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知らないものについて読む

 文芸作品そのものを読むよりも文芸批評を読むほうが好きでした。大学生時代はちょうど文芸批評の全盛期みたいな雰囲気があり、従来の印象批評の本が相変わらず続々出版され、フランス製のヌーベルクリティックとか英米加製のニュークリティシズム、そして日本でも新批評と呼んでいいような本や論考があいついで上梓されたり雑誌に発表されていました。

 つぎつぎに紹介される斬新な手法に興奮したのを覚えています。

 印象批評については忘れましたが、新しいタイプの批評の書き手を思いつくままに挙げれば、ガストン・バシュラール、ジャン・リカルドゥー、ロラン・バルト、ジョルジュ・プーレ、モーリス・ブランショ、マルト・ロベール、ノースロップ・フライ、ウィリアム・エンプソン、I・A・リチャーズがいました。

 新しい批評などと肩に力の入った呼び名とはおそらく関係ない人で、当時翻訳書が出るたびにわくわくした覚えがある書き手は、エーリヒ・アウエルバッハ、グスタフ・ルネ・ホッケ、ジョージ・スタイナー、ミハイル・バフチン、ヴィクトル・シクロフスキー、マリオ・プラーツです。

 文芸批評が専門ではない人たちも文学作品を盛んに論じていました。たとえば、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダです。そうでした、あの時期には文芸批評だけでなく哲学とか現代思想という言葉がもてはやされていたのでした。

 フランス文学科に在籍しながら、フランスの小説や詩や戯曲よりも、上で述べた人たちが文学作品について論じている著作や論文の翻訳ばかりを斜め読みしていました(いわゆる熟読や精読ができないのです)。そのほうがずっと快かったからです。

 卒論には、ロラン・バルトがバルザックの中編小説『サラジーヌ』を批評した『S/Z』を批評する、という屈折した方法をとりました。へそ曲がりなので批評を批評するみたいな、ひん曲がったことが好きなのかもしれません。

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 最近耳にして興味をひかれたものがあります。これはいったいどういうことなのかという具合にわくわく感を覚えたのは、ロボットによって操縦されるロボットです。どんなものなのだろう。そんなことをしたらどうなるのだろう。

 こうした不思議でならない物や事や現象を見聞きすると、すぐには調べません。あれこれ想像して楽しみます。調べて答えを知るよりも、「なんだろう」を宙づりにしておくほうがはるかに楽しいからです。

 寝る前に考えるのにちょうどいいテーマというかイメージだと言えます。答えが出るなんて期待していないので、真剣に考えて頭がさえることはなく、いい感じで寝つけます。ちなみにこの種の不思議でならないことは調べる前にたいてい忘れてしまい、次の謎が出てくることになります。

 なかには長持ちする不思議もあります。「脳が脳を思考する」と「目が目を見る」とはかれこれ十年ほどのお付き合いをしています。なかなか味のある謎(謎と言うよりもレトリックの妙味だという気もしますけど)です。人生はというか世界はとういうか、謎に満ちていて飽きません。

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 話をもどします。

 文学作品よりも、文学作品を論じたものがおもしろいという話でしたね。話は文学だけにとどまらないのです。映画は見ないのに、映画を論じた映画評論もかつてよく読んでいました。といっても、蓮實重彥の映画批評だけなのですけど。

 蓮實重彥の『批評 あるいは仮死の祭典』に味を占めて、もっと気持ちよくなりたいと思い、雑誌にその映画批評が載るたびに読んで楽しんでいました。本も買っていました。装幀が凝っていて値段がやけに高かったのを覚えています。

 閉所恐怖症で劇場は無理。集中力と持久力に欠けているためにレンタルで見ていても飽きる。そんな具合ですから、映画はほとんど見ません。見てもすぐに内容を忘れます。見たこと自体も忘れているみたいです。

 でも、テレビでやっている映画の予告編が大好きです。YouTubeでもときどき見てあれよあれよ感を楽しんでいます。おもに映画のあらすじが書いてある映画評も好きです。新聞や雑誌に掲載される書評や本の広告と同じくらい好きです。

 とはいえ、書評はだいたいにおいて長過ぎて興ざめします。本の広告は簡潔で刺激的で興奮します。さらに魅力的なのは本のタイトルです。本そのものを手にするより本のタイトルを見るほうがずっとわくわくします。何が書いてあるのかを勝手気ままに想像する快感に嗜癖し依存しているのかもしれません。

 そうだとすれば、後悔はありません。

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 蓮實重彥の映画批評はその文芸批評と同じように読んでいて心地よいのですが、両者にはちょっとした違いがあります。

 ちょっとした違いとは、文芸批評の場合には、論じてある作品をある程度知っていたり読んだことがあるにもかかわらず――もちろん知らないこともありますけど――映画の場合についてはまず知らないということです(予備知識がないということですね)。

 もちろん、その作品そのものを見たこともありません。たとえば、ジョン・フォードとか小津安二郎なんて、名前だけでしか知らないのです。調べる気もありません。

 ようするに、批評の対象について無知なのに批評を読んで楽しんでいるということです。それがじつに気持ちがいいのです。何について書いてあるのか知らないだけに快感が増します。

 比喩ですけど、めまいを覚えてくらくらするほど、「これはいったいどういうことなのか」状態に至ります。読んでいる言葉の表情や仕草や運動に酔うという言い方もできそうです。

 その言葉が指し示すものを知らないのに、その言葉の身振りや目くばせを楽しむ喜びがあるのです。抽象ではなく具体的な体験として心地よいのです。これは、何かがわかるとか発見するといった知的な行為ではないことは断言できます。対応物を欠いた言葉には純粋な表情と動きがあると言えば、おわかりいただけるでしょうか。

 表情と動き、これが私を惹きつけるようです。知識ではないのです。何かを知ろうとして読むことはありません。見に行くとか会いに行くとか感じるために読んでいます。

 何を見に行くのかって、表情と動きです。何の表情と動きなのかって、言葉です。正確にいえば、文字です。それ以外にありますか?

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 小説や詩を論じた文芸批評、映画作品を論じた映画批評。論じる対象は異なっていても、読むさいに目の前にあるのは言葉しかありません。言葉(あるいは映像と音声)をめぐって言葉を連ねたり綴る。

 言葉をめぐって言葉を連ねるとか綴るとは、ようするに言葉に言葉をかぶせ重ねていくこと。そこには自分の言葉も他人の言葉もありません。読むも書くもありません。古いも新しいもありません。

 作者を示すとされる固有名詞すら単なる言葉としてそこにあるのです。生身の人間なんてそこにはいません(「作者の死」とか「作者とは何か?」などという抽象とはたぶん無縁の話です)。

 言葉たちは、言葉と事物の対応という言葉とイメージをあざ笑っているかのように、あっけらかんとそこにあります。具体を目の前にした抽象はむなしい――。

 匿名化された言葉同士が目くばせをし合ったり絡み合ったり微笑み合ったり反発し合ったりするさまは、あれよあれよと眺めているほかない、人の入る余地を許さない美しい世界だという気がします。

 そこでは人もまた言葉と化すしかありません。言葉とは人ではない生きてはいない「何か」です。生きている振りをしますけど、それは生きていないからできる振りなのです。さらに言うと、死んだ振りもできます。仮死とか仮往生という感じ。

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