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noteを書くことについて考えてみる

こんばんは。"大伴旅人"です。

先日、東大生の幼馴染(以下A君)とOUTPUTについて議論になったのでそのことについて振り返ってみたいと思います。

私自身はevernoteやwordを使って気が向いたときに日記をつけていますが、結構不定期に残しています。継続というよりは思いつきに近いです。

ただA君は自分の考えたことを言語化したいという想いから、記録を取っているのでその量は膨大且つ1日に数ページということもあるそうです。

同じ記録方法ですが、思考を言語化したものを記録しておきたいという熱量が私とは明らかに違い驚きました。
そんな中、A君と話題に上がったのがOUTPUTの意義についてでした。

”私たちは何のためにOUTPUTをするのだろうか”

お互いに備忘録として書いていることに変わりはないのですが
私は一時的な感情の発散として文章を書くことが多いのに比べ、
A君の場合は過去の自分が何を考えていたのかを残しておきたいという情熱から文章を書いております。
特に違った部分で申し上げますと、一度書いた文を何回読み直すか(書いた直後ではなく、暫く経った後に)ということでした。
私は多くても1~2回程度で、物によっては一度も読み返さない文章もあります。
ただ、A君の場合は自分の書いた文章を何度も繰り返しベタ読みするそうです。

私の読み返さない性分もいかがなものかと思いますが、A君のように自分の文章を何度も読み返す方も稀かと思います。
ただ、A君は私が知る中でも1番と言ってよいほど文章の上手い方なので、その文章には一種の芸術性があると考えています。

芸術家が自分の描いた作品を鑑賞するのかしないのか
音楽家が自分の弾いた演奏を聴き直すのか
人にもよるかと思いますが、何度も読み返し深めていく彼の文章は今後も進化を繰り返し真価を発揮することでしょう。

彼が作家になった際には、私は一番最初に作品を読ませていただきたいものです。

さて、そんなA君ですが、日々のOUTPUTは誰にも見せる為でないと申しております。ただ、文章のできだけは気にするので、質の高い内省文がどんどんと溜まっていくわけです。いわゆる”良質的自己完結OUTPUT”ということになるでしょう。
ただ、私の場合は誰かの目が入っていた方がOUTPUTしたくなるという性分の為、noteという媒体を使っております。目立ちたがり屋であったり、誰かになにかを伝えたいという衝動のようなものがあるのでしょう。断っておきますが、文章力と思考力は高くありません。たとえるなら”品質度外視大安売りOUTPUT”のようなものでしょうか。あまり良いたとえではありませんが、大安売りのどこかで誰かの手に取ってもらえる言葉があれば幸いです。

ただ、まとめて共通することはOUTPUTというものは他者のためにしているようで、実は自分のためにしているということです。「勉強は教わる方より教える方が身につく」のようなものです。あくまで自分のためにOUTPUTするのです。その点、自分のためのOUTPUTなのに芸術性を求める奇人のようなA君こそ作家にふさわしいのではないかと思う次第なのです。

"大伴旅人"

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