始まりと途中と終わりのあるものを、始まりと途中と終わりのないものとして読む(散文について・05)
違う連載の記事ですが、「「どこでもない空間、いつでもない時間」(「物に立たれて」を読む・08)」の続きとして書きます。
「壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)」の続編でもあります。
*はじめに
みなさんは、ある種の短詩、たとえば俳句をどのように鑑賞なさっているでしょうか?
俳句であれば、五七五です。短いです。短いからこそ、できることがあるように思います。それが何かは人それぞれでしょう。
私にとって、五七五は何度も何度も読めるし、いつまでも眺めていることができる、言葉から成る、文字から成る作品です。それ以上でもそれ以下でもありません。
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私は俳句はつくれませんが、五七五を note の記事の中で挿入することがあります。書いていることに関連しての句なのですが、つくるのにかなり時間と労力を要します。
始めの五と終わりの五を入れ替えたり、また戻したり。一文字をめぐって迷いに迷ったり。音読すれば同じ言葉の表記に悩んだり。いらいらもしますが、それにもましてわくわくします。
始まりと途中と終わりがありながら、始まりと途中と終わりがないものとして、目の前にあるのです。常に更新される可能性をはらんだ「始まりと途中と終わり」と言えばいいのか。
ああでもないこうでもない、ああだこうだ――。
要するに、視覚的効果を考えているのです。私にとって五七五は小さな視覚芸術だと言えます。
たとえば、こんな感じです。
「目と目」にするか「めとめ」にするかで迷ったり、普段は一字空けないところで空けてみたり、例外的に句のなかで太文字をつかったりしましたが、これは極端な例です。私のつくる五七五は、俳句ではやっていけないことだらけなのでしょうね。
投稿後に何度も直すことも珍しくありません。だいぶ前につくったものを今読みかえして、手を加えたくなる衝動ともたたかっています。切りがないのです。
語弊のある言い方になりますが、五七五という制約はあっても散文なのです。定型はない。伝統の中にもない。何をどんなふうに書いてもいい、という意味での散文です(⇒「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」)。私にとってはそうです。
以上の例で、始まりと途中と終わりがありながら、始まりと途中と終わりはないを体感していただけたでしょうか?
始まりの一文字があり終わりの一文字がありますが、それらは始まりでもなく終わりでもないのです。残りの十五文字も同じです。それぞれの文字が動きと移ろいをはらんでいます。
今述べたことは言葉としては矛盾していますが、私は自分の中にある齟齬と違和を言葉で辻褄合わせしようとは思いません。
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今回は、そういうお話しをします。ただし、お話しするのは、五七五の形式ではない散文なのです。
*夢の文法、言葉の文法、現の文法
夢の言葉、言葉の夢。夢の言葉、言葉の夢。
言葉には言葉の文法があり、夢には夢の文法があると思います。現(うつつ)には現の文法、思いには思いの文法もあるにちがいありません。
それぞれは別個のものなのです。私の印象では。
でも、どこか似たところがあります。どれもが人がいだくものですから、似たところがあるのは当然なのかもしれません。
とはいっても、「似ている」というのは「同じ」と「同じ」ではなく、「まちまち」であって「異なる」や「違う」をふくんでいると私は考えています。
「似ている」ことやものは、それぞれが「ずれている」のです。そこが「同じ」と「異なる」と言えます。
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夢についてお話しします。夢の文章というか、文章の夢というか、言葉では矛盾している話になりそうです。
今頭にあるのは、始まりと途中と終わりがありながら、始まりと途中と終わりがないものとして読める散文というか、長めの短詩のような散文なのです。
そんなものはないだろうと思われるのは当然です。なにしろ夢なのですから。
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夢では何でも肯定されるじゃないですか。覚めてから思いだせば荒唐無稽に思われたり、夢のさなかでも、なんだか変だなあと思いつつ、流れに身を任せるしかない。それが夢です。
流され運ばれるしか選択肢のない流れ。あれよあれよ、なんです。これは何かなんて、考えるひまなんでありません。息や呼吸やあくびと似ています。「する」というよりも「してしまう」ものなのです。⇒「くり返すというよりも、くり返してしまう」
流されているときには、「これ」も「何か」もないのです。名詞も代名詞もない。あれよあれよと、ただ運ばれている感じ。その意味では生理現象や排泄に似ています。
夢も生理現象なのではないでしょうか? ないと困るんです。
ただ参加するだけ。それでいて、自分の思いどおりに事が進んでいるわけではない。そんな感じです。参加というより、むしろ傍観と言うべきか。
銀幕のある劇場の最前列のど真ん中の席に、縄か紐かでくくりつけられていて、身動きできない。それなのに、動いているのです。半ば強制的に見せられているのですから。
それが夢です。
*
動いているのは自分なのか、それとも何かに乗り移っているのか。とにかく、何かに乗って移動しつつあるにちがいありません。
映画を観ている自分は、夢を見ている自分に似て、自分は動いていないはずなのに、動いている気がします。
自分が何かに移っている、いや、何かがこっちに移ってきている。いや、そのどっちでもないような、そのどちらでもあるような――。
ひょっとすると、移っているというよりも、映っているとか、写っているのかもしれません。自分が、です。
自分は銀幕なのかもしれません。スクリーン、画面、面。
いや、もしかすると、何かがこっちに、映ってきているとか、写ってきているのかもしれません。
要するに、うつっている、うつってきている。夢の中では、移る、映る、写る、遷る、なんてありません。音と声だけなのです。
*始まりと途中と終わりのあるものを、始まりと途中と終わりのないものとして読む
文章の話をします。
始まりと途中と終わりがありながら、始まりと途中と終わりのないものとして読める散文――。
たとえば、古井由吉の小説、蓮實重彥の文章が、そうです。この二人の書き手の文章は、私にとっては別格なのです。
二人の書き手に共通する部分があるとするなら、それは、たとえば、夢の文法、言葉の文法、現(うつつ)の文法――そんなものがあればの話ですけど――同士が律儀に対応するとか、ましてや合致するとは夢にも考えていないだろうということです。
今述べたことは、二人の書き手の書いた文章を読めば一目瞭然なのです。そこに書かれている言葉たちが、ときに彷徨と停滞を呈したり、宙吊りの身振りを演じているさまが具体的に見て取れます。
始まりと途中と終わりがあるものとして流れていながら順調に進んではいないのです。
始まりと途中と終わりのあるものとしてありながら、始まりと途中と終わりのないものとして読まれるように、あるいは眺められるように振付けされた文章とでも言えばいいのか。
これは、そこにある言葉たちが、特定の方向を目指していないからにほかなりません。それでいて言葉たちは線状に並べられてもいるのです。つまり文章の体を成しています。
言葉が読めるものとしてそこにありながら、読めない。そうも言えるでしょう。
*用言体
いつだったか、だいぶ前の話なのですけど、「用言体」という文章を夢見たことがあります。
体言とは主語になれて、用言とは述語になれる。それくらいのイメージでつかっているのですが、私にはそれだけで十分です。
詳しいことは知りません。私は文法には疎いのです。
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主語のない文章って流れるじゃないですか。主語みたいに偉そうな確固とした主(ぬし・あるじ)がなくて、ただ動きと、ありようだけがある。というか、ただ移ろっている感じ。
うつろう、うつろ、うつほ、うつお、うつつ、うつけ。
文章ですから、主語はあります。文章の体は成しているのです。でも、主語は形としてはあっても、それは仮の形であって、重点は述部のほうにあるのです。
(ここでお断りしておきますが、イメージの話をしています。私の個人的なイメージです。)
主語がないから、内容なんて、ないようなもの。ないようなんてないよう。
流れだけがある。とはいえ、途切れることもあります。停滞したり、詰まったり、動かないこともあります。
でも、そこで固定しているわけではありません。ずーっと、とどまっていることはない。常に次の動きと流れをはらんだ停止が、しーんとか、きーんと、音を立てている感じなのです。
*レトリックだけで成り立っているような文章
「用言体」で思いだしましたが、「レトリックだけで成り立っているような文章」を書きたいなんて、考えていた時期がありました。
いや、今でもその気持ちはあります。内容なんてないようなもので、一応文章の体は成していて、レトリック、つまり文を成り立たせる飾りだけで、かろうじて立っているような文章です。
綱渡り文章というか、千鳥足文章というか、宙吊り文章、足踏み文章というか――。
たとえば、野坂昭如の『アメリカひじき』の文章がそんな感じだと言えます。『火垂るの墓』ではなく『アメリカひじき』です。
あと、村上龍の短編集『トパーズ』の文章もそうです。表題作の『トパーズ』と『紋白蝶』が、特にそうです。
ああいう素晴らしい文章をレトリックだけで成り立っているなんていうと、叱れそうなんですけど、私の単なる印象ということでご勘弁願います。
*長い俳句のような散文
今、「「物に立たれて」を読む」という連載をしています。以下のマガジン(記事集)に入っています。
古井由吉の『仮往生伝試文』に収められている「物に立たれて」という章を読んでいるのです。
その連載の記事に引用している文章を眺めていて、何かに似ているという思いに駆られ、それが何かわからずにいたのですが、俳句に似ていると気づきました。
実は、そんなわけで、今この記事を書いています。
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で、「物に立たれて」は散文なのですが、それが俳句に似ているというのはイメージとして、わかりにくい言い方だと思います。
俳句のような散文とか、長めの俳句のような散文というのは、言葉の上では矛盾しますが、私の中では矛盾しません。
というか、私は言葉の文法と思いの文法は異なったものとして働いているという意識があるので、無理に辻褄合わせをしようとは思わないのです。
つまり、言葉で思いの辻褄合わせをしようという気持ちは希薄なのです。両者は似ている部分やつながりはあっても、別個のものだと私は考えています。
ですから、別個のもの同士を、どちらかの理屈でもう一方の辻褄合わせをするのには無理があります。そもそも言葉の土台には無理があるのです。土台無理。
妙な比喩ですが、空の語法(文法でもいいです)で海を語るとか、逆に海の語法で空を語ろうすれば無理がきます。強引にすることもできるでしょうが、しっくりこないにちがいありません。
人の世界は齟齬と違和と異和で満ちていますが、人はそれを忘れる術を身に付けていきます。たまに思いだしたり気づくと「失調」に陥ることがあります。
これは気をつけなければなりません。社会生活が営めなくなりますから。あっさりと書きましたが、今述べたことはとても大切なことです。
古井由吉の小説には、その種の「失調」がよく出てきます。⇒「「失調」で始まる小説(「物に立たれて」を読む・05)」
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話を戻します。
俳句については私は無知なのですが、私的なイメージとしては、主語があるようでないのです。あったとしても言葉から成る文であるために、形式的にあるだけで、かりそめの姿でしかありません。
かりそめの姿である主語(「主・あるじ」)というのは、「客・客人・まろうど」に似ています。⇒「客「である」、客「になる」、客「を演じる」(「物に立たれて」を読む・07)」
私に言わせると、俳句にあるのは、主語のない述部だけなのです。「主・あるじ」の振りをした「客・まろうど」と言えばいいのか。主語のような顔をしている名詞があっても、それは主語の振りをしているだけで移ろいをはらんでいる述部だと言えばおわかりいただけるでしょうか。
この点については、名詞の象徴性とか、両義性や多義性という言葉をつかって論じることも可能でしょう。実際、そんな議論を見聞きします。
(ここでお断りしておきますが、俳句を知らない大馬鹿者が、無知の無恥で、いい加減なことを書いているのですから、すっぱい顔をしたり、口をとがらせないでくださいね。)
俳句とは関係のない話ですが、私には、世界には主語(主・あるじ・ぬし)がある(いる)という意識は希薄にしかありません(詳しいことは上の記事を、文字通りご笑覧願います)。
かりにきて かりたやどには あるじなし
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その主語のない述部だけの文章というイメージ(定義ではありません)が、「長い俳句のような散文」なのです。
・伝聞とか引用とか慣用なのか、それとも描写とか記述なのかが不明。
・視点が自由。
・主体がなくて客体だけ。
・体言はあっても意味やイメージを固定したり志向する気配はない。
・用言だけが際立つ。
・ストーリーやドラマや筋は希薄、曖昧、不明。
・言葉と文字の「いまここ」しかない。それでいて「いまここ」でもない。
・文章としての体を成している。【これは絶対条件です。】
そんなイメージなのです。
今思いだしたのですが、さきほど述べた「用言体」と「レトリックだけで成り立っているような文章」をひっくるめて、「ありえない文章」と呼んでいたことがありました。
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