ヨシツグ:歴史で磨く会代表☆オンライン歴史講義開催中@フォロバ百

歴史で磨く会代表:ヨシツグ  「オンライン講義開催中‼️」 https://www.j…

ヨシツグ:歴史で磨く会代表☆オンライン歴史講義開催中@フォロバ百

歴史で磨く会代表:ヨシツグ  「オンライン講義開催中‼️」 https://www.jpnhistory.com/ ​ 自分自身の決断力、人間力を磨くのに、歴史は最高の教科書だと考えています。自分で歴史を勉強するだけでなく、5年前から歴史を使った講義をしています。

マガジン

最近の記事

八・一八の政変(1863年)

 孝明天皇は、不愉快だった。勝手に、自分の名前が使われて、勅許(命令書)が出されていたからだ。  孝明天皇には、倒幕の意思は無かった。幕府には、国の方針に関わる重要な案件だけ、彼の同意を取るようにしてもらえれば、それで十分だったのだ。そもそも、何百年と、政治に関わっていない朝廷には、国政を担当する能力も無いのだ。  それを、「尊王、尊王」と言って、一部の公家たちと共に、朝廷を操っている志士達。彼らの行動は、孝明天皇にしてみれば、自分を敬っているとは思えなかった。孝明天皇は

    • 14代将軍徳川家茂の上洛(1863年)

       幕府は追い詰められていた。和宮降嫁の時に約束していた、攘夷の決行を迫られていたからだ。  この時、朝廷を操って攘夷決行の勅命を出させたのは、長州と土佐の藩士達である。特に、土佐勤王党のメンバーは、暗殺という手段によって、朝廷を支配していた。  この攘夷決行の勅命に回答するため、14代将軍である徳川家茂が上洛する。実に、3代将軍徳川家光以来、230年ぶりのことである。  余談だが、幕府は、将軍警護のために隊士を募集、234名が集まった。この隊士の内、24名が、後の新選組

      • 土佐勤王党(1861年)

         時代は少し前後する。  1861年、土佐勤王党が産声を上げる。江戸で遊学していた武市半平太(たけちはんぺいた)は、尊王攘夷思想に感銘、土佐藩を尊王攘夷思想で染め上げるために立ち上げたのだ。  武市は、江戸3大剣術道場の1つで塾頭を務めるほどの腕を持つだけでなく、学問にも才能があった。「自分には、世の中を変える力がある」と信じていた。  武市は、土佐に帰国すると、200名近い同志を集める。土佐勤王党には、あの坂本龍馬も加盟していた。   武市は、土佐藩の藩論を変えるべ

        • 「小説で読む幕末史」が紹介されました

          「小説で読む幕末史」が紹介されました。とても嬉しいです。ありがとうございました。やる気がでます。 歴史で磨く会:戦国 幕末セミナー開催中です。 こちらもよろしくお願いします。 https://www.jpnhistory.com/lecture

        マガジン

        • 小説で読む幕末史
          13本

        記事

          和宮降嫁(1862年)

           「桜田門外の変」の後、老中・安藤信正(のぶまさ)は、孝明天皇の妹である和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と14代将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に尽力する。  幕府と朝廷が協力して国政にあたる体制づくりのためである。これを公武合体という。幕府は、もはや単独で国政を担うのは無理だということを悟ったのだった。  この時、皇女和宮には、すでに婚約者がおり、彼女自身も慣れない江戸に行くことに不安を感じ、断固拒否の態度をとった。  しかし、幕府の要請は執拗だった。孝明天皇は、

          桜田門外の変(1860年)

           井伊直弼が行った「安政の大獄」は、水戸藩・藩士の信念を大きく傷つけた。藩校・弘道館で学んだ彼らは、尊王攘夷思想を強く信じていた。  尊王攘夷思想とは、天皇を敬い、外国人を打ち払うという思想である。この思想は、水戸藩士である会沢正志斎や藤田東湖によって確立され、全国に広まっていった。  水戸藩・藩士の一部の過激派は、井伊直弼の暗殺を計画し始める。彼らは、藩を脱藩し江戸へ向かった。そして、襲撃の機会を待っていた。  その日は、季節外れの雪が降っていた。井伊直弼は、彼の暗殺

          安政の大獄(1858年)

           井伊直弼(なおすけ)には、大老として「幕府の権威を取り戻す」という強い決意があった。そして、それこそが、彼に与えられた天命だと信じていた。  当時幕府は2つの大きな問題を抱えていた。1つは、「第14代将軍を誰にするか」であり、もう1つは、「アメリカと通商条約を結ぶか」である。  直弼は、独断によりこの2つの大きな問題を解決する。まず、彼が押していた徳川慶福(よしとみ)を第14代将軍にした。そして、日米修好通商条約を天皇の許可なく結んだ。  この直弼の独断は、大きな反発

          井伊直弼(なおすけ)の天命

           井伊直弼は、彦根藩13代藩主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれた。直弼は、大した役割は与えられないだろうと達観し、「埋木舎(うもれぎのや)」と自ら名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を過ごした。直弼は、この間、茶道や禅、居合術などを極めようとした。  そんな直弼に転機が訪れる。第14代藩主・井伊直亮(なおあき)とその養子となっていた井伊直元(なおもと)の急死である。直弼が彦根藩15代藩主となったのだ。「天が自分に何をさせようとしているのか?」自らの天命につ

          阿部正弘の憂鬱

           「眠れない」 阿部正弘は、頭が冴えて眠れなかった。「開国すべきか?鎖国を続けるべきか?」悩んでいたのだ。  幕閣の意見も「開国すべし」という現実派と「鎖国を守るべし」という理想派の2つに分かれた。「今の幕府に、ヨーロッパ列強と戦って勝てる力は無いのだから、ペリーの脅しを受け入れて開国するしかない」というのが現実派の意見であり、「神君・家康公が決め、また260年間守ってきた鎖国政策を変えるべきでは無い」というのが理想派の意見であった。  ここで、阿部は思いきった手にでる。

          ペリー来航(1853年)

           老中阿部正弘は焦燥していた。四隻の艦隊でやってきた、東インド艦隊司令長官であるマシュー・カルブレイス・ペリーが、こちらの指示に従わないのである。  これまで幕府は、外国船が日本に来ると「長崎に行ってくれ」と指示し、時間を稼ぎ、長崎では、長崎奉行が彼らの開国の要求に対して「祖法に反する」と言って追い返していた。  ペリーには、この手が通用しないのだ。幕府役人の「長崎に行け」という指示を無視するばかりか、江戸湾に侵入すると勝手に測量を始めた。そればかりか、江戸に向けて数十発

          マシュー・カルブレイス・ペリー

           東インド艦隊司令官であるマシュー・カルブレイス・ペリーは航海の間ずっと考えていた。「日本はどのような国なのだろうか」と。  アメリカ大統領フィルモアから、「日本を開国せよ」という任務が与えられてから航海準備の期間が8か月しかなかった。その間、彼は3万ドルという大金を使って、日本に関する書物を買い集めた。だが、日本に関する正確な情報はわからなかった。  もちろん「アメリカ蒸気海軍の父」と呼ばれ、順調に昇進していったこの男は、失敗するつもりは全く無かった。この男は決めた。

          天保の改革(1841-1843)

           水野忠邦は焦っていた。幕府に金がないのだ。ヨーロッパ列強に対抗するための軍備増強をしようにも、金がなければ出来ない。  徳川家斉(11代将軍)が酷かった。贅沢が好きで、側室も40人を越えていた。そのくせ、政治には興味を示さなかった。  天保の大飢饉もあり、皆が疲弊していた。  水野忠邦は、質素倹約により、幕府財政の建て直しを。風紀の乱れには、贅沢の禁止や取締りの強化を。江戸周辺にある、大名・旗本の土地を取り上げることで幕府の収入増と防備の強化を図った。  この改革は

          薪水給与令(1842)

           江戸末期、開国をせまるヨーロッパ列強が日本に来航していた。  これに対して幕府は、「鎖国は祖法である」として頑なに開国を拒み続けた。それどころか、フェートン号事件(1808)の後は、異国船のうち払いを命じていた。  ヨーロッパ列強に対抗するには、軍事力の強化が必要である。アヘン戦争(1840-1842)により、そう認識した幕府であったが、そのためには、金と時間が必要だった。   そこで、「戦争の口実を与えてはならない」として政策を転換、時の老中首座であった水野忠邦は、

          アヘン戦争の衝撃(1840-1842)

           「大国清が負けただと!」  老中首座の水野忠邦は、そうつぶやくと、考え込んでしまった。  人口3億5千万の中国の大国清が、人口1千万の国イギリスに負けたのだ。イギリスは、植民地であるインドを経由して、2万の軍隊を清に送り込んでいた。地球の裏側から戦争を仕掛けて勝利したのだった。    「戦争になれば、この国は負ける。」  水野忠邦は、賢明にもそう悟ると、次の手を考え始めた。  人、武器、弾薬、食糧を大量に消費する戦争を、地球の裏側から仕掛けて勝利することはあり得ない。これが