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雑踏と関心

陽が出ている時間は延びたものの、気温と体感の寒さは未だに諦めてくれず、引き下がってくれない2月の始まり。数カ月ぶりに一人暮らしの自宅に戻る日の前夜にも関わらず何も準備せずにnoteを更新を試みる

自覚はあるが優先順位を意図的にバグらせるのは将来の私におすすめはできないので今日のバグは今後の教訓として未来の私に見逃してもらおう

私は13歳から精神科に通院しているのだが、初診のきっかけは周囲から見てわかりやすい言動として自傷と希死念慮などの抑うつ症状や過換気発作、そして不登校だった。不登校といえど行ける日に登校して遅刻や早退しながら、という事情を知らない生徒からしたら『気まぐれ登校』と思われても否めない登校していた。中学校を欠席した日でも中学の近隣にある同級生も数名いる進学塾に通っていたこともある。幸いにも中学時代は優しく理解のある教員や同級生に恵まれたこともあり、小学生の頃のような『ズル休み』と言われたり思われることなく、むしろ『欠席が多いことを心配される』状況に慣れずに戸惑いを覚えたこともあった。戸惑いすぎたが故に過剰に『心配される』ことに疑心暗鬼になったり『頼ることが迷惑では…』など同級生のことを信頼しているし大好きなのに気持ちや優しさを頭で理解していても思うように素直に受け入れきれず苦しさともどかしい気持ちもあった。今思えばこれは立場を逆にした時に悲しい話で人によっては失礼と思うことであるが当時はそんな思考の切り替えや相手の意図に考えを巡らせるよりも”中学校に登校する”だけで必死であったし、小学生時代に低学年から上級生や同級生に好きなことの否定や他者との比較や苦手なことに対する強要や他責が日常的でそのターゲットになることが多く、心配されることより他責がベースにあったために中学で環境や周囲の人が優しくても思考が自責に寄っていたこともある。今でこそ中学時代の環境や周囲の人の存在や優しさの有り難みはいい意味で心に強く残っている

後に様々な年齢の人や支援者などと関わる中で

〈 小学校の方が異常で特殊 〉

であったと知った。しかし、中学時代は小学校生活の半分の年数しか在籍年数がないので有り難みは感じつつも考えや精神面を変えたり整えることは難しいことだった

そして当時は【 社交不安障害(現:社会不安症) 】が主病名(主訴症状)で、その数年後に発達障害が基盤にあることが判明する。しかし当時は人目が多いところや人前、広かったり逃げにくいような環境(広場恐怖)などで恐怖や不安を感じ気づいたときには過換気発作を起こし当時は貧血もあったことも相まって学校内で倒れることも度々あり、学年教諭が通院先の主治医と連絡や教員内で事情や対応の共有や連携をしてくれていた。2年生のときには不登校であった私が少しでも教室に入りやすいように、と班長が放課後残り席替えの座席(班)決めを時間かけて熟考してくれていたことを年度末に担任に教えられたこともあった

当時は社交不安障害の症状で特に症状が顕著に出ていたのが

対人恐怖・広場恐怖・視線恐怖

の3つの不安障害由来の恐怖症が組み合わさリ、遂には中3の5月に任意入院で児童精神科に入院することになった

(恐怖症について気になる方は下記のリンクを参考程度にお読みいただくかご自身でお調べください)


不安障害が顕著の時は上記の3つの要素に恐怖を覚えていたが、今は

”なんであのことはそれに恐怖や過剰に反応していたのだろう”

と思う。それは単に障害や症状が寛解や克服をしたから感じたことではなく

『 自分が気にしていても、他人は他人にそこまでいい意味でも悪い意味でも興味はない 』

と気づいたからかもしれない。自分が他人の日常の通行人として認識しているように、きっと他人はそこまで他人に興味や感じることもないことが多いし、記憶に残るか残らないかも運でもあり、その人の感性で、感じても”感じた”という一過性の状況に過ぎない

雑踏の全てに関心や興味を持ち魅力や感性で記憶に残すほど他人は気にしていないし、それこそ情報の取捨選択ですべてを拾いきれる暇も労力も精神も持ち合わせていないし有限な時間も割けるほど余裕はない

相手が意図しないことに自分自身の感性と価値観を投影をしてしまうが、それは結論エゴであり、そういう面では「それはみんな同じだよ」という状況によっては誤解されがちな価値観や感性もあながち間違っていないのかもしれない

気持ちや考え、捉え方も自分次第は正論でも暴論でもあるが、それが必ずしも悪くないのだと思う。それこそ「他人を変えるより自分が変わったほうが良い」というのも自他責める意図でもなく”考えはあなたが見ている景色だけとは限らない”つまり「視野や価値観の道は枝分かれしている」という可能性の示唆でもある気がした。自他を責める意図がないからこそ責めたり咎める理由もないわけである

でも考えを変えることは生きやすくするための術やWRAP・SST・アンガーマネジメントにも応用できたり円滑に行いやすくなるのかもしれない

世には理解や啓発だけでなく「良き無関心」が必要で良い気付きや意味をもたらすこともあると痛感した22歳の冬

今年こそは穏やかに年度末迎えたいと切に思う


dy.いろどり