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人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!いや……寄生獣か!


自然はシステム、どの生物も生きていることが大切

 タイトルは、YouTubeのフル☆アニメTVチャンネルで、放送10周年記念で無料配信されていた「寄生獣」の名言から取っている。

 いわゆるタイトル回収の中でも、作品史上稀に見る鮮やかさで、物語上、人間の脅威となる寄生生物を指して「寄生獣」のタイトルを冠した先入観が染み付いたであろう、物語の中盤で認識をひっくり返される。

 地球環境から見たら、実は人間こそが寄生獣であり、寄生生物は自然のシステムに組み込まれた存在だと提示することにより、哲学的なテーマ性を帯びるからこそ、この作品が色褪せることなく、根強く支持される所以だろう。

 これは愛と勇気だけが友達なアンパンと、俺はステキなばい菌の攻防戦が繰り広げられる、子ども向けアニメで見た構図に近い。人間のお腹を満たすアンパンは善で、食べ物を腐らせるばい菌は悪と言うのが一般的な認識だが、そのアンパンも菌がなければ発酵することができない矛盾を抱えている。

 つまり、人間にとって都合の良い菌の働きは「発酵」と呼ぶのに対して、都合の悪い菌の働きは「腐敗」と呼び、同じ菌でも、ばい菌呼ばわりされる。

 寄生獣の作中でも主人公は、「誰が決める?人間と…それ以外の生命の目方を誰が決めてくれるんだ?」と自問自答した末、人間のエゴを振り翳した。そうかと思えば、物語は寄生生物であるミギーの、心に余裕がある生物、なんと素晴らしい!で締めくくられる。

 つまり、人はその素晴らしき心の余裕を活かして、多種多様な生物と共存する道を模索すべきだと作品を通して伝えたかったのではないかと私は受け取る。だからこそ、自然と言うシステムの中で、どの生物も生きていることが大切だと考える。

心を亡くすと書いて「忙しい」

 しかし、我々が生きる現実社会はどうだろうか。特に都市部では顕著だが、余裕(ヒマ)=無駄と切り捨てては、自分一人生きるのに精一杯な、余裕のない社会となり、何事も咀嚼せず、短絡的に考えていないだろうか。

 寄生獣で、心に余裕がある生物を素晴らしいと礼賛した一方で、心に余裕のない状態、すなわち心を亡くすの漢字を合わせると「忙しい」と言う字になる。

 忙しくなることで、心の余裕を失い、善か悪か、右か左かと言った二項対立に縛られ、同じ人類の中ですら分断が生まれて、共存する道を模索することが絶望的となっている状況であることは、昨今の戦争を見ても明らかだろう。

 往々にして戦争の動機など、資源の奪い合いに収束する訳で、奪い合う対象がエネルギー資源などの分かりやすいものでなくなっているだけで、相手の資源の奪う行為という本質は恐らく今後も変わらない。

 そもそも、心理的に満たされている人間であれば、他人から奪おうと言った発想に至るようには思えず、やはり社会全体で余裕を排除したツケや、疫病などの環境変化により、これまで保たれていた均衡が崩れている側面は否めない。

 ちなみに元鉄道員の性で、かつて「余裕時分の全廃」を掲げて、スピード狂と化した青色のJRでは、23歳の新米運転士が、16秒ブレーキ操作が遅れた結果、単純転覆脱線して運転士を含む107名の死者を出すJR史上最悪の事故となったことは、決して風化させてはならないと考えており、事ある毎に記している。

 事故の背景として、一度遅延すると、運転士の技量で遅延を回復させるのは難儀するような、余裕のないダイヤを組んだことで、1分30秒の遅れを取り戻そうと無謀な運転に至ったこと。

 懲罰的な日勤教育から逃れたい一心で、ミスを隠蔽するための車掌との口裏合わせにより、注意が運転から逸れたことで、ブレーキ操作が遅れたと事故調査報告書で推察されていることからも、いかに心に余裕があることが大切かを思い知らされる。

人間が掲げる多様性に、生物多様性は含まれていない

 私が取るに足らないことをあれこれ考えられるのは、紛れもなく地方移住したことで、暇していることと、自然と共存せざるを得ない環境に身を置いているからだろう。

 ギリギリ少年時代とムシキング全盛期が重なっている世代であることから、虫の種類や生態に関する予備知識が無駄に豊富で、積極的に虫取りをしたり、触れたいとは思わないものの、少なくとも多くの現代人ほど虫嫌いではないことが、虫のパラダイスでもある自然豊かな地方で暮らせている節はある。

 因みに、虫屋で名高い養老孟司先生の言葉を借りると、虫好きにも苦手な虫は居るため、全ての虫を愛せる訳ではないことは、もっと世に広く知られるべきだと、虫が特段好きでも嫌いでもない、中立的な立場だからこそ記す。

 現に東京大学の研究で、現代人の虫嫌いは都市化が原因であると結論づけている。仮説の一つとして、都市化により人工的な緑地はあっても、自然が身近にないことで、人間にとって危害を及ぼす虫と、そうでない虫とを識別する能力が低下している、エラーマネジメント理論が挙げられている。

 成れの果てで、主に都市部では屋内で虫を見つけたら、取り敢えず殺虫剤を撒くことが習慣化しては、殺虫剤メーカーの売り上げが伸び続け、それにより資本主義が加速する。人間が掲げる多様性に、生物多様性は含まれていない意味でも、人間どもこそ地球を蝕む「寄生獣」は言い得て妙である。

 鉄道員時代、乗務員の休憩所にコガネムシが入り込んだのを見つけた同僚が絶叫していて、彼は叩き潰せそうな物体を探していたが、私は平然と着用していた白手袋越しの手のひらに乗せ、窓を開けて逃した。

 これは生命に対する優しさでも何でもなく、人間社会では自分自身が弱者側だと自覚しているからこそ、一寸の虫にも五分の魂だと思い、不用意な殺生をせずに共存できるなら、そちらを選んでいるだけの話ではある。

 生活圏のテリトリーに侵入して欲しくないなら、不用意に餌となる食べかすや汚れを撒き散らさず、定期的に掃除する。蚊取り線香や森林香を薫く。ミントの香りを充満させるなど、共存するために最大限出来ることはある筈で、それをせずに侵入したら殺虫剤は、同じ生物としてあまりに殺生ではないだろうか。

 文明批判、自然に還れではないが、人工的な都市部に居住している人ほど、自然の比重を高めていくことで、心に余裕のある素晴らしい生物になり、この世知辛い世の中が少しでも是正されるなら、私が筆を走らせた甲斐がある。


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