明日、自分がいなくなっても
こんばんは。
土曜日も仕事をしなければならないくらい書類作成に追われています。今が書き入れ時。
頑張るけれど少しの休憩時間にnoteで息抜きをしたいと思います。
父親の友人からの電話
事務所の電話にかかってきた「所長いる?」の声。
父親の高校の友人でした。
遠方で建築や土地関係の仕事をしているらしく、1季節に一回程度電話がくるのは記憶していました。
「余命2ヶ月らしい」とのこと。
父親も、反応が薄くなり声が小さくなり戸惑っている様子。
そりゃそうです。来年、いや半年後に自分の友人がいなくなるかもしれないという不安と絶望と悲しみと寂しさを数秒で背負ったのだから無理もありません。
声は元気なのに
笑う元気もあるのに
治療する術がないとのことでした。
余命宣告されたら
私は、どう生きるのか。
電車に乗っている時とか、時間がある時にたまに考えます。
「人生100年時代これからゲーム」というゲームを先日、行いました。
簡単にいえば、自分の人生で大切にしたいことをゲーム方式で見つめなおす機会。
この4枚が私の思いらしいです。(見切れているけれど)
食べる事を中心とした当たり前の生活を送り、自分がいなくなっても周りの人たちが幸せで生きていてくれることが私にとっての思いなんだと気づきました。
もし生きられる時間が決まっていたとしても、今までの生活を最後の日まで続けることが私にとっての幸せなんだと思います。
「死生観」について
結婚式への参列よりも、お葬式に参列する機会が増えたとよく耳にします。実際そうだと感じています。
保育園の頃、祖父の葬式で「死」に対する恐怖感を抱き、そのまま高校へ。
大学で医療の勉強をしていても「死」に対する恐怖感は変わらず、もう一人の祖父の死で余計に恐怖が増しました。
医療従事者としての知識を蓄えれば蓄える程、「生きること」への価値が高まり、病院で働くことで患者さんを失うという環境にマイナスの感情を抱いていました。
だけど、今の私は「死」や「この世からいなくなること」が怖くはありません。
語弊があるな。
怖いけれど受け入れられる気がしています。
それはきっと自分の思い通りの生活が出来ていて、生きている全てのものが平等に「死」へと向かっていることに気付けたから。
どう生きるか
悔いなく生きること。
それが一番の課題です。
毎日美味しいご飯を食べて、スッキリするくらい運動して、人が喜んでくれる顔を見たいから仕事をする、稼いだお金で好きな人たちと遊んで、たまに連絡をくれる遠い友人に会いに行く。
世界は止まってほしくてもずっとずっと回っていて、幸せになるのも楽しみをつくるのも自分次第。
私は自分を大切にしたいし、自分の周りの全ての人が幸せであってほしい。
ただ毎日がそんな幸せで終わることはない。
だからこそ歳を重ねると生活の中で少なくなる「キラキラ」や汗をかくほど熱中することを、企画する!
そう、そのために仕事をします。
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