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0から始める研究生活 前編 #新生活に向けて

noteを見ていただいて、ありがとうございます。注意欠如多動性障害(ADHD)・精神障害者手帳2級で博士(生命科学)のred_dash です。

 緊急事態宣言が出て1週間と少しが経ちます。徐々に生活や仕事に加わる制限が厳しくなってきているかと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。

 今回と次回の2回に分けて、私にADHDとしての診断が下るまでの経緯をまとめます。ADHDやその関係者の方はモデルケースの一つとして、参考にしてください。私はこの記事をもって過去を振り返ることで、過去を受け入れて総括し、新生活に向けて前向きになりたいと考えています。

 この春、red_dash は無職になりました。大学院を卒業して生命科学博士の学位を取得、プロの研究者の資格を得て数年働いた後、失職。所得0になりました。それでも研究を手放したくないから、0から始める研究生活です。

 知り合いの先生の伝手を辿って、今も大学に籍を置いています。給与はなくても、コロナで研究室へ行ける日付が制限されても、研究を続けられるだけ私は恵まれています。(注1)

 学生時代の私は、病弱ながら、それなりに優秀だったと思います。いわゆる旧帝大の一つに属していました。大学の所属研究室では、私が(当時は原因不明で)心身の調子を崩して研究室へ行けない日があっても、大学に来る時間が遅くなっても、何も言わずに淡々と指導してくれました。

 結果として、私は学部・大学院共に成績上位者の表彰に入りました。学内外で複数の賞を受賞して、全国で1学年16人しか選ばれない国の表彰事業も最終面接まで残りました。(残念ながら、最後の最後で落選してしまいましたが。)

 博士号を取って結婚した後の数年間、新しい大学で博士研究員(注2)として働いた際の私は、はっきり言って無能でした。上司の准教授が出す指示の意図も目標も私にはわからない。私が質問しても、上司から明確な答えが返ってこない。意図と目標がわからない状態ではモチベーションも上がりませんし、指示された作業は他の人の1/4の速度でしか進められませんでした。

 つまらない。意味がわからない。やる気にもならないが、このままではマズイこともよくわかる。詰んでいました。

 今ならば、わかります。出身大学の教授がいかに理解ある人であったか。そんな環境がいかに貴重か。何も言わずに見守ってくれたおかげで、私がどれだけ楽に過ごせて、自分の力を発揮できたか。

 次回は、私がこの詰んだ状況でADHDとして診断を受けるに至るまで、そしてADHDを受け入れて生活を建て直しつつある現在に至るまでの状況をご紹介します。

 発達障害は、治ることはありません。それでも発達障害に関する知識を集めて、みなさんと共有することで、少しでも当事者と周囲の人の関係と暮らしを維持・改善していきたいと思っています。コロナ下でも情報収集は可能ですので、一緒に頑張りましょう。

 それでは、よい1日をお過ごしください。

※とはいうものの、生活費に苦労しているのが現実です。もしサポートを頂ければ、これほどありがたいことはありません。

※リンク切れ、事実と異なる記載など、お気づきの点を発見された際はどうぞコメントからご連絡ください。

(注1)生活のためのお金すら得ることができないにもかかわらず、研究という何時実を結ぶともわからない営みを続けている...それでも研究者の内実を見れば恵まれているのです。
 馴染みの信頼できる先生がいることは貴重です。大学の研究室は所属人数が限られるため、閉鎖的になりがちです。結果的にセクハラ・パワハラ・モラハラは見逃される傾向が強くなり、ハラスメントが原因で才能を発揮できずに大学・研究機関を去る人は一定数います。被害を受けた側が、次の研究場所すら得られない場合すらあります。
 学生時代、賃金・労働環境が十分でないにも関わらず「恵まれている」と言う先輩研究者を見て「おかしいんじゃないの?」と当時の私は感じていました。今の私は、私が間違っていて先輩は正しかった、だが将来必要な研究を営む人間に生活に必要なお金すら降りてこない世の中はおかしいのではないか、と思ってます。

(注2)博士研究員とは、ポスドクとも呼ばれます。契約社員の研究者とお考え下さい。博士研究員の間は原則として1年更新の契約となり、社会保険の対象外であることも珍しくありません。博士研究員として働くことは、現在の大学研究者にとっては避けて通ることのできないキャリアパスとなっています。



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