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変容する庭——通底する文化相——

 昨夕もまた、明治学院大学まで。

 巖谷 國士 先生の講演する『プラチナ・カレッジ』を受講するために——『ヨーロッパの庭園 その歴史と文化について — スペイン・イタリア・フランスを中心に』——。

 昨日は『イタリア』についての第 2 回。

 今回もできるだけメモを取ってみたのだが、正直こころもとない。
 嘻、学生時代、あれだけ憧れたグロッタやらなにやらを綺麗な写真で視ることができる、と歓喜してしまって、メモやスケッチがおろそかになってしまった。そのかわり、熱心に拝見した。
 残業の都合で 5 分ほど遅刻してしまった。だが冒頭に耳に入ったのが曰く、『イタリアでは古代の昔から、たとえばローマ帝国や東ゴート王国、フランク王国など政治権力が交代してきたが、そこに通底する文化相としての統一感こそが「ひとつのイタリア」を形作っている』といった旨であった。
 ちょっと雑駁な感想に基づく連想になってしまうのは承知だが、あえてまた、私的な記録としてまとめてみたい。今回は「受講記」というより、ただの問わず語りになりそうだ。

 さて。
 特に首肯したのは、次の一点。

 『政治権力が強い時代には古典主義が幅を利かせる。
  いっぽう、人間の本性あるいは自然が重要視される時代にはマニエリスム/バロックが前景化する。』

 均整のとれたシンメトリー(対称的)か。
 あるいは躍動する超克としてのアシンメトリー(非対称的)か。
 そこに人間のエゴのおのずと孕む『コントロールへの欲望』と、それへの『反抗』が直截に顕れている気がする。
 いまを去ること三十年前、高山 宏を筆頭とする書物に耽溺していた大学生は、マニエラの徒と自認し、なおかつバロック的な視覚芸術の贅にあこがれていた。螺旋、蛇状人体(フィグーラ・セルペンティナータ)、迷路・迷宮、……それらは自らの内面の表象として、私が生まれる遥か前から存在していた。

 また科学史・科学哲学にも熱中していたので、ルネサンスからマニエリスム、そしてバロックという時代相で起こった宗教改革、さらに反宗教改革にはどうしても骨絡みで無我夢中であった。バカらしい話かも知れないが、みずからの生育歴をふりかえると、それこそ素朴なアニミズムの世界から、まるで人類の思想史・観念史を自動再生して追いかけるように、パースペクティヴが変容してきたかに思われるのであった。

 そもそも私が《視覚表現》に耽溺するようになったきっかけは、浪人時代の、それも受験シーズンに通うのを止められなかった映画『プロスペローの本』のおかげである。そう、あの、Peter Greenaway の監督した、沙翁の『あらし』の《忠実なる翻案》。あの映画の、様々な絵画作品から引用される構図、舞台、事物が《バロック》と謂う、きわめつきの絢爛豪華な文化相であることを、ようやく視覚的に知ったのだ。それまでの単なる「教科書に載っていた」用語としてではなく——。そんな映画にノック・アウトされた自分は、SF 作家をめざして理転までしたはずなのに一念発起、映画監督に志望を転じた。絵作りの素人でもやれることから、と 3 次元コンピューター・グラフィックスに本格的な着手をした(これは本当に大きすぎる誤解であった)。いちおう大学卒業後、プロの現場に足を踏み入れるも、不条理な出来事に見舞われ、わたしは夢をあきらめざるを得なかった。だから当時をふりかえっても、大きな業績というものはいくつかしかない。

 話が逸れすぎた。
 ただ云いたかったのは、わたしにとってあまりにもマニエリスムそしてバロックを代表する《イタリア》とはあこがれの文化の地なのだ。その、あこがれの地の《庭園》について、美麗な写真とともに巖谷 先生のお話を伺えたのは、まさに望外の悦びであった。
 ルネサンス(Re-naissance:再生・復活)時代のことについては、あまり語る気がしない。いや、『自然遠近法』という《合法の制作術:costruzione legittima》がわざわざ「発明」された経緯としてフィリッポ・ブルネレスキなどに触れるべきなのは分かっているが、あえて割愛する。ほんとうは山本 義隆 翁の本からの引用でブリコラージュをやってのけたいところだが。ただ義隆 翁の『十六世紀文化革命』の第一章は『芸術家にはじまる』と題されており、「アーティザン」レオン・バッティスタ・アルベルティというマニエラの人から始まることだけを特記しておく。

 ここで取り扱いたいのはマニエリスムとバロックだ。
 Wiki を引用する、という恥を犯す。
 《マニエリスム》とはヴァザーリ曰く『自然を凌駕する行動の芸術的手法』だそうである。
 いっぽう、《バロック》とは『秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試み』と要約されるそうだ。むべなるかな。

 本日特に心に残った話題は《地形》であった。コジモ・デ・メディチのような有力者によって建てられたイタリア式の別邸 “ヴィッラ” の数々は、フィレンツェという盆地、そして、それを取り囲む丘陵地帯というような「地形的特性」をベースに存在していたことを知った。だから、イタリア式の庭園には、滝があり、階段が這いまわり、人工洞窟(グロッタ)もあり、トピアリー(幾何学様な整形をするように剪定された木々)もある。この、起伏に富んだ地形ゆえに、そこに適応した庭園がイタリアにはある、という知見は、実際に彼の地を訪れた経験に乏しい自分には、まさに驚きだった。たしかにローマ郊外に宿泊した際、地下鉄の駅に行くまで丘の上を多少歩いたのを覚えている。意外と、日本と似た地形の国なのかも知れない。

 もうひとつはルネサンスからマニエリスム/バロックへの、《価値観の顚倒》である。それまで、統治権力にとって好ましい、均整のとれた美の《古典主義》であったそれが、誇張や幻想を尊ぶマニエリスム、さらには歪みや捻れさえ言祝ぐバロックへと変容していくのは、まさに必然であり、なおかつ《驚き》でもあった。昨日の話で関連づけると、14 世紀には菜園、果樹園、薬草園といった『実用』を旨とした庭園が、16 世紀にはゲーム、恋愛、瞑想、対話といった『遊び』の要素をプラス・アルファーした悦楽の場へと移り変わっていた、という知見は重要だ。それまでの画一的・斉一的様相から、『宗教改革』に反抗する『反宗教改革』の時代相のもと、多元化・多様化し、その社会不安に堪えんがためにマニエリスムそしてバロックという文化相が現れて、カトリック(ローマ教皇庁)とともに《視覚芸術》を育んでいく。これもまた時代的必然であろう。
 ここでどうしても若い頃に訪れた Basilica di San Pietro の大伽藍が想い起こされる。

 なんだか、とりとめのない話になってしまった。
 ただ、昨日スライドで拝見した巖谷 先生の庭園写真の数々は、前回のスペインにもまして、そのうつくしさに感銘を受けた。できるだけスケッチにメモしたので、それをすこし描き直したものを三点、備忘録として掲載して終わる。

 実は先だって、三十一年間我慢してきたネタで短編映像をつくろうとスタートしたばかりだ。
 いまは、ぼちぼちと絵コンテを切っている。
 今回の《仮想庭園旅行》はかならず、その短編に活かされる、と信じている。
 かなり雑駁な備忘録になってしまったが、ご寛恕いただきたい。

Isola Bella


Clara


San Michele


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