「失調」で始まる小説(「物に立たれて」を読む・05)
*「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」
*「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」
*「日、月、明(「物に立たれて」を読む・03)」
*「日記、日記体、小説(「物に立たれて」を読む・04)」
古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。
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引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。
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まず、前回の記事をまとめます。
では、今回の記事を始めます。
*引用
*「端・は」のイメージ
・「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」:
前回は「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」の「道路端」にある「端」に注目して、次のイメージにこだわってみました。
端・はし・はた・は・はな・タン
はし・はしっこ・きわ・へり・さかい・ふち・ふちっこ
・端は、端と端に架かる橋。端っこは人が他者と出会う場所である。
・端は、「端(はな)から調子がいい」という場合の「端・はな」。始まりでもある。
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今回は、上のうちの「端・は」のイメージ、つまり私の個人的なイメージについてお話しします。
例の「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。」(枕草子)の「端・は」です。
私は一般論とか客観とか普遍と呼ばれていることには詳しくないので、私の記事に書いてあるのはだいたい私の個人的な印象に基づく話だと思ってください。
ですから、馬鹿なことが書いてあっても、大目に見ていただければ嬉しいです。
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で、さっそく馬鹿なことを言いますが、私はイメージの韻というものがあるのではないかと思っています。
いん、陰、淫、隠
たとえば、陰、淫、隠に、私は音読みしたときの音の韻だけでなく、イメージの韻を感じると言えばわかっていただけるでしょうか。
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で、「は」ですが、これはまとめると次のようなイメージです。
端、葉、歯、刃、羽、波、把、爬、播、破
・薄くて、本体の端っこあって、ぺらぺらひらひらしている。
・そのため、「は」なれて(離れて・放れて)、漂ったり舞ったりして、何かにくっ付くこともある。
馬鹿も休み休み言えという言葉が聞こえてきたので、いったん休みます。別の話をします。
*「失調」で始まる小説
古井由吉の小説では、始めに「失調」があるというパターンが多い気がします。「失調」とは、具体的には次のような形を取ります。
発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅。
こうした「欠ける」「失う」「無くなる」「足りない」「少ない」「ない」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。
古井由吉の小説では、その狂い(失調)を引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。
上で「旅」がありますが、旅とは日常が失われ、それが継続していく時空と言えます。
太古や大昔や昔は(大ざっぱな言い方でごめんなさい)、旅や移動は命がけの行動であったことを考えると分かりやすいと思います。旅には登山や山歩きもふくまれます。古井の小説でよく出てくる設定です。
古井の何らかの作品をお読みになった方は、出だしに以上のうちのどれかが登場していることに気づかれるのではないでしょうか。
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古井の小説で最も知られていると思われる『杳子』と『妻隠』も、「失調」で始まります。
このように始まる『杳子』では、この小説の視点的人物である「彼」が、小さな岩の塔(ケルン)を眺めている杳子を発見することから話が始動します。
杳子は様子が変なのです。
この作品を振りかえって古井由吉は次のようにエッセイで書いています。かつての自分の体験がもとになっていると言うのです。
私のつかう「失調」は、このエッセイにある「あの時の軽い失調の感覚」から取ったものであり、その言葉を古井の諸作品に共通するイメージとしてもちいているのです。そのため、「失調」というふうに括弧でくくっています。
話を『杳子』に戻しますが、様子が変なのは杳子だけではないのです。視点的人物である「彼」も相当変だと言わずにはいられません。
「深い谷底に一人で坐っていた」女性が、ぼーっとした表情でケルンを見つめているのです。普通なら「大丈夫ですか?」と駆けよって声を掛け、助けを申し出るのではないでしょうか?
でも、そうした展開にはなりません。動くには動くのですが、じれったいほどちんたらしているのです。なかなか女性と口をきこうともしません。
私はこの「彼」に対して、「大丈夫ですか?」と言いたくなります。興味のある方は、ぜひ『杳子』をお読みください。
なお、『杳子』と同じ文庫本に収められている『妻隠』では、一週間、高熱で寝込んで会社を休んでいて、病み上がりの状態である寿夫(ひさお)が、作品を通しての視点的人物ですから、その「失調」はわかりやすいと思います。
*「欠けている」=「書けている」
「失調」とは、「はし・はしっこ・きわ・へり・さかい・ふち・ふちっこ」に身を置くことです。日常生活のど真ん中や奥まった部分にいて安泰な状態にあるのではなく、端っこにはみ出てしまうのですから。
古井のある種の作品の場合には、非日常的な時空にいると言ってもいいでしょう。異界とのさかいに立つともいう言い方もできると思います。
そこでは出会い――この出会いは相手(対象)が人であるとは限りません――があるはずです。
自分の外(外部)にいる「誰か」や外にある「何か」と出合って、何とかしてもらわなければならないのです。
「失調」とは「欠けている」ことにほかなりません。「欠けている」部分を埋めてもらったり、塞いでもらう必要があります。
ところで、古井の小説に見られる「失調」において「何」が欠けているかですが、それがはっきりとわかるような書き方を古井はしていません。
発端としてあった「失調」を引きずりながら作品が進行していき、かすかに「失調」が転調するかに見える形で終わることもあるが、「失調」がなくなったわけではない――とでも言いましょうか。
それが古井の魅力であり、私が惹かれるのもそうした展開があるからなのです。
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話を文学に転じると、文字からなる小説では、「欠けている」過程が「書けている」なのです。
原稿用紙の「欠けている」マス目が埋まっていく、目の前の白紙(空白)が文字で塞がっていく、目の前の画面の空白を活字が埋めていく、そんなイメージです。
「欠けている」状態(過程)が「書けている」状態(過程)であり、その過程が継続し、その結果が「書けた」だと言えるでしょう。
「失調」、つまり「欠けている」状態と状況から、ドラマとストーリーが始まると言えます。物語が始動するのです。
「欠ける」から「書ける」――こんなふうに、まとめることもできそうです。「欠ける」を「書ける」に転じる、なんてポジティブで素敵な発想ではないでしょうか。
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たとえ、「欠ける」から「書ける」へ転じ「書けた」としても、それは「欠ける」でしかないという考え方もできます。興味のある方は、以下の「欠ける、書ける、欠ける」をお読みください。盛んに「言葉のあやとり」をしています。
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では、ここで今読んでいる「物に立たれて」では、語り手(日記の書き手)が「端」に身を置くことで、具体的にどんな「出会い」があり、どんな「失調」が起こっているのでしょう?
*「物に立たれて」における「失調」
どんな失調があるのかを先回りして見てみましょう。
*人との出会い
まず、上の引用文の続きを以下に引用します。わかりやすいように、引用文の一部とつなげて引用します。
この日記体の文章の出だしが、「十二月二日、水曜日、晴れ。」であることを思いだしましょう。
この「タクシーの運転手」と、上で先回りして引用した箇所の「運転手」が別人であり、別の時の別の場所の別の話であることは明らかです。
以前に「タクシーの運転手」から聞いた話に出てくる「深夜の道路端に車を待って立つ客」とまったく同じ立場に、この語り手(日記の書き手)が「十二月二日、水曜日、晴れ。」という真冬の深夜に身を置いている――という話なのです。
このように、古井由吉の小説では伝聞、つまり他人の話の引用がしばしば出てくるために、読みにくかったり誤読しかねないのです。
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いずれにせよ、冬の「深夜の道路端に車を待って立つ客」というのは、訳ありではないでしょうか。しかも、その客である語り手は、引用文にあるような心境でいるのです。
運転手に自分の姿が見えないのではないか、と。
「腕を」「はっきりと伸ばして大きく振」っている自分の姿が、です。
冬の「深夜の道路端に車を待って立つ客」は、二重の意味で訳ありっぽいのです。
・そんな時刻にそんな場所に立っていた。
・そんな心理状態でいた。
これは、「失調」と言ってもいいのではないでしょうか?
古井の小説を以前に読んだことのある人であれば、「ははーん」と思いあたるのではないでしょうか。あれに似ているなあ、と。
古井の小説を初めて読む人であれば、「なんだか心配性の語り手だなあ」という感想をいだいてもおかしくないと思います。それです。それが「失調」です。
*物との出合い
語り手が、道路端という「端」に身を置くことで起きる人との出会いの次に、それとは別の意味で「端」(むしろ「際・きわ」という感じです)に身を置く語り手が、「何か」と出合うようすを、先回して見てみます。
太文字を施した箇所でくり返される「失って」と「失った」が不穏な雰囲気を漂わせています。これを古井的な意味での「失調」と呼ばずに何と呼べばいいのでしょう?
この先回りして見た箇所については、今後詳しく見ていくことになると思います。ここでは、ここまでにしておきましょう。
*端、葉、歯、刃、羽、波、把、爬、播、破
話を戻します。
上の文章を読みかえすと、ある意味「失調」と呼んでもかまわないことを書いていた自分に気づきます。
私は暗示にかかりやすいし、染まりやすいところがあります。「物に立たれて」を読んでいると、その世界に染まっていく自分を感じることがよくああるのです。気をつけなければなりません。
半分冗談はさておき(半分は本気です)、次の箇所の語り手の仕草に注目したいです。
真冬の深夜の道路端で「腕を」「はっきりと伸ばして大きく振る」語り手の姿を思い浮かべ、さらに「それはたまらないぞ、と腕をもうひとつはっきりと伸ばして大きく振る」姿を思い描きます。
これはSOSに近い仕草ではないでしょうか。必死なのです。必死すぎて滑稽なくらいにさえ感じられます。
私には、端や際に身を置いたときの人の仕草、身振りとして「端、葉、歯、刃、羽、波、把、爬、播、破」というイメージの韻を感じるのですが、そのイメージについてお話しします。
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愛用の辞書(広辞苑)で「は」という見出しで出てくる漢字のイメージを見てみます。
以下のイメージのまとめは、各文字と語についての私の個人的な印象です。私の記事でよくやっている「言葉のあやとり(言葉の綾取り・レトリック)」であり、必ずしも辞書に載っている語義に沿ったものでありません。ご承知おき願います。
「は」に当てられた漢字をながめているうちに、どれもが「はなす・はなつ」と関係があるように見えてきます。
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はなす、話す、離す、放す、はなつ、放つ
上の言葉は大和言葉、つまり和語ですが、これに漢語系の「はっする・発する」も加えたくなります。
はなす、話す、離す、放す、はなつ、放つ、はっする、発する、発信する
語り手の腕を振る動作は、声を発しても(放っても)伝わらないであろう、タクシーの運転手への必死の身振りにちがいありません。
端に身を置いた語り手は、ここでSOSを発しているのです。相手に聞こえそうもないため、声を発する代わりに腕を振っていると言えます。腕を身振りは信号(sign・signal)なのです。話す代わりに信号を放っているのです。
ここでタクシーを逃したら、寒い深夜の道路端に再び取り残されることになるのです。
はなす・話す、はなつ・放つ、はっする・発する、はっしんする・発信する
端、葉、歯、刃、羽、波、把、爬、播、破
は、は、は、は、は、は、は、は、は、はっ!
は? 馬鹿も休み休み言え、という言葉が、またもや聞こえてきたので、この辺で失礼して休みます。
*まとめ
柿が美味しい時季になりましたね。記事を書き終えたので、近所からいただいた柿を食べようと思います。
危うくて不穏とも言える雰囲気の話にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
柿食えば はらはらおちる はが浮ぶ
山の端に くれないおちて にじむ闇
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