に、自分は差別なんかしていないと思い込み、無意識的に差別しているとなると、余計にタチが悪い。

私は「努力」という言葉が嫌いだ

 私は高卒で社会に出て、手取り13万円の駅員として勤めていた。知性が高い県職員の皆さんと違って、毎日毎日切符を売ったり酔客の世話をする、典型的な労働集約型産業であり、社会インフラを一手に支える重責を担う割に初任給は安い。

 いわゆるエッセンシャルワーカー全般が似たような境遇で、淡々と働き続けることで、安くて質の高い日本の社会インフラが成立しており、誰もがその恩恵を受けて生活しているのは紛れもない事実だ。

 感謝されることはあっても、貶められる筋合いはない。それにも関わらず、同じ境遇をSNSで「日本終わってますよね?」と嘆いた栄養士が、日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよwwwと、努力して東京大学に入れるような恵まれた者から、自己責任論を押し付けられる体たらく。

 大学全入時代とはいえ、大学には奨学金という名の教育ローンを組んででも行くのが当たり前な風潮は、東京などの都市部に住む人のロジックであり、地方でザラにある身内親族に大卒が一人も居ない家庭に、そのロジックは通用しない。

 私も例に漏れずそんな家庭で育ち、学習塾とは無縁な環境下で、当たり前のように高卒で社会に出た。そして、都内某所に勤めて、東京ではそれが当たり前ではないことを、まざまざと感じたが時すでに遅し。

 学校の授業だけで、偏差値50を上回る程度の成績を取れていた辺り、多少なりとも努力ができる能力は持ち合わせているのだろう。社会に出てから通信制大学で最終学歴こそ底上げした。それを知る人から努力家とも評された。

 しかし、ただでさえ負荷の掛かるシフトワーカーの環境で、働きながら大卒資格を得るために、更なる負荷を掛けた結果、20代半ばで身体を壊して入院、手術。死亡確率40〜70%の病気を前に、生きるか死ぬかの状態で仕事どころではなくなりドロップアウト。労働者としては報われない結末を迎えた。

 世の中には、努力したところで報われない人も居る。遺伝子的に頑張ることが難しい人も居る。頑張りたくても環境が劣悪で、その意欲が挫かれてしまう人も居る。それでも、エリートの方々は本人の「努力不足」「自己責任」で片付けるのだろうか。

 私は「努力」という言葉が嫌いだ。実態としては階級社会と大差ない状況にも関わらず、努力すれば報われるという、公正世界仮説と、機会の平等があることで偽りの希望が生まれ、恵まれない人が恵まれた人と直接的に比較されることで、却って余計な苦しみを生んでいるからだ。

社会階級を再生産しているに過ぎない

 結局のところ、表向きは階級社会ではなくなっても、上流階級の家庭に生まれた子どもは社会の上流に居続け、下流は下流…と社会階級を再生産しているに過ぎない。

 現にお受験、学習塾、歯列矯正…子どもへの投資効果が高いと思しきオプションは山ほどあるが、それらは必要性を理解している、高いリテラシーを持ち合わせている両親のもとに生まれていなければ、選択肢すら浮上しない。

 東大生の親の6割以上が年収950万円以上というデータがあるように、往々にして、両親の最終学歴が高い家庭の方が、経済的に恵まれている確率は高い。

 駅員時代に、運賃計算ができることを活かして、旅行業務取扱管理者の資格を取ろうと考えたが、「法令・約款」と並行して「観光地理」を暗記するのが無理ゲーだと参考書を見て察して諦めた。

 衝撃的だったのは、育ちの良い若手の先輩から、地域毎の特産品や、催される伝統行事なんて知識は「常識」の範疇で、わざわざ参考書で覚えるような内容ではないと、一蹴されたことだ。

 恵まれた家庭だと、年に1回以上は家族旅行もするだろう。そこで子どもながらに実体験を元に、様々な知識が得られる。1度きりの家族旅行しか経験のない私からすれば、幼少期の経験の差が、努力では埋めがたい、圧倒的な教養の差に直結している、ガラスの天井の残酷さに戦慄するしかなかった。

 恵まれた環境と能力を持ち合わせている方で、少しでも同情の余地があったと思うなら、是非とも、その恵まれた環境と能力を、恵まれない人のために使い、この社会を良くしていただきたい。


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