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「推し事」から「じぶんごと」に ーー鈴木勝くんと後期Mr.Children (にじさんじのありふれた毎日 そのいち)


はじめに ーー推しの時代に

noteでも、多くの人が「推し」について考えている

「推し」という言葉でアイドルや芸能人を語るようになって久しい。一方で、「推し」という言葉やファン感情の持つ難しい側面も多く耳にするようになった。私の場合、Virtual YouTuber事務所「にじさんじ」をよく見るようになってから、例えばあるVtuberの人が炎上したり、逆に喜んでいたりする様子に巻き込まれたりすることも少なくなかった。

そうした環境で自分も苦しくなっていた時に書いたのが五か月前のこの記事である。実はこの時、自分はにじさんじを見るのをやめようとしていた。そのため、この記事ではいかに推しと「離れるか」が重点に置かれている。

当時の気分を思い出してみる。Virtual YouTuber、特ににじさんじの場合、「夢を叶える場所」という言葉で語られることが多かった。これは素晴らしいことであると思う。一方で、甲子園で優勝した学校の裏には、何万人もの涙が土に沈んでいるように、アイドルの子には必ずしも手が届かないように、「夢は必ずしも叶うことはない」という側面が当時の私の脳裏にはちらついていた。また、Vtuberの人の健康問題や炎上問題が噴出しており、日常的に見ることの限界も感じていた。


色んな縁に支えられ、今では再びにじさんじを少しずつ継続的に見ることができている。今回は、推しから「離れる」以外に、推しと「一緒に過ごしていく」かを、鈴木勝くんや彼の好きなMr.Childrenからぼんやり考えてみようと思う。




ライバーその他関係者の方へ

ANY COLOR株式会社の田角社長はVirtual YouTuberを今後もあらゆる世代に通用する文化にしようと述べていました。だとすれば、それは夢が破れた時に出てくる「負の感情(嫉妬、怒り etc...)」をどう扱うかがどこかで問題になると思われます。個人的には、あくまで作り話のレベルでわざと「悲劇」を作ってみるのはひとつの手ではあると思うのですが…。西園チグサさんの狂気山脈が一例。

創作作品の良い部分は「絶望的な場面でも、殺人でも疑似体験できること」と言ったのは確か村上春樹でしたが、にじさんじの作品を見た時に若干「笑い」「喜劇」の方が多いのは、やっぱりライバーさんが「人」として見られているからなのかな…?(このへん、うまく言葉にできません、すいません)


後期Mr.Children ーー「共にいる」ことの歌

90年代、ミスターチルドレンは売れてしまった自分のイメージやプライベートの問題により、荒れに荒れていた。アルバム『深海』『DISCOVERY』は当時の桜井和寿さんの苦悩が色濃く表れたアルバムだと言われています。

桜井さんがその暗い時期を乗り越え、2000年代に明るい曲を作れるようになった契機は、アルバム『Q』の制作だったと言われている。このアルバムは80万枚しかセールスが伸びず、売り上げ的には失敗だったが、多くのアーティスト(例えばオーイシマサヨシさん)がこのアルバムの曲をモチベーションに活動しています。

アルバム『Q』に現れた90年代ミスチルと00年代ミスチルの大きな変換点は何か。それは「他者や偶然という、予測不可能なものを受け入れる」ことでした。お笑いトリオパンサーさんのラジオ連載でも、触れられています。

90年代のミスチルのヒットソングは「自分探し」という言葉で語られるように、放浪しながら「自分とはなにか」「夢を叶えるためには何が必要か」「自分は偽物ではないか」「社会をよくしよう」という不安に駆られ続けるものでした。

それが『Q』のアルバムでは、曲のコード選びにダーツを使ったり(『CENTER OF UNVERSE』)、家族や友人など近い関係の「他者」のことを歌うようになりました。これは、「自分を認めさせる」という自己承認を離れ、小さくても他者と生きる今を肯定することを選んだとも、とることができます。




実は、他者から影響を受けるということは、「他者に嫌われる可能性」だけではなく、「自分が悪者になったり、愛する人を愛さなくなる可能性」を引き受けることでもあります。

家族だろうが、恋人だろうが他者は他者(『SINGLES』)。だけれどもその中から人は1人を選び、嫌いなはずだったものが好きになっていることがある。日々のごたごたの中で、明確な夢や軸なんてないかもしれないけれど、そんな不安定な自分が「他人」に影響されて考え方を変えることを肯定する。それが後期のMr.Childrenのメッセージのひとつです。


にじさんじの鈴木勝くんとピアノ

にじさんじ所属ライバーの鈴木勝君は、ASMR配信やタイピングの恐ろしい速さで有名なVirtual YouTuberです。元SEEDs一期生で、6人組ユニットRainDropsのひとり。

そんな彼(間違えても彼女とはいってはいけない)が、去年のいつの日からか頻繁にピアノの配信をするようになっていました。

色々調べてみた結果、この「にじさんじ合唱コンクール」で、同じVirtual YouTuberの緑仙(緑髪の子です)から、「ピアノ弾けるんだったら、何か伴奏してみない?」と言われたのがきっかけだったようです。(ソース


あまりに野太すぎるにじさんじ男子勢のGet Wildの歌声(伴奏は鈴木勝君)

ASMR中に、ピアノや演劇の楽しさについて語る勝くん

ポイントは、彼がみんなと一緒に何かをやることに楽しみを見出していることです。ピアノをひとりで弾く人、みんなで弾くのが好きな人、いろんな人がいます。ひとりではできなかったことが、みんなといることで出来ることがありえる。

他の人の言葉に耳を傾けることで、ライバーさんも変化をしている。これに気づくだけで、少し「推し」への目線も変わってくるんじゃないかな、と思います。

終わりに ーー推し「と」自分が変わること

勝君の目標は、Rain DropsのUnder The Moonを3Dお披露目でピアノ演奏すること。

ある大風呂敷を広げがちな哲学者の方によると、今の時代は『自分の考え方にケチをつけないで欲しい』と「みんなが」思っている時代とのことです。そうした時代ではお互いに「不干渉」であることが美徳とされる。いくら考えても、その発言は「杞憂」にすぎないと言われる時代、なのかもしれません。


ところで、先日結婚された星野源さんと新垣唯さんのドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』では、「契約結婚」という言葉が話題になりました。つまり契約なんだから「お仕事」であって、こなされた仕事をやっておけばよい(まあ、ドラマも現実もそうはなりませんでしたけどね!)。でもお互いに遠慮しあう「契約みたいな関係」は果たして、人間らしい交流と言えるでしょうか。たとえばグウェルさんがこの結婚お悩み相談配信で言うように、色々面倒でも、相手と話合いながらも、折り合いをつけるけど、「うまくやる」ことも「あり」だと思います。

でも、ミスチルのYour Songがそうだったように、推しがいることによって、自分の持っていた現実の困難を打ち破ることができるかもしれない。嫌いだったはずの音楽やルールも別の目線から見ることができるかもしれない。相手になぜか不機嫌な日があっても、次の日はニコニコしていることもあるかもしれない。余計なことを言って怒らせる日もあるかもしれない。

そんな何気ない自分と相手の変化を楽しむ見方も、にじさんじやアイドル文化に対してありえていい。「おしごと」を「じぶんごと」として考えもいいのではないか、というのがふと私が思ったことでした。

私の人生もミジンコのようなものですが、にじさんじと出会ってまあずいぶん変わりましたこと…。(緑仙の記事のために死ぬほど歌謡曲を聞きながら)


にじFesではすでに3Dがお披露目されていましたが、鈴木勝くんの3D配信では、またRainDropsが全員出てくれるんじゃないかな…?(ワクワク)



P.S. にじさんじのありふれた日常

今度から、思いついた時だけ「にじさんじのありふれた日常」と題して、Virtual YouTuberと日常がどう結びつくのかを文章にしたときにタイトルにつけるようにします。

なんとなく、月ノさんの言う夢は「叶える」というよりも、夢と「一緒に生きる」ニュアンスが強い、ささやかなものだと思ったので…。


ミスターチルドレンの『Q』には「Everything is made from a dream」という、難しい曲があります。どんな爆弾兵器であっても、それは最初はある科学者の「夢」だったのです。「夢」は叶えることだけがすべてでしょうか。

ミスチルの最新曲「ドキュメンタリーフィルム」は、誰にも記憶されない人生であっても、映画となり得ていいのだというものでした。


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