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「かわいそう」が要る時、要らない時

誰かに対して、「かわいそう」と思う時、
その「かわいそう」は、どういうものだろうか。

学生の頃のアルバイトで、5歳ほど年上の女性の下で仕事をすることになった。
「バイト潰し」と陰で呼ばれていた人で、彼女の下で仕事をすることになったバイトは皆、短期で辞めてしまっていた。
仕事をし始めてすぐに、「バイト潰し」と言われる理由は分かった。
彼女は指示をしていないことを「指示したのに、なぜ、やっていないの?」と言う。「聞いていません」と言い返せば、その倍の小言がかえってくる。指示された通りに仕事をすると、こんどは「そんな指示は出していない」と言う。さらに「あなたは、仕事ができない」と言うようになった。
自分の間違いや不十分な点を指摘されるなら納得がいくが、そうではない。
彼女の言動に問題を感じるものの、彼女と話しても解決しないと思った。その職場で、その状況を相談できる人は見つからなかった。

彼女の言動に一体、どう対応したらよいのか?
答えは、なかなか見つからなかった。
彼女の言動をそのまま受け取らず、受け流して過ごすのが良さそうだが、
そこまで気を遣って仕事をしなければならないのか。
自分の中でモヤモヤした。
嫌なら辞めてしまえばいいとも思うが、それでは何かに負けるような気がした。

彼女と勝負しているわけではないのだが、と考えた時、
彼女の言動の源にあるものが、思い当った。

彼女は恐れているのかもしれない。
自分よりも年下のアルバイトが、仕事ができたり、優秀であったりすることを恐れているのではないだろうか。後輩のバイトに「仕事ができない」と言うことで、自分の恐れを取り除き、安心するのはないか。
おそらく、自分に自信がないのだろう。
「かわいそう」な人だ。
そう思うと、自分の中に渦巻き、ふつふつと煮えることがあったものが、すう―っと引いていった。
彼女の言動は変わらなかったが、私の気持ちは変わった。指示の内容を翻されても、「すみません」「気をつけます」で返してやり過ごすことにそれほどストレスを感じなくなった。
彼女を「かわいそう」な人だと思うと、理不尽だと思える言動も適当に受け流せるようになった。
相手を「かわいそう」だと思うことが、ストレスのある人間関係を乗り切る術になることを、私は知った。

佐藤雅彦さんの著書「新しい分かり方」の中に、「知らせてはいけない思いやり」というエッセイが収められている。

佐藤さんは、築地から銀座へ向かう道を歩いている時、道路の中央分離帯で信号待ちをすることになった。そして、足元の黄色いパネルの上に書かれている文章に気が付く。

「目の不自由な方のものです。モノを置かないで!」

佐藤さんは次のように書いている。

文章で書かれているということは、当然、読める人に対してのメッセージである。逆に、目の不自由な人は、この文章は読まない。それを思うと、すこし安堵するのであった。
生まれつき目や耳の不自由な人は、事故や病気で能力を失った人とは違い、実は健常者が思っているほど、不自由さは感じていない(と思う)。先天的に視覚や聴覚の能力がない場合は、持っているモダリティだけで世界を構築しており、それで充分、成立しているので、まわりが気を遣うことに却って気を遣わせることになってしまう。
 もちろん、道路や駅など、考えられる方策を尽くすことは大切だが、それと「かわいそう」と気遣うことはまったく異なることなのである。彼らにとってみれば、ちっともかわいそうではないのである。私たちと同じに、充分、生きているのである。そんな自分たちがなぜ、かわいそうなのか。むしろ、そう思われることに傷ついてしまう。
でも、である。
社会として、点字ブロックや駅のプラットホームのホームドアの設置やそれらの上手な運用は必要である。そこで、健常者だけが読めるメッセージに意味が出てくる。これなら声高に気を遣っていることを示すこともない。各個人の胸に届ける静かなコミュニケーションである。

(本書p223~224)

誰に対して、どのような状況について「かわいそう」と思うのか。
それは、人それぞれだ。湧き出てくる感情は制御できるものではないに違いない。
ただ、その「かわいそう」には、自分がその対象をどのように見ているのかが反映されている。「かわいそう」は、ストレスから自分を守る盾になることもあれば、誰かを傷つける刃にもなるのだろう。


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