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楽園への道

 昨夕は、明治学院大学まで初めて出かけた。

 巖谷 國士 先生の講演する『プラチナ・カレッジ』を受講するために——。

 タイトルは『ヨーロッパの庭園 その歴史と文化について — スペイン・イタリア・フランスを中心に』。

 古代ペルシャに端を発する『庭園(garden, jardin, etc.)』を通覧する、その第 1 回に。

 昨夜は初回で『古代ペルシャからの歴史を踏まえスペインまで』であった。


 巖谷 先生の講演を拝聴していて真っ先に感じたのが、『自然物(naturalia)と人工物(artifacta)の融合の象徴』としての《庭園》。

 大昔、大学の授業で “A Green History of the World” という Clive Ponting のペーパー・バックを読んだ覚えがある。邦訳は『緑の世界史(上・下)』。自然環境の視点から、その破壊者である人類による(自然環境の)改変・蹂躙・殺戮の歴史を描いた良書である。同書にいわく、人類がいまのように地球上に拡がる前、この星の大地は緑に包まれていた、という。ところが《火》の使用と文明の発生とともに、人類は急激にその人口と生存圏を拡大し、《森》を駆逐していった。その、なれの果てが現代にも見られる「砂漠」である、と。そんな要旨の本であったかに記憶する。


 つまり、人類の文明とその繁栄にとって、《自然》からの簒奪とはまさに骨絡みなのだ。


 昨日の講演では、話の端緒をイスラム世界——ひいてはその先駆である——古代ペルシャに置いていた。そして、イスラム世界による征服と、そこからの 700 年におよぶ失地回復(レコンキスタ)の地として、「スペイン」が語られた。つまり、オリエント世界とヨーロッパ世界の衝突点・結節点としての「スペイン」である。持論になるが『洋の東西は古代から、情報の相互編集を通じて繋がってきた』と思っている。その、因果の連鎖、情報の交易、文明の融合する場(トポス)としてのスペインを中心に、縦横無尽な即興で、自動筆記ならぬ自動口述のライヴが展開されたのが、昨夜であった。これは、事前に計画された《システム》ではなしえない、実体験に根ざした思惟と言葉の《奔流》であった。


 概略を示すならば、《庭園》とは《楽園》なのであった。

 つまり、『エデンの園』に表徴されるような、原初の《理想郷》なのであった。

 文明という、楽園からのさかしらな逃走を、どうにかして克服したい、という願望の表出・象徴として《庭園》は『造られる』のであった。


 たとえば「パティオ(アラビア語起源だそうだ)」がその象徴としてふさわしい形式を持ち合わせている。

 四囲を建築物に囲まれ、その中庭として長方形の区画という空隙が出現する。その中央には《泉》つまり噴水が設置され、清流が滾々と湧く。その泉からは《四方》つまり東西南北へと水路がはしり水が伝播する。

 さらには果樹が多く鉢植えされ、レモンやザクロ、ジャスミンなどが花を咲かせ実をつける。

 この整理整頓、《整序された自然》としてのパティオが、まさに《庭園》の表象である。

 ここに多重に織りかさなったシンボルの群れを見よ。


 おそらく泉とは生命の本源、愛の根源としての《水》の表象である。ウェイト版タロット・カードの『杯の 2』が即座に喚び起こされる。いわゆる『真実の愛』のカード。そこには真実の愛を誓う恋人たちと、そのあいだに顕れる天使の両翼を持ったライオン、さらにはケーリュケイオンの杖——ヘルメス・トリスメギストス!!——が見られる。そして、その風景には手前の「平地」と奥の「丘陵」が対置される。このきわめて象徴的な累重に、水にまつわる物語を感得しない者が居るだろうか? そもそも人間は水なくして生きることはできない。だからこそ古代から、治水や水道は大きな問題であり、文明の生命線であった。それは繁栄と豊穣の源泉でもあったのである。


 そもそも《楽園 Paradise》とはゾロアスター教に淵源を求められるそうだ。ペルシャ語に「パルディス」と謂うとか。ヒトは知恵の実を食したとの喩えに見られるような「さかしらさ」によって、神に、あるいは自ら《楽園》という森の世界を逐われ、平地を開拓し、そこに都市文明を造りあげた。つまり自然の《外》へと出て来ざるを得なかった。その人工の産物としての都市生活者が、自らの居住まいする人工の空間の内部に《自然》を誘致しなければならなかった憧憬。もう、合わせ鏡か劇中劇かというぐらいにメタな意味空間が入れ子になっている。それもこれも《言葉》という疎外ゆえか。その生から死、そして楽園——《土》——への回帰としての表現を庭園は持っているそうだ。まさに人工の、意味が累重する《箱庭》である。パティオはそのように(来世に於いてではなく)現世に於いて『活ける楽園』を作り出そうという願望のなしえた術である。

 《世界》の中心に泉が配置され、その生命のゆるやかで静かなる流れが四方へと伝わっていく、これほど人類の根源的願望にふさわしい表現がほかにあるだろうか。

 巖谷 先生は世界各地の庭園を訪れたそうで、講演では多数の写真を拝見することができた。一番印象に残っているのは『アルハンブラ宮殿』の遠景である。高原地帯の、丘の上に位置する『赤い城(アル・ハンブラ)』を向こうに、手前に咲くコスモスの花々。ここにも意味が累重している。まず、花のコスモスはメキシコ原産だそうだ。つまり、これこそ大航海時代/植民地経略のシンボルとして、ヨーロッパ大陸に輸入されたものだ。そして cosmos とは当然、宇宙の謂であり、さらにはミクロコスモスとマクロコスモスの照応を、その秩序を連想させる。

 その『アルハンブラ宮(のナスル宮)』には「アラヤネスのパティオ」があるそうだ。陽射し強い南欧の風土で、木陰はまさに多義的オアシスを構成するのだろう。その「シンメトリーに区画された水と緑のオアシス」が古代からの人類文明の精華でなくしてなんであろうか。まさに「自然」と「人工」の共存・共生としての《庭園》。それは文明が必然的に量産してきた「廃墟」——失われた世界——を「楽園」に蘇生させんとする欲望である。その《ひとつの世界》を統合する原理こそが《水》という生命力である。

 なんでも、これはアトリビュートとしての寓意なのだろうか、アルハンブラ宮には「糸杉」が多数植えられているそうだ。針葉樹、つまり常緑樹。死、そして永遠の生の表象として。

 あまりにも光熱の講演第 1 回だった。

 きょうは高熱にうなされそうなほどに。

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