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両目洞窟人間ビデオゲーム “感応”小説集 ・Inspire 3『Citizen Sleeper 』

人は0からものを生み出しているわけではない。自分の体験を元に作り出しているものだ。では、そんな元となる体験はビデオゲームからでも可能なのか? それが両目洞窟人間による、ゲームに感応した実験小説集。

今回はTRPGにインスパイアされた、宇宙ステーションの冒険『Citizen Sleeper』を体験した記憶から生まれる物語。 宇宙のなかで“資本主義の終わり”を描き出す世界観のビデオゲームから、文化も音楽もなにもかも模造品の世界で生きる主人公の日々が生み出される……。

執筆・写真 / 両目洞窟人間
企画・編集・ヘッダーデザイン / 葛西祝

本小説は無料で最後まで読むことができます。購入いただくと、あとがきを読むことができます。


『”ここ” と“終点”の日々』





1・タクロウ・ヨシダ『今日までそして明日から』


 いつものように部屋は薄暗く、外から薄い喧噪が聞こえてきます。
 ねこのたまおさんは目を覚ますとまず煙草を吸いました。
 カーテンを開けると、そこからは建造中の宇宙船が見えました。
 宇宙船は造船所で一日中、休むことなく作られ続けています。
 あちこちで火花が散り、部品が組み立てられ、人々とねこが行き交っていました。
 じりじりと煙草を吸い減らしながら、たまおさんは今日は何人くらいお客さんが来るだろうと考えました。
「今日も忙しいだろうにゃ」と思い、壁掛けモニターのスイッチを入れるとニュースが流れます。
「今月は”パシフィック”の誕生から100年目です」とねこのキャスターが言い、大きな宇宙ステーションの映像を映し出しました。
「人々の貿易拠点や惑星移動のハブステーションとして利用されています。しかし近年では増えすぎた住人の居住区の問題や、治安の悪化が懸念されています」
 たまおさんはニュースを聞きながら、朝食のトーストをかじりました。
「次のニュースです。猫が品種改良で喋り、立ち上がるようになってから300年が経ち、それを記念したパレードが行われました」
 たまおさんは洗面台で鏡に映る自分を見ます。
 目の下のくまが濃くなった気がします。

 タブレットにたくさんのメッセージが入っています。
 オーナーから“”入金”の話したいから連絡ちょうだい”とメッセージが入っていました。
 たまおさんはため息をつきます。
 家を出て、違法改築で複雑化したアパートの廊下を歩いていきます。
 アパートの外を見ると、街にはいつも通り、人混みが川のように溢れています。
 この辺りは建物がぎっしりと集まり、その間を人々が歩いているのです。
 地元の人。遠くから来た人。造船所関係の人。男に女。大人に子供。人。ねこ。
 迷路のような廊下ですが、子供の頃から住んでいるたまおさんは目を瞑っていても歩ける自信がありました。
 「地元の友達はみんなどこかへ行っちゃったな」とたまおさんは思いました。
 中央街に行ったやつ、”終点”に行ったやつ、ヤクザになったやつ、ホームレスになったやつ、何をしているかわからないやつ、別の惑星に行ったやつ。
 みんなが住んでいた部屋を通り過ぎていきます。
 酸っぱいような重たいような匂いがする場所を通り抜けます。
 薬物をやって廊下に寝転んでいる人もいます。
 彼らはギロリとたまおさんを睨むので、足早に立ち去ります。
 廊下にいくつか張り紙がしてあります。大半は「ゴミ出しの日」の案内と他愛もないものですが、そのうちの一枚がたまおさんの目に止まります。
「”イミテ・アジア地区”の権利を守れ」
 声をかけてくるご近所さんに「こんにちにゃ」と挨拶をし、たどり着いたはアパートの一階。そこにたまおさんのお店があります。
 見上げると電線が絡み合っていました。
 シャッターの鍵を開け、店の明かりをつけます。
 青いタイルの壁と黄ばんだメニュー。
 それほど大きくない店内にはカウンター席とテーブル席がいくつか。
 天井の扇風機は青い羽根を回転させています。

 店名は『喝采』。
 店名はキョクトウ・クラシック好きの前の店長がつけたものです。

『喝采』は中華料理屋です。
 と言ってもたまおさんは「中華」というものをちゃんと知らず、出す料理も味も前の店長からの見様見真似でした。
「一度だけ来た老人が中華出身だったよ」と前の店長は言いました。
「これは中華じゃない。日本の中華の味だって言って泣いてたよ。俺等が作ってるのはどうやら"日本の中華料理"らしいぜ」前の店長は笑いました。
「”日本の中華”…?それでいいのかにゃ」
「まあ、どれも嘘っぱちだけどな。言ってみりゃこの『パシフィック』は全部嘘だ。嘘の中華に嘘の重力に嘘のクラシック。全部嘘だらけの世界に生きてるんだ」


 たまおさんはカウンター向こうの厨房に入り、壁にかけられたボリュームのつまみを回します。
 天井に吊り下げたスピーカーから音楽が流れ始めます。
 前の店長からの名残で、店に入るとまずキョクトウ・クラシックを流すのが儀式のようになっていました。
 スピーカーからはシンイチ・モリの『冬のリヴィエラ』が流れています。
 たまおさんはこの曲が好きでした。
 鼻歌で口ずさみながら、調理場を整えていきます。
 
 
「もうお前一人でやっていけるな」と言って、前の店長は冷凍睡眠に入り、違う惑星に旅立ちました。
 たまおさんはどこか遠くの宇宙で漂う船を思い浮かべました。
「どこかの知らねえ惑星で、中華料理を作りたくなったんだ。"ここ"じゃないどこかでな」
「かっこつけてるにゃ」
「お前もかっこつけたくなる日がくるよ」
 前の店長が残した店をねこ用に色々と改装し、立派に切り盛りするようになって何年も経ちました。
 遠い星に向かい、宇宙船の中で眠り続ける店長よりも、自分の方が年をとってしまったかもな、とたまおさんは思いました。
 もうすぐ精肉業者がやって来る時間です。
 冷蔵庫にある人工肉とパシフィック原産の野菜をチェックします。
 今日は何人くらいお客さんが来るだろう。
 業者が持ってくる量のことも考えて、今日のランチメニューは青椒肉絲なんてどうだろう。

「店長ー。遅れて申し訳ないっす~。人混みがヤバくて」
 ホールスタッフのフルカワさんがやって来たのは開店の少し前です。眼鏡と黒のシャツに黒のスカートといういつもの姿で来ました。
「あれ作ってる間は仕方ないにゃ」とたまおさんは造船所の方向を指さしました。
「じゃあ、今日のランチは青椒肉絲ですにゃ。よろしくです」
「はーい。よろしくでーす」
 そういって『喝采』のネオンサインを点灯させ、店を開くとわらわらと客が入ってきました。
 
 
「3番、ランチ2!1番、ランチ1!餃子1!」」フルカワさんが叫びます。
「はいにゃー!」たまおさんが自分の身体よりも大きな中華鍋を器用に振りながら答えます。
 フルカワさんが次々と注文を取り、たまおさんは次々と料理を作っていきます。
「3番、ランチ2にゃー!」と青椒肉絲とライスとスープのセットを二つお盆に載せると、フルカワさんがテーブルに持っていきます。
 体中をオイルで汚した労働者がひたひたの油に浸した青椒肉絲を食べます。
 一口食べると労働者は顔をほころばせます。
 たまおさんの青椒肉絲は大量の油と特製の中華調味料をどさどさ注ぎ込んでいるのも特徴でした。人工肉の独特の臭みを飛ばしてパンチのある味になるのです。

「なんだてめえやんのか!」
「上等だよ!やってやるよ!」
 店内で男たちによる喧嘩が起こり始めましたが、これもいつものことでした。
 たまおさんは壁にかけてあるフライパンを叩き、大きな音を出します。
「喧嘩は外でやってくれにゃ!他のお客さんの迷惑になるからにゃ!!」とたまおさんは言いました。
 フルカワさんが二人を掴んで、外に放りだします。
「フルカワさん、相変わらず腕が立つにゃね」
「これくらいのトラブルなら時給内っすから」
 店の外に投げ飛ばされた二人は、再び殴り合いを始めました。
 喧嘩は激しいものでしたが、店の外なので、たまおさんは気にしませんでした。
 店の中で暴れさえしなければ、他で何が起ころうがたまおさんにはどうでもいいのです。
 

 ランチの時間が過ぎると徐々に店内が静かになっていきました。スピーカーからはユミ・アライの『ひこうき雲』が流れているのが聞こえると、たまおさんはお昼のピークが過ぎたと思うのでした。
 段々とお客さんの流れが緩やかになっていく中、音楽に合わせてたまおさんは料理を作っていきます。
「たまおさん」年季の入った作業着を着たおじさんが話しかけてきました。
「あ、デミおじさんにゃ」
「今日も美味しかったよ。いつも器用に鍋を振ってるね」
「慣れましたからにゃ~。今からまた造船所に戻るのにゃ?」
「そうだよ。色んな現場に行ったけども、今回は本当に大変だよ。本当、期日以内に終わるのかって話よ」
「忙しいのかにゃ?」
「無理に建造を終わらそうと、いま素人まで現場に入れてておかしいよ。ちっちゃいミスだらけでさ……。あのさ、たまおさん」
「どうしたにゃ」
「よかったらさ、デモ参加してくんねえかな。今日もあるんだけどもよ、一人でも多くの人に参加してほしいんだ」
「……ごめんなさいにゃ。忙しくて参加はできないにゃ」
「そうか、変なこと言って悪かったな。そんじゃ。美味しかったよ」


 時計を見ます。
 もうすぐランチタイムも終了かな、とたまおさんが思ったとき、「いらっしゃいませー」とフルカワさんの声が聞こえてきました。
 店のドアの前に眼鏡をかけ作業着を着た男性が立っていました。
 男は人差し指を立てて、一人だということを伝えます。
席に座ると「青椒肉絲セットで」と言いました。
 たまおさんが料理をしながら、ふとテーブルを見ると男は見慣れないピンク色の物を手に持っていることに気づきます。
 それはぼろぼろの紙の本です。
 珍しいにゃ。
 たまおさんはそう思いました。
 男はトレーが来ると、ショルダーバッグに本をしまい、青椒肉絲を食べ始めました。
 食事をしている最中、男は表情を一切変えることはありませんでした。
 食べ終わると、男はため息をつき、周囲をぐるっと見渡しました。
 それから、何かほっとしたような表情を浮かべ、ショルダーバッグからまたピンク色の本を取り出して、それを再び読み始めました。
 フルカワさんがたまおさんにアイコンタクトをします。
(あの男、長くないですか?)
(うにゃ)
 意を決してフルカワさんが「あの、店を閉めますので……」と言うと、男はピンク色の本をショルダーバッグに収め、レジでタブレットをかざしてお金を支払い、店を出ていきました。
「ごちそうさまでした」
  店内にはタクロウ・ヨシダの『今日までそして明日から』のキョクトウ・クラシック音楽と、皿洗いロボットアームが皿を洗う音と天井の扇風機が回転する音が響いていました。

 
「あのお客さん、長かったですね」フルカワさんが言います。
「まあ、長居されるのは困るにゃね」
 お昼の営業を終え、たまおさんとフルカワさんは、まかないの青椒肉絲を食べながら話し込んでいました。
「さっきのお客さん。紙の本を読んでましたね」フルカワさんが口を開きます。
「にゃー、珍しいにゃ」 
「紙の本なんて、二、三回くらいしか実物見たことないっすよ」
「私も全然ないにゃよ~」
「私、紙の本どころか、電子書籍も読んだことないかも」
「一冊も?」
「はい、一冊も」

 外から人々の叫び声が聞こえてきました。
「イミテ・アジア地区を守れ!」「我々は生きている!」「税金を下げろ!」「生活を保証しろ!」
 デモ隊のシュプレヒコールでした。
 たまおさんはあの中にデミおじさんもいるのかにゃと思いました。
 スピーカーからはマリヤ・タケウチの『プラスティック・ラブ』が流れていました。
 
 
 夜になれば、『喝采』は営業を再開します。『パシフィック』に本当の意味の夜はないのですが、住人達は生活のリズムを保つために大まかに一日を刻んだ時計を使用しています。
「結局のところ、俺たちは本当の意味の朝と夜は知らないんだ」と前の店長は言いました。
 たまおさんは本当の意味の朝と夜は知りません。
 たまおさんが見上げると、アジア地区を照らす人工的な明かりの向こうに、透明のガラスの天井。その向こうには宇宙の暗闇と光る星々が広がっています。 
 夜もフルカワさんがスタッフで入ってくれます。
『喝采』はいつも人手不足なのです。
 夜になると"晩ご飯"を食べに人々がやってきます。
 たまおさん達はまたせわしなく働きます。

「お疲れ様でしたー」日給をもらったフルカワさんが出ていきます。
 営業を終えると、たまおさんは店内の掃除と帳簿への記録を行います。売上から材料費、消耗品費や人件費、光熱費に家賃を計算するとため息が出てきました。
 計算をしながら、朝、オーナーから”上納金”の連絡があったことをようやく思い出し、タブレットを取り出して、オーナーに電話をかけます。
「やっと電話してくれたやんか。期日までにいつもの”入金”また頼むわ」オーナーが言います。
「今日は忙しかったのにゃ」
「いつものことやろ。それに造船所で船作ってるから、いま儲かってるんちゃうの」
「いえいえ。それほどですにゃ」
「毎回言うけども、これがイミテ・アジア地区でやっていく最良の方法なんや。君も仕事を急に失いたくないやろ。」
「……はいにゃ」
「そういえば、”うち”のフルカワちゃん、ちゃんと働いてる?」
「すごくよく働いてくれてますにゃ」
「トラブル対応とかもしてくれてるか?」
「私には対処できないトラブルはフルカワさんがやってくれてるにゃ」
「君らねこちゃんは、言うてもねこちゃんやから、人間に立ち向かうのも限度あるもんな」
「まあ、そうにゃ」
「フルカワちゃん、あの子おったら安心やろ。あんたの店やったらよう見るんやないの。ちぎっては投げ、ちぎっては投げって。だからどんどんフルカワちゃんに頼るんやで。あんな子を最低賃金で働かせれるんは、わしの”口利き”があってやからな」
「もちろんわかってますにゃ」
「君もやけど、フルカワちゃんも路頭に迷わせたくなかったら”入金”お願いやで」
「はいにゃ」
「じゃあほなな~」
 電話を切ると、たまおさんはまたため息をつきました。
 店を閉めればもう真夜中と言っていい時間です。
 家に帰ると煙草を一本吸います。
 窓の外からは近所の電子パチンコ屋の看板から赤と青の照明が入り込んできます。
 煙草を一本吸う間、赤と青の光の中、外をしばらく見ます。
 それからシャワーを浴びて、お酒を一杯だけ飲みながら、壁掛けモニターでドラマを見ます。
 お気に入りのドラマはシーズンごとに様々な惑星に行ってはそこで起こる事件を解決する探偵ものです。
 実際にそれぞれの惑星にロケに行っているだけあり、多彩な場所が出てくるのがドラマの見所の一つでした。
 知らない惑星。
 ここではないどこか。
 たまおさんはぼんやりとそれを見ています。


2・ヒロミ・オオタ『木綿のハンカチーフ』



 たまおさんは目を覚ますと煙草を一本吸います。
 カーテンを開けると宇宙船で、デッキが新たに増築されています。これから建造がもっと慌ただしくなるのを感じました。
 そんな風景を見ながら、いつものように『喝采』へ向かいます
 店ではアキラ・フセの『君は薔薇より美しい』が流れています。
 今日のランチをしばらく考えて「回鍋肉」に決め、仕込みを開始します。
 しばらくするとフルカワさんがやって来ます。
『喝采』のネオンサインを点灯させ、店を開けると、また怒濤のようにお客さんがやってきます。
 宇宙船建造の労働者なのだろう客が増えています。
 たまおさんは厨房を文字通り駆け回り、中華包丁で具材を切り刻み、燃えさかる火を飛び越え、自分より大きな中華鍋を振り続けます。
 フルカワさんからの注文が減って、キョクトウ・クラシック音楽が聞こえ始めると、今日もランチを乗り切ったとたまおさんは思うのでした。

 ランチタイムが終わるぞと思っていた頃です。
「いらっしゃいませー」とフルカワさんが言うので、入り口に目をやると、またあの眼鏡の男性が立っていました。
「回鍋肉ランチを1つ」と言います。
 そしてまたショルダーバッグからピンク色の表紙が目立つ紙の本を取り出して読み始めます。
 男の元に回鍋肉ランチが運ばれると、表情を変えずに食べ進めます。
 皿を空にすると、また紙の本を取り出して30分ほど読むのでした。
 フルカワさんがため息をついています。
「あの、そろそろ店を閉めますので」
「ああ。また、ごめんなさい」男は本をしまい、レジで支払いを済ませます。


「にしても、あのお客さん、また紙の本を読んでましたね。あんな分厚いのよく読むし持ち歩きますね」
「読書が好きなんだろうにゃー」
 店を閉め、まかないを二人で食べながら、あの眼鏡の男は何者なんだろうと話し込んでいました。
「…あの人、また来るかもですね」
「そうかにゃ」
「二日連続で来たら、三日目もあるでしょ。店長、がつんと言ってくださいよ。私じゃまた来ますよ」
「じゃあ、次来たらがつんと言うにゃ」
 外から人々の叫び声が聞こえます。
「死ね!」
 そして銃声が二発ほど聞こえました。
「またヤクザの抗争かなんかですかね」
「まだ死にたくないにゃね」スープを飲みながらたまおさんは応えます。
 スピーカーからはユウゾウ・カヤマの『海、その愛』が流れています。

 ふたりの予想どおり、眼鏡をかけた男性は次の日もやって来ました。
 またいつものようにランチタイムが終わりかけの時間に来て、ランチを頼んで、食べ終わると読書をし始めました。
 フルカワさんはため息をついています。
 それを見てたまおさんが声をかけようとした時です。
 「兄ちゃん、ご飯、食べ終わったんやったら、はよ帰ったらええんちゃうの」そうカウンター席に座っていた男が突然立ち上がって、眼鏡をかけた男性に近寄りました。
 その男はあまり歯があまりありませんでした。
 読書をしている男は怯えています。
「なあ、どないやねん。なんか言うたらええんちゃうか」
 読書をしている男は黙っています。
「他のお客さんに迷惑をかけるなら、出ていってもらうにゃ!」
 たまおさんはフライパンを何度か叩きました。
「こいつが長居しているから、店長の代わりに注意してやって——」歯があまりない男は言い終わるかどうかの瞬間、フルカワさんが男の顎に2、3発ほど拳を叩きつけ、前蹴りで店の外に蹴りだしました。
「出禁にするにゃよ!ほら出ていくにゃ!」
 たまおさんは歯のない男に怒鳴りつけると、そのまま読書をしている男も逃げるように帰っていきました。男は出ていく前に店長にお辞儀をしました。
 フルカワさんがシャッターをおろして、まかないを食べはじめます。
「相変わらず、強いにゃね」
「それほどっすよ。まあ、あの歯のないおじさんが言うように、あの人がさっと帰ったらいいだけなんですけどね」フルカワさんが言います。
「まあにゃー」
「なんで、これほど言っても頑なに、ここで読書していくんっすかね」
「そればっかはわかんないにゃね」
「店長なんで、さっきあの男の人を守ったんっすか」
「あそこまで言われなくてもいいと思っただけにゃ」


「俺がいつも何考えて働いてるかわかるか?」前の店長はまかないを食べながら言いました。
「ええ……なんだろう。お客様の幸せとかかにゃ」
「お客様の幸せなんてくそくらえだよ。お前もわかってるように大半の客はクソだ。飯を食って金を払ってくれるクソだよ」前の店長は笑いながら言いました。
「じゃあ、何を考えてるのにゃ」
「何にも。一日、一日が無事に終わればいいって思ってる」
「それだけにゃ?」
「それだけだし、その”それだけ”は尊いだろ?トラブルの無い日なんてほぼ無いんだから。無事に終わるに越したことない。それだけを祈ってる。……ただ、」
「何かあるのにゃ?」
「その過程で、いい店が作れたらいいとは思うけどな。誰かにとって居心地のいい、いい店がな」前の店長はスープを飲みながら言いました。「クソみたいな誰かにとってな」


 その日も男はランチタイムの終わり際にやってきて、ランチを食べて、いつものように読書をしていました。
 フルカワさんがため息をついて話しかけようとした時です。
「いつもなんの本を読んでるんですにゃ」
 つい、たまおさんは男に話しかけてしまいました。
「あ、ごめんなさい」と言って、男は出ていこうとしました。
「いや、出ていかなくていいのにゃ。ただ、何の本を読んでるか気になってにゃ」
「出ていかなくていいんですか…」男は驚いた顔をしています。
 フルカワさんも驚いた顔をしています。
「はい。単純に何を読んでるか気になって。その…世間話だにゃ」
「じゃあ、あの……ハルキ・ムラカミって人が書いた、だいぶ昔の本を読んでいます」
「へえ。そのハルキさんって人の本は面白いですかにゃ」
「面白い……かはわからないんですけども、いま読んでるのが、地球にあった日本って国の、東京って街の地下を探検するって話でして」
「昔の本って読みづらかったりしないのかにゃ」
「まあ、文章も今とは違いますし、当時のことを想像しなきゃいけない苦労もあったりはするんですけども、でもなんていうんでしょう、文章が上手いのか意外と読みやすくて、そんな話でもないはずなのに、妙に心地いいんですよね。あ、語ってしまってすいません」
「いえいえですにゃ、にゃんでそんな古い本、読もうと思ったのにゃ」
「今、あそこで宇宙船作ってるじゃないですか。その仕事をしてるんですけども」男は店の外を指さしました。
「私は早朝、っていうかまだ全然深夜みたいな時間から昼までのシフトで働いていて、だからこれが仕事終わりで」
「うわー大変だにゃ。だからランチ食べててもゆったりしてたのにゃ」
「はい。あとは寝るだけで」
「宇宙船作るのって、危険とかはないのかにゃ?」
「まーそれがあるんですよね。正直命の危険もあったりして。そういうのから、少しでも仕事をしている自分ってのから解放されたくて、なんか無いかなって思ってたときに、部屋の片隅にあった祖父の本が目にとまって、それで本を読み始めて」
「そうだったのにゃ」
「正直、この辺りで読書できる場所って全然無くて。ほら、治安も環境も悪いでしょう。まあ、僕が住んでるところも大概ですし、ここも本当はしちゃだめなんでしょうけども」
「あまり嬉しくはないにゃ」
「あはは……でもここは店内BGMとか雰囲気が好きで、ご飯食べたあと、本を読むのにもちょうどよくて。色々とこの付近のご飯屋に行ったんですけども、どこもだめだったり合わなかったりしました。でも何よりこんな風に居心地がいいのは初めてで。それで、ついつい読んでしまったんです」そういって男は苦笑いしました。
「居心地がいい場所だったのにゃ?」
「ええ、とても」
 スピーカーからはタツロウ・ヤマシタの『SPARKLE』が流れていました。


 それから男はランチを食べたあと、堂々と読書をするようになりました。
 フルカワさんはいい顔していませんでしたが、たまおさんが許していることですし、店長はたまおさんなので、ため息をついて許すことにしていました。
 男はランチを食べ、それから読書をして、どこかへ帰って行きました。
 いつも「ごちそうさまでした。本当にありがとうございます」と男は言いました。
 まかないを食べながら「店長いいんですか?」とフルカワさんは言いました。
「いいんだにゃ。居心地のいい、いい店を私たちは作れてるってことだにゃ」


 男はたまに本を閉じて、たまおさんに話しかけました。
 男はボリスと名乗りました。
 二人は会話をしました。
 二人とも『パシフィック』育ちだったので話が早かったのです。
 これまでの人生や生活の話。
「僕はもう家族がいなくて」ボリスが言います。
「私もそうですにゃ」
「友達もいないんですよね」
「私もそうですにゃ」
「仕事をやって帰るだけの日々ですよ」
「私もそうですにゃ」

それから聞いている音楽や見ているドラマの話をしました。
「毎シーズン別の惑星に行くのにゃ」
「それで最新シーズンはどんな惑星に?」
「故郷の火星に帰るって話で、火星ってあんなに緑が豊かな惑星だとは思わなかったにゃ」
「へー。見てみようかな」
 ボリスはトラムの”終点”に住んでいると言いました。
 そこはたまおさんの店がある"イミテ・アジア地区"よりも、さらに治安が悪い場所として知られていました。
「だから本を読むようになったんですけどもね」
「それはなんでにゃ?」
「祖父が地球から沢山本を持ち込んでいて。金がなくて何にも娯楽に触れられないから、そればっかり読んでたんです」
「周囲と浮いたりしなかったにゃ」
「そりゃしましたよ。というか今もですね」ボリスは苦笑いしました。
「”終点”で生活するのは大変じゃなかったにゃ?」とたまおさんは聞きます。
「ええまあ」とボリスは苦笑いしました。
 それから「でも"ここ"で暮らすのはどこも大変でしょう」と付け加えました。
「まあ、そうだにゃ」とたまおさんは言いました。
「だからこそ、ここの雰囲気にひかれたのかもしれませんね」
「うにゃ?」
「なんていうか、ここはやわらかいんですよ」
「フルカワさん、やわらかいかにゃ?」
「さあ。でも働きやすい職場っすよ」フルカワさんが言います。
「ほら」ボリスが言います。
「忙しいっすけどね」フルカワさんは付け加えました。
 
 
 食事をしてから30分もすれば、ボリスは帰って行きました。
 どれだけ会話が盛り上がっても、30分で切り上げました。
 ボリスとは休日、会うこともありませんでした。
 常連客と店長という関係を超えることはありませんでした。
 それでも二人は(時折フルカワさんも交えて)ときどき喋りました。
 

 帰宅したたまおさんはタブレットでニュースを眺めていました。
「『パシフィック』での殺人件数が過去最高に」
「デモ、過激化の一途へ」
「広がる貧富の差。貧困地区のトラムは大混雑」
「人口過密の問題。求められる他惑星への移住」
 気の滅入るニュースを眺めているとメッセージが入りました。オーナーからです。
“今月も”入金”ありがとうね~”
 続けてもう一件。
“たまおちゃんは働き者だね” 
 たまおさんはため息をつきました。
 

「あの船が完成すれば、抽選会が行われるんです」ボリスは言いました。「どこか遠くの惑星に行く乗員を決める抽選会があるんです」
「それに応募しようとしてるのにゃ」
「はい。製造に携わった人間ならばチャンスがあるそうなので。まあ、当たる確率は低いでしょうけども。けども……」
「けども?」
「もしかしたら、"ここ"から抜け出すチャンスになるかもしれない。日々、日銭を稼いで生きていくだけの生活からは抜け出せるかもしれないんです」
「でも……遠くの惑星に行って開拓をするのだって、物凄く大変じゃないかにゃ」
「大変でしょうね」
「日銭を稼いで生きていくよりも、もしかしたら大変かもしれないにゃ。それでも大丈夫なのかにゃ」
「"ここ"を離れることが出来るんです。”ここ”は全てがまがいものでできています。そう思いませんか」
「まがいもの?」
「我々の住んでる”ここ”は誰かが作った世界です。朝も夜も、重力だって作られたものだし、僕がいま食べた肉だって誰かが作った人工物です。”イミテ・アジア地区”だとか”中央街”とか”終点”だとか言うけども、どこも何も変わらない。まがいものばかりです」ボリスは言います。
 スピーカーからヒロミ・オオタの「木綿のハンカチーフ」が流れ始めました。
「いま流れている音楽も、地球にかつて存在した日本の音楽らしいじゃないですか。でも、これって本当に”オリジナル”なんですかね。何百年も経って、誰かがカバーしたものなのか、リミックスしたものなのか、オリジナルの歌手そのものなのか。私たちは何を聞いているんでしょうね。僕には何もわからない」


「まあ、どれも嘘っぱちだけどな。言ってみりゃこの『パシフィック』は全部嘘だ。嘘の中華に嘘の重力に嘘のクラシック。全部嘘だらけの世界に生きてるんだ」前の店長はたまおさんに言いました。
「……そうだから、店長は『パシフィック』を捨てるのにゃ?別の惑星に行くのは本物だからなのにゃ?」
「さあ。知らないよ。ただ石が転がってるだけかもしれないし、砂が舞ってるだけかもしれない。そんな誰もいない惑星が”本物”かなんてわからないよ」
「じゃあなんでなのにゃ」
「俺は嘘をつくのにも、嘘をつかれるのも飽きたってだけだよ。本物かどうかなんてどうでもいい。嘘じゃなかったらいいって思った。だから別の惑星に行くってだけだよ」
「……」たまおさんは押し黙りました。
「でもよ。たまお。逆に言えばな、パシフィックは嘘だからいいんだよ。嘘を突き通せば、それもいつしか日常になるんだからさ」
「……日常に?」
「俺は飽きちまったけどもよ、お前はお前の日常を生きろってことだよ。それが嘘から始まったもんでもいい。本当だとか関係ない。お前はお前の日常をただ生きていったらいいんだよ」
「……」
「……ってのは、冗談~」
「うにゃ」
「俺が他の惑星に行く本当の理由は、”どこかの知らねえ惑星で、中華料理を作りたくなったんだ。"ここ"じゃないどこかでな”」前の店長はいい声で言いました。
「かっこつけてるにゃ」
「お前もかっこつけたくなる日がくるよ」前の店長は言いました。


「店長は"ここ"から離れたいと思ったことはないですか。本当の世界を見たくないですか」ボリスが言います。
「私は……」たまおさんはしばらく口ごもりました。「……まがいものだとしても、私には私の日常とその仕事があるのにゃ。まがいものだとしても"ここ"での生活しか私は知らないにゃ」
「"ここ"を出たいと思ったこともない?」
「そりゃ思ったにゃ。何度も思ったにゃ。でも、私はこの生活しか知らないし、私はこの仕事しか知らないし、この生き方しか知らないのにゃ。それにもう、私は”ここ”でやることが沢山あるにゃ。私は"ここ"を出て行くなんて、現実的じゃないのにゃ」
「……そうですか」
「でも……ボリスさんが、出て行きたいと思うならば、それは応援するにゃよ。……抽選当たればいいにゃね」
「ありがとうございます」
「”ここ”を出るチャンス掴めればいいにゃね」
「……まあ、まずは船を作り終えなきゃいけないんですけどもね」
 店長とボリスは笑いました。
「……あ、そうだ店長。読書には興味ある?」
「忙しいから、全然しないにゃ」
「読書はいいよ。……どこにも行けない店長にこそおすすめだよ」
「そうなのかにゃ」
「いま読んでる本、読み終わったら店長に貸しましょうか?」
「え、いいのかにゃ?」
「ぜひぜひ。店長にぜひ読んでほしいし。それに店長の感想も聞きたいし」ボリスは言いました。
 ボリスはその後、レジでタブレットをかざしてお金を支払い「それじゃ。また明日」と言って、店を出て行きました。


3・ ナオミ・チアキ『喝采』



 たまおさんはけたたましいサイレンの音で目を覚ましました。
 カーテンを開けると、建造中の宇宙船が燃えているのが見えました。
 宇宙船からもうもうと黒煙がたちこめていました。
 胸騒ぎがしました。
 黒い煙は『パシフィック』のガラスの天井に溜まっていきます。
 たまおさんは時計を見て、ボリスのシフト時間内なんじゃないかと思いました。
 大丈夫なのかにゃ?と思っても、たまおさんはボリスの連絡先を知りません。
 不安が増幅する中、宇宙船から火柱が上がり、少し遅れて爆発音がし、アパートが揺れました。 
 
 
 
 たまおさんはその日、ボリスがいつものようにお昼の少し過ぎた頃にやってくるのを期待していました。
「宇宙船が燃えてしまって、大変だったんですよ」なんて話をしにくるボリスを期待していました。
 火事の影響で、ランチの時間帯になってもお客さんは少なめです。
 キョクトウ・クラシック音楽もよく聞こえます。
 餃子定食も余っています。
 フルカワさんも暇そうにしています。
 お昼が過ぎて、少ないお客さんがさらに減っていきます。
 いつもならこの時間ぐらいにボリスはやってくるはずです。
「いらっしゃいませー」とフルカワさんが言います。
 入り口を見ると、デミおじさんが立っていました。
「たまおさん、たまおさん。見たかあの事故」とデミおじさんはたまおさんに駆け寄って喋りかけてきます。
「デミおじさん!大丈夫だったかにゃ」
「俺はちょうど今日は昼勤だったからよ、事故起きた時は大丈夫だったんだけども、ありゃ大変な事故だぜ」
「やっぱそうなのかにゃ」たまおさんは顔を曇らせます。
「どうかしたのか?」
「いや、いつも来るお客さんが来なくてにゃ。その宇宙船を作ってた人なんだけども」
「なんていう名前だ」
「ボリスって人にゃんだけども」
「あの事故で死んだみたいだわ」デミおじさんはたまおさんに言いました。

 
  タブレットを開くと、宇宙船の事故の情報がいくつも流れてきました。
 "死傷者多数"という言葉が見えました。
 あの事故で死んだみたいだわ——デミおじさんの言葉がたまおさんの脳裏にすっかりこびりついていました。
 いつものように煙草を一本吸って、シャワーを浴びて、冷蔵庫からお酒を取り出して、探偵もののドラマを見ようとしましたがその言葉が頭を離れることはありませんでした。
 ベッドで横になり、目をつむりましたが、まぶたの裏に燃えている宇宙船が浮かびました。
 たまおさんはタブレットを開き「雨の音」を流すことにしました。
『パシフィック』で生まれ育ったたまおさんは雨を見たことはありません。
 ドラマで見たことあるくらいです。
 けれど、その音を聞くと心が何故か安らぎました。
 雨の音を聞きながら目をつむりました。
 まぶたの裏で宇宙船が燃えています。
 雨が降り、宇宙船に降り注ぎます。
 宇宙船の火が雨で消えていきます。
 その消火された宇宙船のデッキにボリスが立っていて、こちらに向かって手を振っています。
 起きた時、それが夢だとはしばらく気がつきませんでした。
 たまおさんはカーテンを開くと、宇宙船の火はもう鎮火していましたが、デッキには誰もいませんでした。


 一週間ほどは事故の影響で客足も遠のいていて、たまおさんは経営がやっていけるか心配していましたが、あっという間に客足は戻り、また前のように忙しい日々が戻ってきました。
 宇宙船の建造は事故以前よりも勢いがあるというか、なんだか躍起になっているようです。
 それは期日の問題か、内部で何かが通達されたからか、報酬が絡んでいるのか、部外者のたまおさんにはわかりませんでした。
 とにかくたまおさんにわかるのは、宇宙船の労働者が昼夜やって来て、飲み食いしていくので、忙しい日々を過ごしているということだけです。
 忙しいのは大変でしたが、有り難いことでもありました。
 お金の心配をしないで済むだけでも『パシフィック』ではありがたいことなのです。

 
 
 ボリスが長居することもなくなったので、30分早くまかないが食べれるようになってしばらく経ちます。
 フルカワさんもボリスのことを口にすることはありません。
 代わりに「最近の熱くてヤバい電子パチンコ台」の話をします。
「”海”が熱いんっすよ!」
 たまおさんは「にゃははは」と笑いましたが、寂しい顔をしてしまいました。
 フルカワさんはその顔を見逃しませんでしたが、言葉にはしませんでした。

「たまおさん、ごちそうさん!今日も美味しかったよ」ある日のランチタイム、デミおじさんがたまおさんに話しかけます。
「あ、デミおじさん。…あの!ちょっと待ってほしいにゃ」
「うん?どうかした?」
「あのにゃ……前に事故で亡くなったボリスの住所ってわかるかにゃ」 
「……そのボリスってやつとは仲がよかったのか?」
「いや。そうじゃないけども……」


『喝采』が休みの日、たまおさんとフルカワさんはトラムに乗っていました。
「フルカワさん、休みの日にゃのに、ありがとうにゃ」
「帰りに”海”打つならいいっすよ。でもなんで一人で行かないっすか?」
「”終点”は危ないから、フルカワさんがいた方が安心するし、それに」
「それに?」
「……多分、確かめるのが怖いのにゃ」
 トラムの警笛が鳴り、大きく揺れて、たまおさんがわたわたします。
『パシフィック』の連結部を通り抜けているのです。
 連結部は透明なチューブになっていて、宇宙の星々が見えました。
 その光る星々に向かう宇宙船を作っている最中だったのです。
 ボリスはその光る星々に行きたかったはずなのです。
 それなのに。とたまおさんは思いました。
 
 
 トラムの “終点”に着きました。
 途切れた線路の向こうは広い荒れ地になっていました。
 うごめく人々の姿が見えます。
 鉄くずを拾っているのでしょう。
 ここでは鉄くずを拾ってお金に換えて生きている人も多くいるのです。
 たまおさんとフルカワさんは駅から続く一本道を歩いて行きました。
 たまおさんは怖いので、フルカワさんにちょっと前を歩いてもらっています。
 住宅密集地に近づきます。
 デミおじさんから貰ったボリスの住所へ歩くと、道は徐々に狭く、薄暗くなっていきます。
 天井からの光を遮るものが増えているからです。
「ここみたいっすね」フルカワさんが指さします。
 そこには増築に増築を重ねたような建物があります。
 ここにボリスの家があるはずです。

 
 建物の中では、迷路のような薄暗い廊下が続いています。
 妙な匂いもします。
 踊り場では薬物をやっている人間がいました。
 彼はぎろりとたまおさんとフルカワさんをにらみました。
 たまおさんはびびってしまいましたが、フルカワさんは睨み返します。
 壊れたドアを見ました。
 廊下の壁中に貼られた掲示物も見ました。
「”終点”の権利を守れ」と書かれたビラが貼られていました。
 たまおさんは、ここも変わらないにゃと思いました。
 天井の点滅する光の中を歩いて行きます。
 少し汗ばんで来た頃「ここじゃないっすか」とフルカワさんが一つのドアを指さします。
 たまおさんはタブレットに保存した住所と、ドアに貼られた住所を見比べます。
「ここだにゃ」
「……もう名前変わってますね」
「新しい誰かが入ったんだにゃ」
「人、多いっすもんね」
「そっか。もう誰か入っちゃったんだにゃ」
「そうっすね」
「……ここがボリスの家だったんだにゃ」
「よくある『パシフィック』の家って感じっすね」
「……ボリスは"ここ"から出たかったんだにゃ」
 たまおさんとフルカワさんはしばらくドアの前で立ち尽くしていました。
 すると突然そのドアが開きました。
「あんたら誰ね、あんたら誰ね。行政の人?ちゃんと手続き踏んで住んどるよ」男がドアの隙間からこちらを睨んできます。
「あの、イミテ・アジア地区で飲食店やってるものにゃんですが、ここに前住んでたボリスって人の、知り合いでして…」
「ボリス……?ボリス……。ああね、ちょっと待つね」
 そう言って、男は部屋に戻ります。
 たまおさんとフルカワさんはしばらく待ちます。
 またドアが開きました。
「これ、建築会社から遺品ですって言って送られてきたけども、うちには関係ないしと思ってたんよ。でも遺品って言うやろ。気持ち悪くてどうにもできんかったんよ」
 そこにはボリスが使っていたショルダーバッグがありました。
 たまおさんがショルダーバッグの中を覗くと、タブレットと、あのピンク色の本が入っていました。
「ありがとうございますにゃ」
「いい厄介払いになったよ。そんじゃね」ドアが閉まりました。
 それから二人はトラムで住んでいる街まで戻り、電子パチンコ屋に行きました。
 二人ともそれなりにお金を賭けて、それなり負けてしまいました。


 忙しいと時間はあっという間に過ぎてしまうものです。
 たまおさんが日々を慌ただしくしているうちに、半年もの時間が過ぎ去っていました。
 お客さん達の噂で「もうすぐ、船が完成するらしい」ということを聞きました。
「こんな忙しい日々も、もう終わりっすねー」とフルカワさんが言います。
「そうにゃねー。売り上げ下がっちゃうのは困るけども」
「まあ、また細々とやるしかないっすよ。どうしても苦しくなったら、また”海”打ちにいきましょう」
 そんなことをまかないを食べながら喋ったりしました。
 たまおさんの家の窓から見える宇宙船は、確かに以前より巨大になり立派な姿をしています。
 一見すると事故があったとは思えないほどです。
 たまおさんは毎朝、窓から宇宙船を眺めます。
 それを見ながら、どこか寂しい気持ちになりながら、煙草を吸うのでした。


「たまおちゃん。”入金”ありがとうね」オーナーから電話口でそう言われます。
「いえいえ」
「そんなたまおちゃんにニュースやわ」
「なんですにゃ」
「また造船所で船作るらしいで。また忙しくなるな。まあその分、稼げるから、たまおちゃん的にもうちら的にもWin-Winやねんけども」
「……そうですかにゃ」
「うん?どうしたん?そんなテンション下がって、どうしたん?」
「……」
「まさか辞めたくなった?」
「……いや、続けるにゃよ」
「続ける?」
「この仕事を続けるにゃ。私にはこれしかないからにゃ」たまおさんは少しかっこつけて言いました。
 

 たまおさんはオーナーと通話を終えたあと、ベッドの横に置いた表紙がピンク色の本を手に取ります。
 たまおさんはそれを寝る前に少しだけ読むことにしました。
 いつしかそれはたまおさんの日常の一部になりました。
 物語に没入することでたまおさんは、ある気持ちになります。
 それは”本物の世界”を求めていた前の店長、そしてボリスのことでした。
 手に持つとずっしり重いその本は、たまおさんにとっては”本物”でした。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

 たまおさんの世界。
『パシフィック』。”イミテ・アジア地区”。『喝采』。
 たまおさんが生きている世界は確かに”偽物”かもしれません。
 けども、本を読んでいると、物語の世界で生きる自分が生まれました。
 物語の世界で食事をして、物語の世界で睡眠を取り、物語の世界を冒険する、そんな自分が。
 そして本を閉じ、戻ってくる世界はこの”偽物”の世界なのです。
 たまおさんにはその戻ってくる世界は”ここ”しかないのです。
 ”ここ”こそが自分にとっての戻るべき場所なのです。
 たまおさんには”ここ”こそが自分が生きている場所なのだと思えました。
「読書はいいよ。どこにも行けない店長こそおすすめだよ」
 ボリスがそう言っていたのを思い出しました。
 たまおさんは生きていこうと思います。
『パシフィック』での日々を。
 ”イミテ・アジア地区”での日々を。
『喝采』での日々を。
 ”ここ”での日々を
 そしてたまおさんとして生きる日々を。 

 
 宇宙船は完成してどこか遠い遠い惑星に向かって飛び去っていきました。
 お客さんは本当に少なくなりました。
 新しく船の建造が始まるまでの間はしばらくこのままでしょう。
 フルカワさんが暇にしている時間も増えました。
 売上のことを考えたり、上納金のことを考えるとため息が出ますが、それでも手を動かすしかありません。
 お昼が少し過ぎて、段々とお客さんが減った頃、ようやくキョクトウ・クラシック音楽が聞こえ始めます。
 スピーカーからはナオミ・チアキの『喝采』が流れていました。
 どこにも行けなかったボリス。
 たまおさんはしばらくそれを聞いて、少しだけ涙を流しました。




両目洞窟人間
一般男性。生活をしながら趣味で短編小説を書いている。
実の弟と『はぐれラジオ純情派』というPodcastもやっている。
●Twitter:@gachahori  ●公式サイト:にゃんこのいけにえ
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あとがき

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