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何事も衝突を避ける風潮。

職場の上役なんて、ただのKKO。

 岡本太郎さんは自筆で、お互いが譲歩するような馴れ合いによる調和は卑しく、相手とフェアに意見を交わして、ぶつかり合うことでしか真の調和は生まれないと語っている。

 多くの会社員は上司の顔色を伺い、忖度して仕事をしているからガスが溜まり、自分では何も変えられない無力感を味わう度に、活気を失い、エンゲージメントが低下して、いつしか死んだ魚の目をして、ゾンビの如く満員電車に押し込まれながら出社するようになる。

 しかし、上役の何が偉いのだろうか。定年を迎え、役職という鎧を外された瞬間に、誰も相手をしなくなる、取るに足らないKKO(キモくて、金のない、おっさん)以上でも以下でもない程度の人間の顔色を、逐一窺う必要性が果たしてあるのだろうか。

 階級社会が根強いフランスには、「ノブレスオブリージュ」という言葉がある。日本語に訳すなら「高貴なる義務」。社会的地位や財力、権力など、権利を持つ者は、それらを持たざる者に対して奉仕する義務を負うことを意味する。

 権利の対義語が義務なのはこのためである。同じニュアンスのことわざでは「武士は食わねど高楊枝」が挙げられる。

 果たして職場のKKO共は、権利を持つものとして、持たざる我々に対して、職務遂行に対して必要以上の施しを行ってくれただろうか。そういった少数の方は既に周囲から尊敬されているはずである。

 しかし、大半は権利ばかりを行使し、義務を蔑ろにして威張り散らしている筈だ。その程度の小物とまともに取り合っても消耗するだけだから、顧客や利益のためにならないと判断すれば、従わずにぶつかり合った方が回り回って自分のためになると私は考える。

本当の調和ほど泥臭い。

 駅員時代、首都圏民鉄某駅の小さな駅で、会社の経費削減施作の一環として、3機しかない改札機の2つをICカード専用にして、切符が通せる改札は1台にすると提案があった。上層部は改札通過人員の統計データと磁気乗車券利用割合を乗じ、ピーク時間帯の改札機の処理性能を踏まえた上で、通常時は1台で十分捌けると判断し、上役はそれを伝言するだけだった。

 改札機は設定によって、入出口専用モードや、両用モードに切り替えることができる。しかし、切符が通せる改札機が1台となれば、必然的に両用にせざるを得ない。駅で両用改札を通ろうとしたら、対向の旅客が先に通り、自分が通せんぼ状態となった経験のある方も多いと思うが、切符で通ろうとする旅客は無条件にその状態となると言う提案内容である。

 一方、ICカードを利用する方はIC専用改札も、切符が通せる改札機の両方が通れるが、磁気乗車券利用者に気を遣い、IC専用改札を通ってくれる方は同業者だけで、ラッシュ時に一方方向で流れが形成されてしまうと、反対方向で切符を利用している方が改札を通れない事態に直面して、苦情を貰うのは容易に想像が付いた。

 そのため、会社提案を擬似的に再現した朝ラッシュ時に、上役に対してテメェの職務乗車証で出場してみやがれと、実演させたところ根を上げたところに、保守点検時にどうするつもりか。まさか改札の人員削減しておいて、マンパワーで切符利用者を捌けとは言わないだろうな?とダメ押ししたことで、会社提案は完遂されず、IC専用改札化は予定より少ない、3台あるうちの1台に留まった。

 下っ端の誰かが一時的にヒールの役目を買うことを避け、利用者目線での主張を貫かず、馴れ合いで調和していたら、磁気乗車券利用者、従業員双方のためにならない合理化提案が実行されるところだったが、ぶつかり合ったことでそれらを防いだのである。

 こんなことで随分痛い目にも遭って来たが、上役の面子や社内政治よりも、従業員、顧客、株主という立場が相反する三者が調和することの方が、企業が存続するために重要だと判断していたため、懲りずに、ことある毎に引っ掻き回した。

雄弁は銀、沈黙は金なら銀で結構。

 そんな上役という上役から尽く嫌われていた私だが、労働組合だけは買ってくれた。最近の若者はおとなしいと評される中、上層部の理にかなっていない指示に対して、決して首を縦に振らず、理詰めで抗う姿が珍しかったのだと思う。

 確かに最近話題の「静かな退職」という言葉からも分かるように、若い世代ほど直接的な衝突を避ける傾向にある。それは、奨学金という名の借金を背負い大学を出て、就職難の中で就いた会社を、自分から衝突しに行く自殺行為で万が一職を失うものなら、レールから外れ、その後はマトモな職に就けず、借金地獄が待っていることを恐れているためだ。

 そんなお金のために我慢を強いられている現代人の、決して社会では表出できない不満の数々を、Adoさんが歌う「うっせぇわ」で高らかに表出させたことが若い世代の心を掴み、一大ムーブメントに発展したのではないだろうか。

 しかし、私は誰よりも普遍性を嫌う性格から、良い成績を取って、良い大学を出て、良い企業に就職するつもりなど、微塵にもなかった。

 社会に出て何の役に立つかも定かではない義務教育には興味を示さなかったし、何かを研究する志もなく、周囲に流されるがまま奨学金を借りて、大学に進学することにも疑問を感じ、高卒で就職したからレールの上の人生を歩むエリートとは違い、大して失うものなどなかった。

 高校時代のバイト代の蓄え。実家暮らし。電気工事士の資格。鉄道会社でやってられないと思えば、いつでも辞めて、路頭に迷う心配をすることもなく、違う道を歩めるだけの逃げ道は高校時代に備えておいたから、自分の信念を捻じ曲げてまで、直接的な衝突を避ける必要がなかった。

 型に嵌めることしか考えていない大人どもから、今まで必死で抵抗して守ってきた自分の感性を汚されて、死んだ魚の目をしたサラリーマンに成り下がることと比べれば、社会資本、金融資本を失う損失など遥かに小さかった。

 イギリスのことわざで、「雄弁は銀、沈黙は金。」が広く知られている。確かに、口は災いの元でもある。

 しかし、現代の若者の如く、没落するこの社会で、腐敗している官民の組織に対して、身の保身を兼ねて沈黙を貫くことは、果たして金なのだろうか。泥舟に加担しているだけのように思えてしまう。

 最近の若者は保守的でけしからんと評する年配者の多くは、きっと退職金や査定など顧みず、定年する前までに変革を起こそうとしている革命家なのだろう。そんな立派な方々が社内の実権を握っているにも関わらず、日本社会が一向に上向かないのだから不思議である。

 金賞はそんな方々に喜んで譲る。私は銀賞で結構だが、その代わりにこれからもタブーとされていることを通り魔的に雄弁する。


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