昨夕も、明治学院大学まで。 巖谷 國士 先生の講演する『ヨーロッパの庭園 その歴史と文化について — スペイン・イタリア・フランスを中心に』の受講で。 昨夜は第 3 回、最終回、『フランス』であった。 昨夜も、巖谷 先生の講義は疾走していた。 理路整然とした即興、と形容するのがふさわしい。 では小生は、となると、数々映写される写真を見ながら、どうにも要領を得ない。そこで、きょうは「まとめなおす」よりも「ノートに取った紙面」をそのまま貼り付けることで、その、
昨夕もまた、明治学院大学まで。 巖谷 國士 先生の講演する『プラチナ・カレッジ』を受講するために——『ヨーロッパの庭園 その歴史と文化について — スペイン・イタリア・フランスを中心に』——。 昨日は『イタリア』についての第 2 回。 今回もできるだけメモを取ってみたのだが、正直こころもとない。 嘻、学生時代、あれだけ憧れたグロッタやらなにやらを綺麗な写真で視ることができる、と歓喜してしまって、メモやスケッチがおろそかになってしまった。そのかわり、熱心に拝見し
昨夕は、明治学院大学まで初めて出かけた。 巖谷 國士 先生の講演する『プラチナ・カレッジ』を受講するために——。 タイトルは『ヨーロッパの庭園 その歴史と文化について — スペイン・イタリア・フランスを中心に』。 古代ペルシャに端を発する『庭園(garden, jardin, etc.)』を通覧する、その第 1 回に。 昨夜は初回で『古代ペルシャからの歴史を踏まえスペインまで』であった。 巖谷 先生の講演を拝聴していて真っ先に感じたのが、『自然物(nat
いま流行りの AI 技術の基礎を学習している(CS50 AI コース@HarvardX)。 『Q 学習( https://ja.wikipedia.org/wiki/Q学習 )』と呼ばれる仕組みをつかって、”Nim” という石取りゲームの類を解いている(英文 wiki ではマッチ棒の取り合いになっている)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nim この Nim は “misere (= misery)” なゲームだそうだ。 成程、10000
「地図」を譬え話にちょっと。 「地図」における「地」と「図」はカップリングされていて、分離不可能である。それは「地の一部」を書き直そうとしても、「図の一部」を書き直そうとしても、両方を書き直さなければ整合性が取れないことから明らかだ。 このような『構造的カップリング』をされたものは「地図」にかぎらず、この世の事物凡てに適応される。 たとえば「あなた」と「環境」。 あるいは「あなた」と「わたし」。 プログラミングのときにこの問題は顕著になる。 「データ」と「アルゴリ
坐禅とか瞑想なんてものは「こころの便秘」を解消させるための方便だと思うようになった。お通じがよくなったからって、宿便そのものはなくならない。通常、数日は体内に滞留して、消化・吸収・排泄される。 たかが「お通じがよくなった」からって、大宇宙と直結したとか、神仏に通じるようになった、って、それは御冗談でしょう? 試しに目の前のディスプレイに触れて、黄金にでも変えて見せてください——傲慢で強欲だったミダス王の受けた呪いのように——。 できないわけですよ、宇宙の摂理に反し
人間とは業病として「物事を分ける」能力を持ってしまっている。 分けるから比べられる。 比べられるから差が出る 差が出るから違いが分かる。 これが『理を解る』根底に横たわっている。 残念ながら不可避なことだ。 だが「分けてばかり」でいて好いのだろうか? もともとの《世界》は分かれていない。 別れていない方に『本質』が隠れている。 だからといって、それを『分かる』ためには、やはり『分ける』必要があるのだ。 徒労と知りつつ。
物事って裏腹だよね。 先日『失敗は成功の母』と書いて、失敗することも必要な過程と称揚したけれど、実際は失敗を懸念して躊躇したことで、身が守られることもある訳で。そして複雑なのは、躊躇したからこそ失敗することもある訳で。 物事万般に通じる「万能のセオリー」などない。 物事って裏腹だよね。
(注:この記事は過去の記事の再投稿です。) 今日和~~~♬ 「『車輪の再発明』はするべきではない」ということがよく云われる昨今です。 でも、それは本当でしょうか? いや、『車輪』を、そのオリジナルとまったく同じように作り直すのはムダかも知れません。でも、同じ『車輪』をよく吟味して、別の技術で作り直すのはどうでしょうか? 「作りなおし」の過程で、あらたな問題を発見したり、抜本的な改善を思いついたり、あるいは、まったく別の発明に繋がるかも知れません。 私自身も「相関関数」と
手元にある『スーパー大辞林』によると 失敗は成功のもと—— 失敗すれば,方法の誤りなど失敗の原因もわかるので成功へ一歩近づくことになる。失敗は成功の母。 とのこと。 つまり、成功したければ失敗を厭わないことだ。 失敗を怖れるから、防衛しなくてはならなくなる。 防衛するから、失敗から学べない。 かたくなにもなる。 さらに失敗をくり返す。 成功したければ失敗を厭わないことだ。
わたしは張り子の虎だ。 たくさんの紙片を張り合わせて作られた張り子の虎だ。 紙片にはそれぞれレッテルが書いてある。みずからに向けたレッテルが。 そして、中身はがらんどうだ。 人間とは本質的に張り子の虎だ。 どんなに悩み苦しんだところで自縄自縛、いや、無縄自縛である。 本来は完全なる自由である。 なのに、わざわざ踏み誤って、自らを束縛している。 自分を束縛しているレッテルなんて、脳味噌に刻まれた条件付けのかたまりに過ぎないのに。 そんなもの、たんなる現象であって、実存ではない。
(これは認識論めいた考え方なのだろうか?) いま、目の前のディスプレイを見ながらキーボードを叩いて文章を打っている。 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が統合されて、ディスプレイ上を汚していく字を眺めている。 わたしはこころを通じて、この《世界》を、この《宇宙》を感得している。 だが、その《世界》の、その《宇宙》の、客観的実在を保証するものは、残念ながら——驚くべきことにも——なにもない。 ただ目の前のディスプレイが、《世界》が、実在するように感じられたり、そのように見える観測デ
ようやく『シン・エヴァ』を観た。 見終えた。 本放送から四半世紀にして。 お定まりの結末だったかも知れない。 ようやく『還ってくるべき』ところへ還り、そして、そこからまた歩き出すのかも知れない。 それは『指輪物語』や『あらし』(シェイクスピアの)と同様に、【力の抛棄(ほうき)】をテーマにした作品だと感じた。 なにかの喪失をきっかけに、復讐心をたぎらせ、ところがその無益さに気づき、赦し、解放されていく——病と治癒の物語に見えた。『怒りの言動』という原動力にもとづいた淋しさと