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第三話「河原で交わした男の約束」

【前回までのあらすじ】
両親の離婚が決まり、十四歳の妹は近所の中年男性とSEX三昧。そんな家庭から逃れるように、十六歳の苫田潤は夏休みにひとり、田舎のおばあちゃん家に帰省した。
駅に到着すると、四年前の夏に仲良くなった山谷勇吉(16歳)と山谷陽太(11歳)が迎えに来ていた。
山谷兄弟は潤のことを「ヒーロー」のように見て、尊敬してくれていた。
潤は兄弟に誘われるまま彼らの家へ向かった。そこで「けだるい色気」を放つ姉・千鶴さんと出会い、潤は瞬く間にその色香にやられてしまったのだ。




 もちろん、千鶴さんの縮れた秘毛が見えたのは一瞬だった。千鶴さんはそのまま奥の部屋に戻った。寝たきりのおじいちゃんがいる奥の部屋は暗いままだ。千鶴さんは僕たちから見えない場所で着替えを始めたようだ。するりと布の落ちる音もした。あのスリップを脱いでいる……そんなふうに衣擦れの音を気にしていたぼくだがハッとなった。
 なにを考えているのだ。ましてや勇吉や陽太のいる前で。
「この西瓜、めっちゃ美味しかった。どこでもらったん?」
 ぼくは半笑いで勇吉の顔を伺った。
「お? これか。近所のおばあちゃんからもらったんや」勇吉はすでに西瓜を食べ終えていた。千鶴さんと同じように口元を手の甲で拭っていた。良かった。普段と変わらぬ態度で、ぼくの動揺も悟られていないようだ。
 陽太を見ると、彼も西瓜をほとんど食べ尽くしており、こちらはトイレットペーパーで口元を拭いていた。陽太も別段驚いておらず、それどころか、ぼくが視線を向けると、
「そうや。潤さん、このあとトランプしませんか?」
 唐突に提案してきた。「トランプか! ええなあ」勇吉も乗ってきたので、ぼくも合わせてうなずいた。すると、奥の部屋から「ちょっとあんたら、先にお皿を洗いや!」と千鶴さんの声が飛んできた。勇吉が陽太に目配せをする。陽太はすぐに皿を持って、台所へ向かった。ぼくも何か手伝おうと思ったが「ええから」と勇吉に止められた。勇吉は適当にちゃぶ台を布巾でふいていた。
 陽太が洗い物を終えて戻ってきたので、ババ抜きをすることにした。ぼくは奥の部屋がずっと気になっていたので、トランプに集中できなかった。結局、ぼくが最後までババを持っていた。
 一回目のババ抜きが終わったところで、奥の部屋から千鶴さんが出てきた。
 見違えるほど、とまでは思わなかったが、今度は淡いピンクのワンピース姿で、お化粧もしていた。肩から光沢のある白いバッグもかけていた。ノーブラのスリップ姿に比べれば、しっかりとしたお姉さん感はあったが、それでもアンニュイな雰囲気は漂っていた。
「じゃあ、仕事行ってくるから。おじいちゃんのこと頼むで」
 千鶴さんは山積みに散乱している靴の中から、どぎついピンクのサンダルを掴むと、「ふぅ、ふぅ」と息をふきかけた。あれで埃を払っているようだ。そして、サンダルを履くと、こちらを見向きもせず、急ぎ足で出て行った。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
 陽太がトランプを切りながら言う。だが、千鶴さんの姿はもうなかった。勇吉は片膝をついて、大きな欠伸をしていた。
 千鶴さんがいなくなると、ぼくは寂しさよりも胸を撫で下ろした。緊張の糸が切れた感じだ。いつの間にか勃起もおさまっていた。トランプのカードがぼくの前に配られてきた。
 ババ抜きを三回、神経衰弱を三回、七並べを一回したところで、「そろそろ帰ろうかな」とぼくは言った。この部屋の唯一の時計と思える、畳の上に転がったベルタイプの目覚まし時計は午後六時を超えようとしていた。
 勇吉が「送っていくで」と言ったので、ぼくは「助かる」と答えた。外はまだにわかに明るかったが、初めて来た場所だ。帰り道もよくわかっていなかった。陽太はおじいちゃんを一人で放っておけないということで、お留守番することになった。




 勇吉とともに外へ出ると、カラスの大群が夕闇の空を飛んでいた。
 帰りは勇吉と並んで歩いた。里山の麓を抜け、ふたたび田園地帯に入る。用水路に落ちないように気をつけながらあぜ道を進んだ。勇吉が「よう考えたら、潤と二人だけなのは初めてやな」と感慨深そうにつぶやいた。「そうやね」とぼくは言った。二人きりであることを意識していたのは、むしろ、ぼくのほうだ。この機会に千鶴さんのことをもう少し聞き出したかった。
「勇吉の家って……おじいちゃんとお姉さんと、あとご両親?」
 いきなり千鶴さんの話を振ると下心が見抜かれそうで、ぼくは家族構成から訊ねた。
「え? ああ、そっか。言っていなかったっけ。うち、おやじもおふくろもおらんねん。おやじは、もう十年ぐらい前に海で死んで。おふくろは二年前に、よくわからん男と駆け落ちしよった」
 勇吉は笑いながら言った。外灯のない夕闇のあぜ道とあって、笑ったときの彼の白い歯がいっそう綺麗に見えた。
「そうやったんや……ごめん。知らなかった」
「全然かまへん。だから、おふくろが出て行ってからは姉ちゃんが頑張って働いてくれているねん。めっちゃ貧乏やけどな。俺が高校に行けているのも、姉ちゃんが稼いでくれているおかげや」
 千鶴さんの前では偉そうに振る舞っていたが、本当は感謝しているようで、勇吉は自慢げに語った。お父さんを早くに亡くし、お母さんは出て行ったという家庭環境に同情しつつ、ぼくは姉と弟たちの関係を正直羨ましく感じた。ぼくと、妹の美桜とは大違いだ。
「お姉さん、いい人なんやね」
 ぼくは羨ましさを隠しながら言った。
「いい人かどうかはわからんけど。じいちゃんまで倒れたからな。姉ちゃんにめっちゃ負担がかかっているのは間違いないわ。ほんまは俺、高校なんか行かず、働こうと思っていたんやけど。姉ちゃんが絶対に高校ぐらいは出ておかなあかん、というから……」
 いつ拾ったのか、勇吉は右手に棒きれを持っていて、ぶんぶん振っていた。なんとなく照れているようにも見えた。見てはいけないものから目を逸らすように、ぼくは田んぼのほうを見た。
 暗くなった夏の田んぼは、張られた水の中で浮かぶ稲がまるで天の川のように輝いていた。
 ──いまごろ、千鶴さんはどこで働いているのだろうか。
「千鶴さんっていま何歳なの?」
 ぼくは話の流れでさりげなく訊ねた。
「二十一やったかな。そう、去年、成人式やったから。まあ、姉ちゃんは阿呆くさ、といって式にも行っておらんけど」
 成人式を阿呆くさいと片付けるところは千鶴さんっぽく感じたが、年齢に関してはもう少し上か、それとも下かと想像していたので、ぼくは意外な一面を見たような気がした。
「そっか……仕事は何してはるの?」
 自分ではなるべくそれとなく訊ねたつもりだったが、ここで勇吉が突っ込んできた。
「ん? なんや、潤。もしかして、うちの姉ちゃんに興味あるんか?」
 怒っている感じは微塵もなく、心配するような口調だった。
「いや! そんなんと違うで!」
 ぼくはあわてて否定した。すると、勇吉がおもむろに僕の肩を抱いてきた。男の汗の匂いが鼻腔をついた。「ちょ、ちょっと」いくら男同士とはいえ、周囲に誰もいない夕闇のあぜ道でこんなことをされると、一種の恐怖を覚えた。
「やめとけ」
 勇吉はまるで励ますように言ってきた。
「え?」
「あの女はやめとけ。確かに俺や陽太のために働いてくれているけど、女としては最低や」
 先ほどまでの感謝をしているようなそぶりはどこへやら、勇吉は乱暴に吐き捨てた。いや、これが勇吉の素の姿にも思えた。彼はぼくに対してはヒーロー扱いしてくれるが、根っこはヤンチャな悪ガキタイプなのだ。
「そんなお姉ちゃんのことを……」
「そういや、さっきもあの女、潤に、好きやわ、とか言っていたけど、騙されたらあかんで」
 勇吉は頬をくっつける勢いで言ってきた。その距離のおかしさにもたじろいだが、それよりもあのときの千鶴さんの言葉をしっかりと聞かれていたことに、ぼくは動揺した。
「そんな気にしてない……」
 ぼくは変にモジモジしてしまった。これではなんだか勇吉に迫られている女の子みたいではないか。
「ええか。あいつは、そういう女なんや。すぐ男に色目を使いおる。それにな……売女や!いまもあれ、ほんまはどこかで身体売っているんやで。俺たちには酒場で働いているって嘘をついておるけどな。バレバレや」
 お姉さんのことをあの女呼ばわりし始めると、勇吉はこれまで溜めていた鬱憤を晴らすように、早口でまくし立ててきた。
「え……」
 ぼくはトドメを刺されたように絶句した。なんとなく夜の仕事をしていそうな雰囲気はあったが、まさか身体を売っているなんて想像もしていなかった。
 そこら中で殿様ガエルが鳴いていた。 
 ぼくはショックのあまり、どうしていいかわからず目が泳ぎまくった。そんなぼくの様子を見て勇吉は納得したのか、ようやく身体を離してくれた。
「なあ、潤」
 それからあらたまったように、真剣な顔で呼びかけてきた。
「な、なに?」
 ぼくはまだ立ち直れていない。
「ちょっと寄り道してもええか?」
「寄り道?」
 家では祖母が夕食を作って待っているはずだ。あまりのんびりもしていられなかったが、心をかき乱されていたぼくは思わず「あ、うん」と小さくうなずいていた。
「よかった! 久しぶりにあそこへ行きたいんや」
 勇吉がホッとしたように頬を緩めた。
「あそこ?」
「あの河原や。実はあれ以来、俺も陽太も行ってなくてな。でも、潤と久しぶりに会ったら行きたくなってん。ちょうど陽太もおらんし……どうやろ?」
 勇吉の瞳は輝いていた。もしかして一緒に帰ろうとなったときから、この寄り道を計画していたのかもしれない。「あの河原……」ぼくはぼそりと呟いた。
「な! ここからすぐや。ほんのちょっと、見ていくだけやから」
 そこまで言うと勇吉は決まりとばかりに、そそくさと歩き出した。



 ぼくはあそこの川の名前も知らない。Y町には日本海から流入するN川という大きな河川がある。しかし、それとはまた違う、山のほうから流れている川幅十メートル足らずの狭い川だ。コンクリートの堤防などもなく、土手は雑草だらけだった。
 雑草に覆われていたが、土手から古びた石段が伸びていた。十五段ほどの石段だった。そこを下りると、川の砂で盛り上がった、面積にして二、三平方メートルほどの河原に出られた。川の水深は深いところでも大人が膝まで浸かる程度だった。ただ、川の流れはけっこう速かった。河原から下流に向かうほど、水面を流れる落ち葉や棒きれも加速していた。土手には「危険! 遊ぶな!」と書かれたボロボロの立て看板もあった。
 といってもぼくのこの記憶は四年前のもので、それも一度行ったきりだから、明確に覚えているわけでもない。河原までの道もぼんやりとした記憶しかないので、勇吉のあとをついていくしかなかった。
 河原は四年前と何も変わっていなかった。いや、四年前に来たときは真っ昼間だったから、周りの景色もよく見えていた。
 いまは日が暮れているから、川の水は黒く、絶え間なく聞こえる激しい水の音も闇から轟いているようだった。ほんのちょっと見ていくだけ、と言ったくせに、勇吉は土手から河原に向かう石段をくだった。仕方なくぼくもあとに続いた。
 河原に降り立つと、異世界に迷い込んだ心地となった。河原から土手までの高さは三・五メートルほどあり、近くに橋もないため、ひと目につかない場所だ。とくにこの時間は周囲にまったくひとけがない。ここで人殺しが行われても、目撃者など絶対見つからないだろう。
 勇吉は河原でヤンキー座りをした。川のほうをじっと眺めながら、短パンのポケットから煙草とライターを取りだした。「煙草、吸うんや?」ぼくは聞いた。
「ああ。中二の頃から吸っておるで。潤は?」
 咥え煙草にライターの火を近づけて勇吉が言う。「吸ってないよ」別に煙草の煙は苦手でもないけど、同じようにヤンキー座りをする気にもなれず、ぼくは勇吉の背後に立っていた。勇吉は煙草を吸い込み、天を仰ぐように白い煙を吐く。白い龍のように煙が舞い上がっていく。煙草を吸う勇吉の後ろ姿はなかなかサマになっていた。
「懐かしいなあ。ちょうど潤がこの位置にいて、俺はあのあたりにいて……」
 勇吉は咥え煙草のまま、上流のほうを指さした。あのあたり、といわれても暗くて何も見えなかったが、ぼくだって思い出すことはできた。
──四年前の夏。ぼくは小学校六年生で、両親と妹とともに祖母の家へ来ていた。お盆の時期で、家にいても暇だった。ぼくはちょっとした冒険気分でひとりこのあたりまで散策にきた。土手沿いを歩いていると、河原に下りられそうな石段を見つけたので、足を踏み入れてみた。いまから思えば、ぼくもまだ無邪気で好奇心旺盛だった。すっぽりと高い土手に囲まれた河原に降り立つと、自分だけの秘密基地を発見したような気持ちになった。目の前を流れる川は流れもそれなりに速かったが、水は透明で夏の陽光に水面がキラキラと輝いていた。京都市内の町で育ったぼくにとって、こういう田舎の牧歌的な光景は新鮮で、河原にひとり佇んでいるだけで何かワクワクもしてきた。
 かといって河原で何かをするわけでもなかった。しゃがみこんで、水辺の匂いを感じたり、川の音を聞いたりしていた。そう、目も閉じていた。
 どこからともなく水を蹴るような音がして、ぼくは目を開けた。
 え? なんや、あれ……。
 上流から白い物体が流れてきていた。よく見ると、Tシャツをまとった少年だった。後ろ向きで座りながら、こちらに向かってきていた。
 一瞬ふざけて遊んでいるのかと思った。少年は後ろ向きでスライダーを滑るように、スムーズに流されていたからだ。体は胸まで川に浸かっていた。「助けて」と叫んでもいなかった。のちにわかるのだが、少年は恐怖で声も出せなかったそうだ。
 ぼくが緊迫した事態だと察知したのは、さらにその上流からもうひとり別の少年が姿を現わしたからだ。もうひとりの少年はぼくと同じ歳ぐらいの背格好で、タンクトップ姿だった。肌は真っ暗に日焼けしていたが、遠目からみても顔が真っ白だった。
「陽太~!」
 もうひとりの少年は川の中を全力で走っていた。流されている少年を必死に追いかけていた。だが、川の中とあって、思うように進めていなかった。一方、流されている少年はやはり体がまだ小さいようで、立ち上がることもできないようだった。まるで、どんぶらこ、どんぶらこ、とおとぎ話に出てくる桃みたいに流されていた。
 ぼくは自然と立ち上がっていた。
「頼む! そこの人! 止めてくれ!」
 もうひとりの少年が大声で呼びかけてきた。彼からは河原にいるぼくが見えていた。
 ぼくは考えるよりも先に足が動いた。流されている少年は、すでに数メートルほど先の上流にいた。すぐに行かないと、あっという間に少年はぼくの前を流されていくだろう。
 ぼくはすぐさま川に入った。水をかき分け、かき分け、少年が流されてきそうな川の真ん中あたりまで無我夢中で進んだ。
 それでもぎりぎり間に合いそうになかったので、最後は思いっきりダイブした。
 流れてきた少年はまるで吸い寄せられるように、ぼくの両手に飛び込んできた。
 ぼくは少年を後ろから抱き留めた。勢いにおされて、そのままぼくは川の中で尻餅をついた。水も飲んでしまった。ただ、思ったよりも少年は軽かった。抱きしめてから気づいたのだが、まだ小学校低学年ぐらいだった。ぼくは少年を抱きかかえたまま立ち上がった。少年は心底驚いた顔で振り向いてきた。後ろ向きに流されていたから、ぼくが近くにいたことも知らなかったのだろう。泣いてもいなかった。ぼくは息が上がっていたので、大丈夫? と声もかけられなかった。
「うおおおおーーっ、ありがとうございます!」
 もうひとりの少年が凄まじい勢いで駆け寄ってきていた。泣いているのか笑っているのかよくわからない表情だった。川の水を激しく蹴り上げて、その飛沫が、彼の全身をキラキラと輝かせていた。
 これが、ぼくと山谷兄弟の出会いだった。




「俺はあのときの潤の姿をいまもスローモーションのように覚えているねん。ほんま、すごかった。ほんま、俺たちのヒーローやったわ」
 勇吉はうっとりとした口調で、二本目の煙草に火をつけた。うまそうに煙草を吹かしていた。白い煙がふたたび舞いあがり、下流のほうへ流されていった。
「もうええって」
 ぼくは煙草の煙を目で追いながら、少しうんざり気味に言い放った。
「なんでや?」
 思いがけない言葉だったのだろう。勇吉は振り返り、怪訝そうな視線を向けてきた。
「もうええよ、勇吉。ぼくはそんなすごい奴やない。別にそこまで深い川でもないし、泳いで助けたわけでもないんやで。たまたまここにいて、流れてきた陽太君を捕まえただけや」
 川の音がうるさかった。かといって声を張り上げて語る内容でもなかったので、ぼくは勇吉に聞こえるよう、一歩、二歩近づきながら喋った。
「そんなことあるかい。潤がここで陽太を止めてくれなかったら……この先、めちゃくちゃ深くなっているんや。どうなっていたかわからん。それにな。ああいう場面で咄嗟に体が動く奴はそうおらんで。潤はそれが自然とできる男なんや」
 絶対にぼくの意見を認めないとばかりに勇吉は力強い口調で言い返してきた。ぼくは何に苛立っていたのだろう。四年ぶりに帰ってきて、山谷兄弟と会って、あの時と同じように変わらずヒーロー扱いをしてもらえて……それなのにぼくは罪悪感のようなものを覚えていた。
 ぼくは勇吉から目を逸らすように、河原の地面を見た。
 四年前、ここで約束をした。陽太を助けたあと、三人でビショ濡れのまま河原まで戻った。勇吉はすぐさまぼくを押し倒す勢いで抱きついてきて、「ほんまにありがとう!」「命の恩人や」「この借りは必ず返させてくれ」「一生の友達になってほしい」といったことを、まだお互いの名前も知らない段階から矢継ぎ早に言ってきた。陽太なんて全身ずぶ濡れになりながら「このご恩は一生忘れません」と当時七歳だったにもかかわらず、大人びたことを口にしてきた。
 それから互いの名前を教えあって、勇吉が何かお礼をしたいとしつこく言ってきたので「いらないよ、そんなもの」と断ったら、今度は陽太が「オニヤンマとかギンヤンマ、シオカラトンボが山ほど捕れる秘密の原っぱを教えてあげます」と言ってきた。さすがにこの可愛いお礼には笑ってしまったが、ぼくはその日の夕方、父親の車で京都へ戻ることになっていた。
「そうなのか……じゃ、今度はいつ来る? その時に必ず、今日のお礼をさせてくれ」
 勇吉がぼくの手を取りながら言った。
「じゃあ、来年の夏休みに……また、こっちに来ると思うから。そしたら遊ぼうよ。段々畑の近くにある苫田って家なんだけど、わかる? そこがぼくのおばあちゃん家だから」
 確かそんな約束をして、ぼくはそのとき山谷兄弟と別れた。
 だけど、ぼくはその約束をずっと果たせないでいた。今年だって彼らと会うために帰ってきたわけでもない。もっといえば、ぼくは中学生になってから、彼らのことをほとんど忘れていた。日々の息苦しさに、田舎へ戻る気力すらなくしていた。
 それなのに彼らは毎年、夏になるとうちの祖母の家を訪れて、いつ帰ってくるのか聞きに行っていたのだ。心待ちにしてくれていたのだ。
 勇吉は煙草を吸い終えたようだ。座ったままオーバースローで、まだ火種の残っている煙草を川に向かって放り投げた。
 宙を舞った煙草の火は蛍の光のようだった。それを見て、そろそろ帰ろうか、とぼくが言いかけた時だった。
「潤……ありがとな」
 勇吉がしんみりとした声で、ゆっくりと立ち上がった。「ん?」ぼくは首をかしげた。四年前のことを言っているのだろうか、それとも寄り道に付き合ったことだろうか。
「ありがとう。帰ってきてくれて」
 ぐるりと振り返り、ぼくを真正面に見据えながら勇吉は晴れやかな顔で言った。
「勇吉……」
 ぼくは言葉に詰まった。どういうわけか、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。「ありがとう、帰ってきてくれて」──たったそれだけの言葉じゃないか。しかも、たった一回会っただけの相手ではないか。
 それなのに、それなのに、ぼくはその言葉にひどく感動したのだ。
 思い出の河原で、勇吉と向き合いながら、ぼくは嗚咽を漏らしていた。
「ううっ……」
 手足が震えていた。どんどん視界は霞んでいた。ヒーローのくせして、あふれるものが止まらない。何をやっているのだ。ヒーローがナヨナヨした姿など見せてはいけないのに……。ぼくは自分を叱りつけるように両手を強く握りしめていた。
「潤……?」
 勇吉は驚いたのだろう。しかし、慌てふためいたり、質問責めしたりしてこなかった。「どうした?」と一言優しく声をかけたあと、いきなりぼくを包み込むように抱きしめてきたのだ。
 よせよ。こんなひと目のつかない河原で、日も暮れた時間帯に男子高校生二人がこんなことをして、誰かに見られたらどうするのだ。
 そんなふうに思いながらも、ぼくは動けなくなっていた。勇吉のことを初めて友達だと思った。いや、友達というものを初めて感じた。
 気づくとぼくは勇吉の胸の中で、中学の三年間のこと、家が崩壊しかけていること、さすがに妹のあのことまでは言えなかったが、
「ぼくは勇吉が思っているような男やない。ほんまはすごく弱っちくて、情けなくて、ナヨナヨしているんや」
 ヒーローであることなど忘れて、会っていなかった間に溜め込んでいたものをぶちまけていた。勇吉は一言も何もいわなかった。黙って、ぼくの話を聞いていた。
 話し終えると、ぼくは急に恥ずかしくなった。
「ごめん。つまらん話をして……あほやったわ。男のくせに格好悪いよな」
 涙をさっと拭って、最後ぐらいは強がってやろうとした。いつまでも抱きしめてくる勇吉を、こちらから突き放した。
 勇吉はなぜか眉間に皺をよせて、難しい顔になっていた。やはり四年間も待っていたヒーローが、実は学校で苛められていたことを知って落胆したのだろうか。
「そろそろ帰るわ。ここで大丈夫やで。ここから、おばあちゃんの家までわかるから」
 ぼくは懸命に笑顔を作った。
「待て、潤」
 勇吉がおもむろに顔を上げてきた。その目はギラギラしていた。男らしさを感じる視線で、ぼくは一瞬、勇吉を畏怖した。とんでもない怪物のように見えた。
「明日! 明日は時間あるか?」
「え?」
「そうやなあ。午後二時ぐらいに、ここで待ち合わせしよう」
 勇吉は力んでいた。タンクトップからむき出しの筋肉質な肩がもこっと膨らんでいた。力尽くでも従わせようとする気迫を感じた。
「明日……う、うん。大丈夫やけど……陽太君も?」
「いや、陽太は来ない。俺と潤、二人だけや。必ず来てくれ。明日二時、ここで!」
 生ぬるい夏の風が河原を吹き抜けた。むわっと、勇吉の雄の匂いが鼻腔をついた。


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