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失敗や間違いの恐怖から逃れる方法〜『わからないものをわからないまま扱う』という提案

間違うこと、失敗することって怖いですよね。

どうして怖いのでしょうか?

その理由は場合によって様々かもしれませんが、多くの場合は「失敗したらそれで終わり」という意識があるからではないでしょうか。

私自身も、失敗するのは嫌です。

間違ったことを言って、多くの人の前で恥をかくのも嫌です。

それでも、失敗を恐れずに行動したり発言したりしなければならない場面というのは、人生で何度も訪れるはずです。

そこで今回は、どうして「失敗や間違うことが怖い」と思ってしまうのかについて考えてみたいと思います。

そして臨床場面では、クライアントも「失敗や間違うことが怖い」と考えているかもしれません。

その場合、どのような弊害が生じるのでしょうか。どのように克服すれば良いのでしょうか。

そのために必要な理学療法士がとるべき姿勢についても考えてみたいと思います。

このnoteを読むと、
✅️失敗や間違うことがなぜ怖いのかがわかる
✅️「わからない」を認めることで、この怖さから逃れられる
✅️臨床場面で「わからない」を認めるべき理由がわかる


失敗を許さない日本の文化

わかりやすいところで、日本とアメリカの文化を比較してみたいと思います。

大統領選を控えたアメリカでは、政治に対する発言や、選挙戦に向けた行動をする方が多いようです。(報道で知る限りですが)

自分の支持する政党や候補者を明言し、その理由もかなりハッキリと言われている印象があります。

対する日本では、政治の話題というのは基本的にタブーとされ、「どこに投票したか、誰にも言ってはいけないよ」という指導・教育を受けたりもするくらいです。

最近になって自分の支持する政党を明言して活動する方が増えてきた印象もありますが、それでも一部の人に限られているという印象です。

日本とアメリカで、どうしてここまで違いがあるのでしょうか?

様々な理由が考えられますが、今回のテーマから考えると、失敗や間違いにどれだけ慣用な社会・文化なのか、ということが関わっているのではないでしょうか。


言語にも表れる本音を隠す文化

日本語というのは、基本的に次のような構成で文章が作られます。

主語 + 目的語 + 動詞

『私は + リンゴを + 食べる』というような文章ですね。

一方、英語では次のような文章になります。

主語 + 動詞 + 目的語

『 I + eat + apple 』

日本語では動詞(結論)を最後に持ってくるのに対し、英語では動詞が主語のすぐ後にきます。

日本語はああだこうだ言った後に結論を言いますが、英語では先に結論を言ってしまった上でああだこうだ修飾していくという文章構成になるのです。

何かを断る際の言葉にもその特徴が表れています。

英語では「No thanks!」などとハッキリ断りますが、日本語では「結構です」とか「良いです」などと曖昧な言葉で断りますよね。

日本人は昔から自分の意見や考えを主張するのを避ける文化を重んじてきたようです。

『和を以て貴しとなす』という日本の文化・考え方がその根底にあるように思います。


臨床場面で日本の文化がもたらす弊害

日本もしくは日本人の根底にあるこのような文化によって、臨床場面ではどのような弊害があるでしょうか。

多くの理学療法士が経験することとして、クライアントがご自身の感覚を伝えられないということがあるのではないでしょうか。

もしくは、自分の目指したい目標、自分の求めていることをハッキリと伝えることができないという問題があると思います。

理学療法の場面では、運動・動作中にご本人がどのような感覚を持っているか、どのような意識・意図で運動を行っているか、という点は効果や結果を左右する重要な要素であると考えています。

そしてそれは、ご本人しか知り得ない情報で、外から身体を見ている我々が知ることはできません。

ご本人に説明してもらう、教えてもらうしか、知る術がないのです。

しかし、日本・日本人の文化のためなのか、クライアントは自分の感覚や考えを伝えることが難しいのです。

その結果、どうなるでしょう。

多くのセラピストは、ご本人の感覚や意識の大切さを感じているのに、聞くこと・確かめることを諦めてしまっているのではないでしょうか。


日本の文化を臨床で利用する

ここまで考えてきたように、日本人というのは自分の感覚や考えを明確に伝えるのは苦手なようです。

では、臨床においてご本人の主観や感覚を確かめたいとき、どうすれば良いのでしょうか?

理学療法士がとるべき姿勢として、次の二つが大切だと考えています。

✅️正解も不正解もないことを繰り返し伝える

✅️2つの選択肢(Yes/No)の中間が存在することを認め、それを伝える

理学療法士が一貫してこのような姿勢をとり続けることによって、クライアントは少しずつ「自分の感覚を伝えても良いのかもしれない」と思ってくれると考えています。

そして、「まだハッキリわからないけれど、わからないということ、わかっているところまでを伝えてみよう」というところまで思っていただければ、臨床展開は大きく変わります。

運動の中で感じられる感覚というのは、言葉にするのは難しいものです。

考えというのも、言葉にするのは難しいです。

「痛いわけではないんだけど、なんとなく重たいような、深いところにドーンとくるような、そんな感じ」

このような訴えは実際のところ何なのかよくわからないのですが、感覚というのはこういうものではないでしょうか。

この感覚を『痛み』とか『筋感覚』とか『運動覚』とか、そういったものに当てはめようとしてしまうのが理学療法士の思考の偏りから生じるものだと思うのです。

クライアントが訴えた感覚をそのまま扱うというスタンスをとっても、問題はないのではないでしょうか?

クライアントがわからないなりに言葉を振り絞って伝えてくれた感覚です。

それをわざわざ理学療法士の言葉に置き換える必要があるのでしょうか?

「重たいような、深いところにドーンとくるような感じ」で良いじゃないですか。

大切なのは、その感覚がどのように変化していくかだと考えます。


まとめ

人は文化からそう簡単に逃れることはできません。

生まれ育った地の文化は思考や行動の根底にすり込まれ、その地を離れたとしても、完全に忘れることは難しいでしょう。

であるならば、それを認めた上で行動した方が良いのではないでしょうか。

『失敗すること』や『間違うこと』が怖いのは仕方の無いことかもしれません。

ただそれは、『わからないという状態』を認めないから、結論を急がれるから生じる怖さなのではないでしょうか。

臨床場面に当てはめて考えてきましたが、誰にとってもそうです。

自分自身のハッキリしない感覚や考えを誰かの言葉に無理矢理あてはめるのではなく、『よくわからないけどこんな感じ』『よくわからないけどこんな考え』という自分自身の感覚や考えを大切にしてください。

その『わからない状態』をそのまま置いておけば、そのうちわかってきたり、問題の解像度が上がって『わかるための方法』が見えてきたりするものだと思います。

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