「映像と音楽」を捨てよ、街に戻ろう

人間とは
『精神は繰り返しを嫌い、肉体は繰り返しを好む。』
とものである、と、私の師匠は言い残して世を去った。

世界のどこにも、これほどの真理を言い当てている言葉はない。しかも、これ以上に的確かつ簡潔な言葉を見た事がないし、過去、世界のどこにも同じような言葉を見た事がない。史上最大の無名の天才が、誰も語る事の出来ない、世界の本質を言い当てるのを、目の当たりに見た気分だった。

『人は絶えず、その矛盾の中で循環を繰り返している。』

仕事をしている時、肉体は何も考えずに繰り返している方が、確かに体的には楽なのだ。けれど、同じことを繰り返していると、いつしかそれに飽きてきて、何か違った変化を求めようとする。音楽も、文学も、仕事も、全てのものが諸行無常とばかりに流転していく。

その摂理を見抜いたものだけが、時の流れを超えていくだけの資格を得る。


Youtube 時代が始まって10年近くが経過する。映像に音楽や視覚効果の華やかで派手なものばかりが、ひたすら粗製濫造されて、世界を覆いつくし、市場に溢れ返りまくっている。

今や猫も杓子も『えいぞう!えいぞう!えいぞうの必要性』とばかりに、カメラマン、ミュージシャンを兼ねながら、かつては限られた人だけが制作していたジャンルに潜り込み、『自分たちも、テレビ局ごっこをするんだ!俺の名前を世界の歴史に刻んでやる!だって俺の人生一度きりだもん!やりたいようにやる!』とばかりに、自分の墓石作りに余念がない。

しかし。それも、私の師匠の言葉を借りれば『精神は繰り返しを嫌い、肉体は繰り返しを好む。』の真理から逃れられないような分岐点に来ているのだと感じざるを得ない。それどころか、日本人を始め、世界の人たちは、少しばかりやり過ぎてしまったかのように思う。人とは、金に目がくらむと、どうやら、その見境をしばし喪うもののようだ。

『光と音の過剰な過負荷攻撃』を食らって、人の神経が休まるはずがない。聴覚と視覚ばかりを常から過剰に刺激されることに、目も耳も疲れ切って、耐えられなくなってしまっているのではないか。

その『精神と肉体への過剰な過負荷攻撃』から、離れようとしている人間たちの出現を感じているのだ。そして、そうした人たちが、密かに街の中で出会い、友と語らい、酒を酌み交わし、彼らの秘密の隠れ家で連帯感を深めようとしているような動きを感じるのだ。

こうなってくると、そうした『前の時代への反動』は、より加速度を付けて進行していく。

もはや、映像と音楽で多数を惹きつけていく行為よりも、余暇に静けさを、五感に溢れ返る神経と肉体を刺激する過負荷攻撃から身を隠し、心許せる友と語らい、安らぎを得たいと感じているのではないか?とさえ思える。

ニワカのトーシロまでが、猫も杓子も、音楽だの映像だの垂れ流しまくりだすと、辟易する程に、世の中はその安易さを嫌悪しだす。流行というものは常に、そうやって入れ代わり立ち代わりを見せる。

諸行無常の響きあり。

もはや、それらは、静かに市場価値さえも喪いつつあるように見える。我が世の春で『映像作りませんか!』とこれまで、素人を騙して、高い映像を暴利な値段で売りつけていた人間たちが『おかしい!金にならない!』と慌てて価格を下げて、バーゲンセールでもしなければ、自分たちの収入を得ることが出来なくなって・・・低賃金労働で、高負荷の作業を賄わなくなければいけない中の淘汰の時代を予感させる。

だから、あんまりやりすぎんな!とXのポストで散々呟いたのに、金に目がくらんだ人間たちは、私の言葉を散々にあざ笑い『金にならない音楽やってる貧乏ミュージシャンなどの言葉なんか信じられませーん。時代遅れの老害老害。』とばかりに罵っては去って行きましたけどね。

君たちは、時の審判を超えていく仕事を残すという事が、どんな事かを知らないのだとしたら、所詮はにわかのトーシロが知ったかぶって、一流になれないまま消えていくしかないだけだったと、暴露しているにすぎない。君は歴史の審判を超えるという事が分かってなかったのではないか。

歴史は、後から証明される。私は、その歴史の真実をここに克明に記録する。君が『俺の名前を歴史に刻む!』のなら、その私の言葉の真意に気づくべきでは無かったのか?

人はその過負荷攻撃に、いつまで耐えられる?と。
金の都合で、見境も無い粗製乱造を繰り返すと、流行の終焉は近づくだけなのだ。

人間は、絶えず視覚と聴覚を刺激されることに、もはや疲れ切って。
君の作るものを見向きもしなくなるだろう。どんどんそこから櫛の歯が欠けたように、人は減っていき、再生回数は低下してくる。

そこに入り込もうとしている人間は、更に時代遅れの人間で、あとはその落穂拾いくらいしか、残ってはおるまい。

私は、それを歴史の上に、文字として残して刻もうと思っていた。
私は音楽家の顔も持つ、歴史研究家であり、文学者だった。

感覚、感覚と騒いでいた狂騒狂乱の時代は、終演を予感させている。
ディスインテグレイション、崩壊。フィナーレは近い。

時代を超えてきた人たちの表現を嘲笑った人間が、歴史に名を刻むなんて、できっこないじゃないですか。時を超えていくためには、それなりの叡智も必要なんですよ。

時を超えていくという事を、証明してくれたロック史上最大の音楽家たちの師匠の一人は『物事、何事もやり過ぎたらあかん』ということを教えてくれた。

その事を知らないニワカの出現を見たら、時代はこれからじゃなくて、終わりなんだよ。その先を考えないと、表現者は生き残れないのよ。

さあ、「映像と音楽」を捨てよ、街に戻ろう。
理性に訴え、歴史に学ぶ時間が来たんですよ。

人に会いに出かけたくなる。

どうせ、それもひと時の事で、人から離れたくなることも出てくるのかもしれないけど。『物事、何事もやり過ぎたらあかん。』さえ忘れなければ。

ひと時、永遠に近いものを、感じられるかもしれない。
海に融け込む太陽が。人の営みの美しさが。

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