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言語化をすること

一人暮らし先に戻る当日というのに大した準備もせずにいる、私の中での早起きと成し遂げた朝

これを更新したらシャワーと荷物をまとめようと思っている


精神科に長年通院している中で最大の課題であった

【 言語化 】

実際、心身が健康であっても「言葉にする」ことは意外と難しい。ただ精神的に安定していない者は特に気分転換や思考の転換が苦手であるため、言語化ができないことで抑うつ症状や不穏状態、解離や身体症状を来たすなど精神科における〈 行動化 〉を繰り返し、次第に自傷他害でふさわしくない気持ちの処理や対処を繰り返す。それは自他共苦しい状況であり悪循環でもある。自傷や市販や違法物の依存生活や精神の安定が保てなくなるなど【 言語化 】は精神科では課題になっている患者も少なくない。言語化は非常に大きな意味を成す

しかし、言語化を安心してできる環境でないと言語化できない。周囲に聞いてくれるような人がいない状況ではむしろ言語化は妨げられ不信感が募るだけである、そんな環境で言語化は酷な話である

ただ、自分の居場所は作ったり探すことはできる。言語化することに抵抗が少ない人を探したり、見つけた上で言語化による味方をつけることだ

この文章だけだと語弊が生まれそうなので補足をするが、居場所を探すことやその環境に飛び込むこと、その場での対人コミュニケーションは精神的なエネルギーの消耗が伴い、必ずしも相手がいい人や理想のような人間ではないので、対人的なトラウマを有する人や居場所を作る機会や余裕がない、コミュニケーションが不得手な人に強要や責めているわけではないことをご理解いただきたい

私は幸いかつ有り難いことに13歳からの通院先の精神科と相性があっているので継続して支援や医療に繋がることができている。そして自閉症的特性として「初めてのことに不安」は確かにあるのだが、元々人見知りがない性格で初対面の職員でも警戒心の壁さえある程度クリアすればコミュニケーションは積極的に取ることが出来る。むしろ年下に見られそうなくらいの俗語にして「かまちょ」である。(もちろん、状況やタイミングや人は見てやっているので自分本位なかまちょではないのは職員もわかった上で対応や理解されている)

ここ数年で主治医が変わり、入院の転棟がきっかけで今の主治医や入院病棟の職員で初対面の職員がほとんどであった。信頼関係を1から築いたのだが、自分の中ではそれなりに時間はかかった方だが、根気強く相談や対応に時間割いてくれた優しさを注いでくれた主治医や病棟職員には今でも感謝が尽きないし、ありがたさを忘れることはないし、これから先の私の人生でも記憶に残り続ける人たちであることは変わらないと思う

言語化できずに精神的ストレスを「解離症状」で現実から離れ、時には解離時の別人格に様々な過去や感情を請け負わせて自己防衛反応として現実のストレスから傍観者でいたこともあったが今の主治医と病棟で診察や入退院を重ねている中で現実で「解離」をしなくても拙い表現でも少しずつ言葉にできてきている

そして、拙さは隠しきれないが、こうして言葉を、言葉や表現を考えながら綴るのは私にとってとても楽しく、発信や啓発などは私の偏り捻くれた感性と思考ではハイリスクかつそもそも私は発信や啓発など以前に理解を求めてもいないし、千差万別であるからこそ無責任なことは行いたくない。単純にこうして言葉が好きでありなんやかんや回りくどくなったりしたとしても表現したり思考のアウトプットや思考の可視化は気持ちの整理を兼ねているので有意義であり楽しい意味のある時間である

それにネットやSNSで承認欲求や理解などの主観な私情というか感情は込めていないからこそこうして気まぐれなアウトプットツール的な利用をしている

結局生きている世界はネットでなく現実だからこそ余計な感情が紛れ込むや過敏さが出てきた時は自分にとって必要な取捨選択としてFF(フォロー・フォロワー)に固執しないように心がけている

更新頻度の多さは単にこうしたブログのような長文でないアウトプットや交流ツールと思っているまでだ

ネットやSNS批判の意図はないが、言い方は賛否あるが『所詮ネット』でそれ以上でもそれ以下でもない。ネットで生きやすくしても現実世界の周りが変わるわけでもない、結局は現実で折り合いをつけて生きていかなければならないし、ネットで似たような境遇で繋がっても、傷の舐め合いや慰めあっても現実に戻ったり向き合う時に苦しさと生きづらさを増大させて現実世界の自分を苦しめていくことにも繋がるので、あくまで『SNSツール』でしかない

だから、現実で生きやすい工夫や環境、人を作るのは悪いことでないし、甘えでも羨まれてもそれに対して嫉妬や誹謗中傷しても良い理由にはならない『SNS』を心の拠り所にしている人を非難や否定をしたいわけではないが生きている世界は紛れもなく現実でしかない。良い現実でも、悪い現実であっても。だからSNSの一部や表面で嫉妬する方が正直見苦しいと思う。現実を輝かせて少しでも生きやすい世界にするべく言語化や人を信じようと努力している人は心から尊敬したいし応援したいと思う。

羨んでも諦めても変わらないこともあるけど変わるように動くことや物事の踏ん切りや見切りなどの必要な諦めである【妥協】は必要だと思うし、それをしていたことと言語化で自分自身も生きやすくなり、自分を認められるようにもなった。そして関わってくれた人が驚くくらい成長ができた。自分を救えるのは最後は自分だし、自分の人生を生きているのは自分で自分を殺めるのは思ったより難しく、殺めるのは難しいのにふとした時にその時、その瞬間は訪れる。だからこそ将来に向き合う苦しさと変わる難しさを伴っても自ら変わる、生き抜くための『言葉』を少しでも自分のものにする必要と『言葉』に底しれぬ予想できない力を秘めていることを実感した

これからも『言語化』に努力や工夫を凝らし、精進したいと思う


by. irodori