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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第18章 廃藩置県(下)④

4.尚泰と上層部への厚遇

【解説】
 既存の歴史本は、琉球の人々の嘆願は聞き入れられず、泣く泣く尚泰は東京へ去ったかのような記述で構成され、いかにも日本政府が強引に処分を行なったかというような印象を与えようと必死だ。しかし、尚泰自身は、事態を把握しており、上京やむなしと決意していたにもかかわらず、既得権益にしがみつく見にくい支配階層が、尚泰の上京を阻止せんと、愚かな嘆願を繰り返していたのだ。しかもその間、清国や欧米に助けを求めるなど、恥も外聞もない。ちょうど、デニー玉城が、国連に泣きついたり、中共ナチスに媚びてみたりして、辺野古問題を先延ばしにしようとしているのとそっくりだ。プライドのない人間にとって、事大主義で媚びることなど事など何でも無いのだろう。
 誰も、天下国家のことも、一般庶民のことも考えてもいない。今日まで続く上層部の身勝手、それが沖縄の真の不幸なのだ。

【本文】
 封建政治で沖縄の人々を支配していた尚泰とこれを取りまく人々は歴史の表舞台を去りました。しかし、沖縄の社会を一新するためには、尚泰を東京に引き上げさせる必要があり、政府はこれを最重要視していました。
 間も無く、迎えの汽船が那覇につきました。各方面から今度は、尚泰は病気だから乗船は無理だと、上京延期の歎願運動がしつこく繰り返されました。これは、引き延ばしておけば、清国から救いの手が伸びるかも知れないという頑国党の主張に沿って行われていました。状況延期の期間も、最初は5、6カ月から、90日、80日と変えながら、毎日、数十人ずつの署名がある歎願文を提出していました。
 尚泰の長男尚典を上京させ、政府に80日の延期を願わせたいと申し出たので、松田はこれを許し、迎えの汽船に乗せて上京させました。しかしこれは、松田が尚典を先に上京させる謀略でした。木梨精一郎県令心得から三司官らに示唆して願い出させていたのです。政府はもちろん、尚典の嘆願を拒否しました。
 尚泰を迎える汽船が再び那覇に着きました。旧三司官らは士族らにおされて、上京延期の歎願を続けました。士族らも数十人ずつ松田の下に日参し、嘆願をくりかえします。今回も尚泰は、自ら上京の決心を明らかにし、士族の代表を集めて、彼らの無謀を戒めましたが、頑固党は、旧藩王の言葉にも耳を傾けませんでした。何のために運動をしているのかがよくわかります。彼らは王国のためにではなく、自分の既得権を守るために、粘っていたにすぎないのです。
 そうこうしているうちに事務の引きつぎはおわり、首里城を明け渡してから2カ月後の5月27日、尚泰は、次男尚寅以下、百人ばかりの供を連れて那覇を出発し、松田大書記官も6月初めに引きあげて、琉球処分もようやく片付きました。
 尚泰は5才で即位し、37才で廃藩になるまでの32年間、最も困難 な時期に国王となりました。それでも尚泰は王としてその処置をあやまらず、時勢に対する判断も正しかったと言えるでしょう。
 政府は上京した尚泰に邸宅と公債20万円(1割利子付)に加え、侯爵を授け、旧藩王としての生活を保証するなど、40万石の領地をもつ大大名と同じ待遇を与えました。さらに伊江朝直(叔父)、今帰仁朝敷(弟)、尚寅、尚順(四男)にも後になって男爵を授け、上流の生活に差し支えない年金を与えて優遇しました。その他、領地を持っていた貴族や、上級士族360余人には、明治42年に一時金を与えて打ち切るまで、もとの収入と同等の年金を支給して生活を保証したのです。

【原文】
四、廃藩のあと
 旧藩主と、これを取りまく人々は歴史の舞台を去り、封建政治の中心はなくなりました。しかし、政治を一新するためには、旧藩王を東京に引きあげさせるひつようがあり、政府は、これを一番たいせつなことと考えています。
 まもなく、むかえの汽船がついたので、今度は、上京えんきの歎願運動を、ねづよくくりかえします。
     えんきの理由は、病気だから乗船は無理だと、みな、おなじこと
    をいっています。
     しかし、引きのばしておけば、中国から救いの手がのびるかも知
    れないという、頑国党の主張におされてやっているのです。えんき
    の期間も、五六ヵ月から、九十日となり、さらに八十日とかえ、毎
    日、数十人ずつの署名をした歎願文をだしています。
     さいごに尚泰の長男尚典を上京させ、政府に八十日のえんきを願
    わせたいと申出たので、松田はこれをゆるし、汽船にのせて上京さ
    せました。
     これは、しかし、松田氏が尚典をさきに上京させる謀略で、木梨
    県令心得から三司官等におしえて願いださせたことです。政府はも
    ちろん、尚典のねがいをゆるしません。
 旧藩王をむかえる汽船がふたたび、那覇につきます。旧三司官等は士族らにおされて又も上京えんきの歎願をつづけ、士族らも数十人ずつ、松田のもとにかよい嘆願をくりかえします。こんども旧藩王は、自ら上京の決心をあきらかにし、士族の代表をあつめ、彼等の無謀をいましめたが、頑固党は、これにも耳をかたむけません。
 そのあいだに事務の引きつぎをおわり、首里城をあけわたしてから二カ月後の五月二十七日、旧藩王は、次男尚寅以下、百人ばかりの供をつれて、那覇を出発し、松田大書記官も六月はじめに引きあげ、琉球処分もようやく、かたづきました。
     尚泰は五才で王位をつぎ、三十七才で廃藩になるまでの三十二年
    間、もっとも、こんなんな時期に、王としてその処置をあやまら
    ず、時勢に対する判断も、正しかったといわねばなりません。
 政府は上京した尚泰に邸宅と公債二十万円(一割利子付)をあたえ、侯爵をさずけ、最高の生活を保証してゆうぐうしました。
     これは四十万石の領地をもつ大名とおなじたいぐうです。さらに  
    伊江朝直(叔父)、今帰仁朝敷(弟)、尚寅(いん)、尚順(四男)
    も後になって、男爵をさずけ、上流の生活にさしつかえない年金を   
    あたえました。領地をもっていた貴族や、上級士族三百六十余人に
    は、明治四十二年まで、もとの収入とおなじくらいの年金を支給
    し、中流以上の生活を保証し、その後、一時金をあたえてこれを打
    ち切りました。

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