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17歳、そして大人になる(長編小説)④

前回のあらすじデビュー作が成功し注目を浴びた空は、周囲の称賛に酔いしれ、自分を見失い始める。茜の忠告にも耳を貸さず、遊びや浮ついた人間関係に溺れていく中で、執筆に行き詰まり焦燥感を募らせる。一方で茜との関係も徐々に距離が生まれ、彼女から「今のあなたでは無理」と突き放される。

孤独の中で迷走する空は、夜の街で出会った年配の男性の言葉に触発され、再び執筆に挑む決意を固める。試行錯誤しながらも、空は一歩ずつ前に進み始める。その矢先、茜から久しぶりに連絡が入り、二人の再会が新たな展開を予感させるのだった。



第7章: 失意の日々

冷たい風が街路樹を揺らし、落ち葉が舞い上がる夕暮れ時。空は手に汗を握りながら、茜と約束したカフェへ向かって歩いていた。冬の空気は肌を刺すように冷たく、吐く息が白く広がるたびに心の焦りが増していく。街の人々は足早に行き交い、それぞれの目的地へ急いでいた。そんな中、空の足取りだけが重かった。

カフェの窓越しに茜の姿を見つけたとき、空の胸はぎゅっと締めつけられた。茜は窓際の席に座り、手元のカップに視線を落としていた。長い髪をゆるくまとめたその後ろ姿は、以前と変わらず美しかったが、その肩に漂う微かな疲労感が空には痛々しく思えた。彼女が自分を待っているという事実に、安堵と同時に申し訳なさが混じった感情が押し寄せた。

「空君。」
席に近づくと、茜が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔は確かに優しかったが、どこか距離を感じさせるものでもあった。その視線に一瞬怯むような気持ちを抱えながら、空は彼女の向かいの席に腰を下ろした。

「久しぶりですね。」
空が言うと、茜は軽く頷き、カップを持ち上げた。彼女の指先は細く、どこか冷たさを感じさせるようだった。

「元気にしてた?」
その問いかけは表面上は柔らかかったが、空には自分がどう答えるべきかを試されているように感じられた。視線をさまよわせながら、空はしどろもどろに答えた。
「なんとか…やっています。」
彼女の微笑みがほんの一瞬、曇ったように見えたのは気のせいではなかった。




二人の間には静かな時間が流れた。カフェの中は適度な温かさがあり、窓越しに見える外の寒々しい街とは対照的だった。けれど、その温もりさえも空にとってはどこか不安を煽るものだった。茜はカップをゆっくりと置き、静かな声で切り出した。

「空君、最近書いてる?」
その一言に、空は一瞬息を飲んだ。書いていると言うべきか、書けていないと言うべきか。自分でも分からなかった。茜の真っ直ぐな視線が、自分の内面を見透かしているように感じられ、言葉が喉で詰まった。

「少しだけです。」
空の答えは、茜の目の奥に微かな失望を浮かべた。けれど、彼女は責めるような言葉を口にはしなかった。ただ、静かに目を伏せ、深く息をついた。

「少しだけでもいいわ。でも…逃げているうちは、本当に書きたいものには出会えないの。」
茜の言葉は淡々としていたが、その一言一言が空の胸に鋭く突き刺さった。自分が本当に逃げていたのだという事実に、空は気づかざるを得なかった。

「俺は…逃げてなんかいないです。」
思わずそう言ったが、その声には自信がなかった。空は自分でも分かっていた。書けない自分を認めるのが怖くて、言い訳ばかりをしていたのだということを。

茜は静かに空を見つめた。彼女の目には、かつてのような期待ではなく、冷静さと憐れみが混ざり合っているように見えた。その視線を受け止めながら、空の心はますます沈んでいった。




会話の後、茜がカフェを出るとき、空は彼女の背中をじっと見送った。夜の冷たい風が吹き込み、ドアが閉まるたびに店内の温かさが少しずつ奪われていく。茜のコートが風に揺れ、やがて人混みの中にその姿が溶け込んでいった。

その背中には、決別のような冷たい空気が漂っていた。空はその場に立ち尽くし、茜の姿が完全に見えなくなるまで目を離せなかった。
「俺は…どうすればいいんだ。」
茜の最後の言葉が何度も耳に蘇り、そのたびに胸が締めつけられた。

外に出ると、冷たい風が頬を叩いた。夜の街は相変わらず賑やかで、笑い声や雑踏の音が響いている。けれど、空の中には静寂しかなかった。自分の中に残されたものが何なのか分からないまま、空は俯きながら歩き出した。




茜との再会の後、空は再び机に向かうようになった。彼女の「焦らなくていい」という言葉が、空にとって唯一の救いだった。その言葉を頼りに、空は鉛筆を持つ手を何とか動かし続けていた。

けれど、書くたびに自分の未熟さが目の前に突きつけられる。机の上には書きかけの原稿用紙が散乱し、どれも途中で投げ出されたものばかりだった。
「俺には何も書けないんじゃないか…。」
そう思うたび、鉛筆を握る手が震えた。それでも、茜の言葉が頭の中で響くたび、空は手を止めることを許されなかった。

「少年は冬の風の中で立ち尽くしていた。その足元には、書きかけの原稿が散らばっている。」
それはまるで自分自身を描いたような文章だった。空はその言葉を見つめながら、小さくため息をついた。




ある夜、空はふと茜にメッセージを送った。
「まだ書いています。また見てもらえる日が来るといいです。」
そのメッセージを送るまでに、空は何度も書いては消し、手を止めてはまた書いた。その短い言葉の裏には、茜への感謝と、わずかながらの希望が込められていた。

スマートフォンの画面を見つめながら、返信を待つ間、空は茜の顔を思い浮かべていた。彼女が微笑みながら言った「焦らなくていい」という言葉が、今も胸に残っている。自分がその言葉に応えられる日は来るのだろうか――そう考えながら、空は再び鉛筆を握りしめた。




第8章: 再生の兆し

空の部屋は相変わらず静まり返っていた。冬の冷気が薄い窓ガラス越しに忍び込み、部屋の隅に置かれたヒーターが力なく唸り声を上げている。机の上には、積み重なった原稿用紙の束。どれも途中で途切れた言葉ばかりだった。書き上げるどころか、言葉の断片さえまともに続けることができない現状に、空は追い詰められていた。

椅子に座ったまま、空は散乱した紙の束を見つめる。鉛筆を握る手は冷たくなり、指先の感覚が鈍い。何かを書きたいという気持ちはあるのに、頭の中は真っ白だった。

「俺は、このまま…書けなくなるのか…。」
その思いが口から漏れ出るたび、胸の中がきゅっと縮み上がるような感覚に襲われた。かつては茜が言ってくれた励ましの言葉が心の支えだった。けれど、今はその声さえも遠い記憶の中にかすれていく。

窓の外を見上げると、厚い雲が低く垂れ込め、雪がちらつき始めていた。ゆっくりと舞い落ちる白い雪片を見つめながら、空はふと茜の声を思い出した。
「焦らなくていい。自分が本当に書きたいものを見つけられるといいわね。」
その言葉が、まるで微かな灯火のように胸の奥で揺らめいた。




寒さを耐えきれず、空は分厚いコートを羽織って外に出た。凍えるような冷気が頬を刺すたび、空は肩をすくめながら早足で歩き続けた。夜の街は静かで、街灯に照らされた雪がぼんやりと光を放っていた。足元で雪がシャリシャリと音を立て、空はその音に自分の心を落ち着けようとしていた。

何の目的もなく歩き続ける空だったが、大通りの向こう側に見覚えのある後ろ姿を見つけたとき、胸が大きく跳ねた。
「…茜さん?」
空は心の中でその名前を呟きながら、思わず足を止めた。振り返ったその顔は、間違いなく茜だった。

茜は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「空君、どうしたの?こんな寒い日に。」
その声は冷たい冬の空気を優しく溶かすように響き、空の胸に静かに染み渡った。

「ちょっと…散歩していただけです。」
空はぎこちなく答えながら、茜の姿を目で追った。どこか疲れたような表情をしていたが、それでも彼女の目には変わらない強さが宿っていた。茜は少し笑いながら言った。
「せっかくだから、どこかで暖かいものでも飲まない?」




茜に連れられて入ったカフェは、路地裏にひっそりと佇む小さな店だった。木製のドアを開けると、暖かな空気とコーヒーの香りが迎えてくれる。店内には小さな暖炉があり、ゆらゆらと揺れる炎の音が耳に心地よかった。

二人は窓際の席に腰を下ろした。窓越しには、雪が降り続ける静かな街が広がっている。暖炉の火が静かに揺れ、カフェの中は不思議な落ち着きに包まれていた。空はホットコーヒーを両手で包み込むように持ちながら、茜の顔をじっと見つめていた。

「最近、どう?書いてる?」
茜が問いかけた瞬間、空の胸に小さな痛みが走った。書いていると言いたかった。けれど、思うように言葉が出てこない自分を隠すことはできなかった。

「少しだけです。でも、まだ…思うようにはいかない。」
そう答えると、茜は静かに頷き、空をじっと見つめた。その瞳にはどこか期待と不安が入り混じった感情が浮かんでいるように見えた。

「少しでも進んでるなら、それでいいのよ。でも、自分の本当の気持ちから目を背けちゃダメ。そこに向き合わないと、本当に書きたいものは見つからないから。」
茜のその言葉が、空の胸に深く響いた。それは厳しくも優しい彼女らしい言葉だった。




数日後、空は再び机に向かっていた。部屋の中は相変わらず冷たく、外から漏れ聞こえる風の音が妙に静寂を強調していた。けれど、その中で空は新たな決意を胸に鉛筆を握りしめた。

茜の言葉が心の中で何度も繰り返される。
「逃げないで。自分の気持ちに向き合うの。」
空は深く息を吸い込み、原稿用紙の上に鉛筆を置いた。

「冬の冷たい風が街を吹き抜ける中、一人の少年が立ち止まっていた。その目には、光を探し求めるような決意が宿っていた。」

その言葉を書き上げたとき、空の胸の中で何かが静かに動き始めた。それは、長い間止まっていた時計がようやく動き出すような感覚だった。自分が本当に書きたいものに向き合うための一歩だと、空にははっきり分かった。




完成には程遠かったが、空はその書きかけの原稿を持ち、出版社へと足を運んだ。茜に自分の言葉を見てもらいたい――その思いだけで、空の足取りは自然と軽くなっていた。

出版社のエントランスは相変わらず忙しげだった。編集者たちが電話を片手に資料を抱え、慌ただしく動き回っている。その中に茜の姿を見つけたとき、空は思わず声を上げた。
「茜さん!」
振り返った茜は、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑顔を見せた。

「どうしたの?急に。」
「少し、見てもらいたいものがあって。」
空が差し出した原稿に、茜は驚きながらも手を伸ばし、それを丁寧に受け取った。ページをめくる彼女の瞳が真剣に動き、静かな空気が二人の間に流れた。

「少しずつ、前に進んでる。良いわね。」
茜のその一言が、空にとって何よりの励ましだった。その言葉が胸の奥で響き、再び灯った小さな希望の炎が、確かな力で燃え始めた。



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