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ALONE

(これは認識論めいた考え方なのだろうか?)

いま、目の前のディスプレイを見ながらキーボードを叩いて文章を打っている。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が統合されて、ディスプレイ上を汚していく字を眺めている。
わたしはこころを通じて、この《世界》を、この《宇宙》を感得している。
だが、その《世界》の、その《宇宙》の、客観的実在を保証するものは、残念ながら——驚くべきことにも——なにもない。
ただ目の前のディスプレイが、《世界》が、実在するように感じられたり、そのように見える観測データが積み重なっていくだけである。

ふしぎなものだ、こころというのは。
『眼が、いま見ている眼そのものを見ることができない』ように、こころも、いま動いているこころそのものを見ることはできない。
ただ、五感を通じて見聞きすることはできる。
そのように感じられる。
実は、完全に客観的な観測事実はない。これまでと整合する観測事実は山ほど積まれていくが、反証が出てきてもおかしくないし、変化が起きてもおかしくはない。

いま、目の前のディスプレイを見ながらキーボードを叩いて文章を打っている。
こころは観察できない。
観察できるものは客体である。
みずからの「こころの動き」と思い込んでいる対象は、あくまでもこころ本体とは別の《イメージ》である——関連はあるかも知れない——。

観察することすらできないもの——それが本体である——こころである。
そんな本体は《大宇宙》全体——この世にひとつしかないもの——かも知れない。
天上天下唯我独尊。
生まれた途端に天を指さした赤子……なんて尾鰭羽鰭(おひれはひれ)のついた一個人のことではなく、この宇宙には、この宇宙そのものしか存在しない。
聞くところによれば、”Alone” とは “All One” のことだそうだ。
ひとつですべて、すべてでひとつ。

いま、目の前のディスプレイを見ながらキーボードを叩いて文章を打っている。
わたしは【宇宙】だ。
いま、見聞きしていることが【すべて】に通ずる。



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