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400年後に南半球で名前いじりされるとは思ってもみなかったろう。

「近衛 信伊 (このえ のぶただ)」 

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての人。
近衛家18代当主。太政大臣。

近衛家は五摂家のひとつ。
五摂家は近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家のことで公家の家格の頂点に君臨した。本姓はいずれも藤原氏で鎌倉時代に成立した。ちなみに本姓が源氏の武田信玄や足利尊氏などは先祖が臣籍降下した家だから行きつくところは天皇だが、五摂家は辿っても藤原氏。だから何?って言われれば、いや特に、と答えるしかないけども俺は源氏の方が好み。

どうして俺がこんな人のことを気にしているかというと、近衛信伊さんは、本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と呼ばれた字が上手い人だからだ。

字がめちゃめちゃ上手な、五摂家のそれも近衛家の当主というと、さぞやぬくぬくと貴族の生活を送ってきたようなイメージしかないが、とんでもない。彼は藤原氏の歴史に泥を塗ったと言っても過言ではないくらい、やらかしちゃった人だ。

「関白相論」という事件をご存じだろうか。簡単に言うと関白の人事の件で揉めた話だ。難しくいっても同じだ。

時代は秀吉イケイケのころ。
関白左大臣だった一条内基が二条昭実に関白を譲った。
その結果、左大臣が一条内基、関白右大臣が二条昭実、内大臣が近衛信輔(←信伊の当時の名)になった。

左大臣、右大臣は律令制度下の二官八省のうち国政を担当する太政官内の役職だが、関白は令外官(りょうげのかん)で成人した天皇を補佐する役職で左右大臣との兼任が可能だ。

その後の昇進人事で関白・二条昭実、左大臣・近衛信輔、右大臣・菊亭晴季、内大臣・羽柴秀吉となる。

それから二条昭実が1年ほど関白をした後に、信輔が関白左大臣になり、菊亭晴季の辞任にあたって秀吉を右大臣に昇進させる予定だった。

しかし秀吉はそれを嫌だと言ったのだ。

光秀に暗殺された信長の極官(務めた最高の役職)が右大臣だったから、右大臣自体が自分にとっては縁起が悪い。だから右大臣を飛び越して2階級特進で左大臣にしろ、と要求したのである。

図々しいにも程があるが、秀吉に逆らえる者もいない。じゃあ左大臣の信輔を辞めてもらって秀吉をそこに、という話になろうとした。 しかしここで信輔が待ったをかける。左大臣の在職中に自分が関白もやるから、昭実に今すぐ辞めてくれと迫ったのだ。

関白である二条昭実はその役に就いて半年余り。二条家では関白職に就けば最低1年は在職する。自分だけ半年では辞められない。

左大臣の信輔の近衛家は、関白職と大臣職を兼務するのが習わしであり、自分だけ左大臣を辞めて、前大臣として関白をやるわけにはいかない。

両者それぞれにいい分がある。当然揉めに揉める。

自らの正当性を主張する昭実と信輔に対し、ここで秀吉サイドはとんでもないアイディアを出してくる。

信輔の父であり、前関白であった近衛前久に対して、自分(秀吉)を息子にしろと言ってきたのだ。はあ?って思うだろう。

それこそどこの馬の骨だか分からない農民出身の秀吉を、公家の頂点の家の息子にしろなんて「図々しい」なんていう領域を遥かに超えた頼みだ。いや、誰も逆らえないのだから頼みではなく脅しと言った方がいい。とにかく、秀吉を近衛家の猶子として関白にし、のちに信輔にその関白職を譲るというのだ。

結果として前久がこの案をのむ。もちろんのまざるを得なかったんだと思う。しかしまんまと関白職を手に入れた秀吉がそんな約束を守るわけはない。ご存じのように関白職は秀次に譲られることになる。

信輔は700年続いた摂関家の伝統をぶち壊した人物となってしまう。親戚一同から、いや公家社会から孤立することになる。
さらに一悶着あって薩摩にまで流されちゃうのだ(のちに復帰して太政大臣にまで昇進するけどね。復帰してからの立ち回りぶりもなかなか興味深い)。

このえのぶただ、この絵の豚だ。
イラストまで描いてしまった。

シドニーの真冬の寒い夜、温かい豚汁が食いたい…。

400年後に南半球で名前いじりされるとは思ってもみなかったろうな。

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