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ひとりで聞く音

 ひとりで聞く音は寂しいものです。ひとりだけに聞こえる音は不気味さをもたらします。寂しいと感じ不気味だと思うそばには他人のまなざしがあるのではないでしょうか。その他人は、おそらく最期の自分でもあるのです。


「おずれ」と「おずれ」


 川端康成の『山の音』の冒頭には、主人公の尾形信吾(おがたしんご)の家に半年ばかりいて郷里に帰った「女中」の加代の話が出てきます。

 散歩に出るために下駄を履こうとした信吾が、「水虫かな」と言うと加代が「おずれでございますね」と言ったことがあり、その「おずれ」を信吾は、鼻緒ずれの「ずれ」に敬語の「お」をつけて「おずれ」と言ったと聞いた。

 それをいまになって「緒ずれと言ったんだね。敬語のおじゃなくて、鼻緒のおなんだね」と気づいたと、信吾が息子の修一に話し、東京生まれの息子にその「おずれ」を発音させるのです。

 父親の信吾が地方出身者なので、こうした展開になるのですが、小説の冒頭に持ってくるのには、少々ややこしい話だと思います。

「敬語の方のおずれを言ってみてくれないか。」
「おずれ。」
「鼻緒ずれの方は?」
「おずれ。」
「そう、やっぱりわたしの考えているのが正しい。加代のアクセントがまちがっている。」
(川端康成『山の音』新潮文庫・p.6)

 ややこしい話ではありますが、年を取って物忘れがひどいうえに、耳も遠くなってきた信吾の状況を、川端は的確に描いているとも言えます。

     *

 この『山の音』は川端康成がノーベル文学賞の候補になっているときに、対象となった作品のひとつでもあったはずです。

 つまり、作品の英訳が審査の対象になったわけですが、英訳したエドワード・G・サインデンステッカーはどう英語に翻訳したのでしょう? 

 冒頭に、日本人が読んでもややこしい話が書かれているので、とても気になります。

「おずれ」と「おずれ」の英訳


 さいわい、うちの書棚には英訳があるので確かめてみました。

 昔、翻訳家を志していて勉強のために、対訳で持っている作品が何編かあるのです。

 なお、同じく川端の『雪国』とその英訳について触れた「織物のような文章」という記事もありますので、興味のある方は、お読みください。

     *

 話をもどします。

 上で引用した二つの「おずれ」が出てくる部分は、次のように英訳されています。

 "(……)Say 'footsore.'"
 "Footsore."
 "And now say 'boot sore.'"
 "Boot sore."
 "I thought so. Her accent was wrong."
("The Sound of the Mountain" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Vintage International, p.4)

 一語で表記されていることから分かるように、footsore は辞書に載っている単語で、英和辞典では「(長く歩いて)足を痛めた、靴ずれのできた」(ジーニアス英和大辞典・大修館書店)とある形容詞です。

 boot sore は二語ですし、複数の辞書にも載っていなかったので、訳者の造語ではないかと思います。

 造語は翻訳ではよくあることです。sore という部分が一致するし、短母音か長母音の違いはあるにせよ、前半は似た音ですから、うまく訳されていますね。

 冒頭のかなりややこしい箇所を、サイデンステッカー氏はそつなく英訳してくださったということです。

 川端がノーベル文学賞を受賞した裏には英訳者の偉業があったという噂は本当のようです。

差異と差違の「ずれ」


 おずれ  おずれ
 footsore  boot sore

 字面だけ見ると、この英訳はすごいと感心しないではいられません。二語か一語かの違いはありますが、それを除けば f と b が違っているだけだからです。

     *

 ところで、「地方」の人間である私は、どちらの「おずれ」も「正しく」発音できません。この部分を初めて読んだときに何度か読みかえした記憶があります。

 いまも、この「ずれ」が、ぴんと来ません。差異と差違のずれくらい、ぴんと来ないのです。

 冗談はさておき、このように、ずれが感じ取れないことは、小説を読んでいても、実生活においても、よくあります。

ひとりで聞く音


 あるアクセントとか訛りが聞き取れるかどうか、またはその違いや「ずれ」に気づくかどうかは、きわめて個人的な聞き取りの話になります。

 同郷の人たちのあいだにまじっていれば問題にはなりませんが、複数の土地の出身者からなる集団だと、ある発音上の差違が気になるとか、気づくという状況はおおいにあると考えられます。

 場合によっては、訛りやアクセントがもとで笑われることもありますね。私も経験があります。

 ふだんは自分で気づかない差違だけに笑いの対象にされるとショックです。故郷の文化――方言や言葉遣いは文化ですよね――を侮辱された気持ちにもなります。

     *

 ひとりで聞く、ひとりだけに聞こえる。

 発音の違いだけでなく、音声ではこうした「ひとりだけ」という聞こえ方が意外とあるのではないかと、想像しています。

 おそらく、気づいていないだけです。音だから目に付かないのです。

 いまのは冗談ですが、もしもとつぜん自分ひとりだけで聞く音を経験したり、自分だけに聞こえている音があると気づいたなら、それが不安や寂しさにつながることもあります。

 まさにそうした状況が、『山の音』に出てくるのです。

「山の音」


 川端康成の書いたこの小説のタイトルは『山の音』です。エドワード・G・サインデンステッカー氏の英訳書では The Sound of the Mountain で、とても分かりやすい訳になっています。

 この作品のなかで、主人公の尾形信吾が「山の音」を耳にする場面を見てみましょう。

 八月の十日前だが、虫が鳴いている。
 木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。
 そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。
 風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いてはいない。
 信吾のいる廊下のしだの葉も動いていない。
 鎌倉かまくらのいわゆるやとの奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
(川端康成『山の音』新潮文庫・p.10)

 この直後に、「音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒気がした。」とあり、タイトルでもある「山の音」が象徴的な意味を帯びる箇所でもあります。

 冒頭の「おずれ」も、この「山の音」も、ひとりで「聞く」、ひとりだけに「聞こえる」音です。こうしたつなげ方は小説のつくりとして、うまい展開だと思います。

 老いの寂しさと孤独が、観念としてではなく感覚的に伝わってきます。英訳でも伝わっているにちがいありません。

     *

 この山の音が、自分だけに聞こえるものであれば、不気味というよりも寂しいのではないのでしょうか。

 私自身が老人であり、しかも耳がかなり遠いのですが(私は三十代後半から聴力が衰えていった重度の中途難聴者です)、もしも自分が信吾のような状況に置かれたなら、不気味よりも寂しさに打ちひしがれそうです。

 私だけかもしれませんが、老いた身にとっては寂しさのほうが不気味さより、ずっとつらいです。お化けや幽霊なんてぜんぜん怖くありません。

 なんて言いながら、幽霊らしきものを見たら腰を抜かすに決まっていますが。私は人一倍怖がりなのです。

ひとりで聴く音


 もっとも、いまお話しした「ひとりで聞く音」は、群衆にまじりイヤホンをして「ひとりで音を聴く」のとは、ずいぶん趣が違います。

 ひとさまがイヤホンでひとり音に聴きいっているさまを目にすると、私にはそれが最期の瞬間のリハーサルに見えてなりません。これは音楽を聴くときに目をつむっている人にも感じます。

 ひとはさいごにいくときには誰にも邪魔されずに、ひとりで気に入った音や声に耳を傾けたいのかもしれません。さいごのさいごは像よりも音声です。

 音には節があって勝手に流れてくれますが、見たいものを見つづけるのには相当な力が要ります。いざとなったら、そんな力は出ない気がします。

     *

 私は寝入り際にさいごの瞬間のリハーサルをよくするのですが、好きな光景を思い描こうとすると決まって苦労してなかなか寝付けません。

 これが好きな曲となると、ちょっと弾みをつけるだけで、がんがん鳴りはしないまでも、さらさらと流れてくれるので、それで安心して眠ってしまいます。

点描


『山の音』は改行が多く、引用文のように一行だけで改行されることも頻繁にあり、読みやすいです。読みやすいのですが、なかなか書ける文章ではないと私は思います。

 この作品の文体に私は「点描」を感じます。肝要なことだけを的確かつ簡潔に絵として描いているのです。

 かといって、そぎ落とした印象を受けません。さらりと一筆、そしてまた一筆とつづっているような筆致とたたずまいを感じます。

 この部分の英訳を見てみましょう。

     *

 Though August had only begun, autumn insects were already singing.
 He thought he could detect a dripping of dew from leaf to leaf.
 Then he heard the sound of the mountain.
 It was a windless night. The moon was near full, but in the moist, sultry air the fringe of trees that outlined the mountain was blurred. They were motionless, however.
 Not a leaf on the fern by the veranda was stirring.
 In these mountain recesses of Kamakura the sea could sometimes be heard at night. Shingo wondered if he might have heard the sound of the sea. But no----it was the mountain.
("The Sound of the Mountain" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Vintage International, pp.7-8)

 原文の日本語と英訳をくらべて、気になった箇所を挙げてみます。

 山の音
 the sound of the mountain

 小山
 the mountain

 鎌倉かまくらのいわゆるやとの奥
 In these mountain recesses of Kamakura

     *

 なるほど、とても勉強になります。

 日本をよく知る米国人であるサイデンステッカー氏にとって、鎌倉の「山」も「小山」も mountain なのだろうと想像します。「小山」に hill という単語が当てられていないからです。

英和辞典の訳語と解説


 mountain と hill がどう違うのか、どう同じなのか、つまり重なる部分と重ならない部分がどうなっているのかを調べるのには、英和辞典の解説を読むのがいちばんです。

 英和辞典に載っているのは英単語の意味ではありません。

 ある英単語の日本語訳なのです。ただし、この傾向はしだいに薄れてきて、新しい英和辞典では日本語訳に加えて、見出しの単語についての解説に当てられているスペースが大きくなっています。

     *

 とくに最近の中学生や高校生向けの英和辞典は、とてもよくできています。単語についての説明が懇切丁寧で、辞書を引くというよりも辞書を読むことの大切さが実感できます。

 たとえば、mountain を見出しとする項には、hill についての説明があり、その逆も同じようにつくられていて便利です。この二語に関する英米での(場合によっては豪や加における)違いにも触れられているはずです。

 mountain と hill については、米国内でも使い方が異なるので、そうした細かい点にまでの記述のある学習者向け英和辞典なら、読み応えがあるでしょう。つまり、勉強になり、お子様にも薦められます。

 あと、river を調べると、日本語の「川」に相当する英語の単語が複数紹介されており(stream、brook、creek など)、それぞれの違いが解説されていたりもします。

 大人でも、いや、大人だからこそ、読んで楽しめるだろうと思います。

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