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現実を生きる

ひなた山の展望台には日の出をあがめられる場所がある。
どういうわけかその日、2人の男が向かい合ってまだ薄暗の朝に言葉を溶かし合っていた。

高校生とおぼしきユニフォームをまとった少年が言う。

友達が最近言うんです。お前は夢ばっか見ていないで、もっと現実見た方がいい。特待生の推薦なんて、そんな甘くないって。

それに応える形で口を開くのは、大学生というには少し老けていて、30代の貫録と人生経験を顔に携えているものの、きっと20代だろうという見た目の流浪男だ。

「現実かあ。いいね、面白い。君は特待生で大学に行って、その先でプロになりたいのかな。それとも今はただ、特待生で大学に行くことを目指しているのかな」

プロにはもちろんなりたいです。なれるものなら。でも、やっぱり現実は厳しいとも思ってもいます。

「なるほど、君にも現実っていう尺度はあるんだね?プロになれないっていうのが現実っていうことかな?」

少年は応える代わりに頭を働かせる。自分が思っているのはそういうことなんだろうか。少年の何か言いたげな、もごもごと動く口をそっと塞ぐように、男の低く優しい声が、ぽつり、ぽつりと零れる。

「僕はね、色んなところで弾き語りをしたり、自分で作ったCDを売ったりしてるんだ。唄うのはそうだなあ、誰かの背中を押せるような応援歌が多いかな。うん、とびきり明るいやつ。結構本気で作詞なんかもしちゃってさ、夢は叶うとか、愛とか、そういうの?うん、そういうことも言う」

思っていたよりも、くしゃっと笑う男に少年は安心感を覚えた。一方でそれが、さっきまでの話とどうつながるのかは分からない。

良いですね。俺好きですよ、ギターと唄で人を動かすとかそういうの。ロックじゃないですか。

「でもこの前、ちょっと酔っ払ったサラリーマンの男の人に言われたよ。『夢なんてそんな簡単に叶うもんか。こんな夜にうるせえんだよ、もっと現実を見ろ』って。もちろん、酔った勢いもあったと思うし僕も丸ごと本気で受け止めたわけじゃない。でもやっぱりちょっとショックだったかな」

現実…

「うん、その人も現実って言ってた。でも僕、夢がキラキラしてきれいなもので、それと現実があたかも汚いものみたいに対比されるのが、どうしても分かんないんだ。きっと一人ひとりに夢も現実もある。例えば君が夢見ているプロ選手だけど、きっと日本を代表するスターみたいな選手って、本当に一握りの世界だと思う。それは他の人から見れば途方もない夢の景色かもしれないけれど、その選手にとっては紛れもない現実なわけでしょ。実際にそれは存在するものだから、君がそんな景色を見る可能性だってゼロじゃない」

そうかもしれないけど、やっぱり想像もできない世界です。

「うん、そうだね。そういう僕も何万人も集めて歓声を浴びるライブが出来る人が見る景色は想像もできない。でもじゃあ、そうならないからって、不幸なわけでもない。確かに路上で時々罵声を浴びながらも、何とか食いつないで行ける今の状況が僕の現実。それは間違いない」

男の優しい声が、心なしかさらに丸みを帯びたように感じる。それでも有無を言わせないオーラを放つ男に、少年は耳を傾けるのが精いっぱいだ。

「実家に帰れば、家族とは定職につけって話にしかならないから、もう最近は何年も帰ってないな。これもまた、僕の現実。でもときどき応援してますって言ってくれる人がいることも、無邪気に手を振る小さい子に癒される現実も僕にはあるんだ。こうして高いところから綺麗な景色を眺めている今も、君に偶然今日出会えたことも、みんな現実。現実ってすべてがすべて、悪いことばかりじゃないでしょ?だからね…」

いつの間にか男は、少年に対してというよりは、自分に言い聞かせるように話していた。少年はそれでも耳を傾ける。

「だからね、あの酔っ払ったおじさんにも、そういう綺麗な現実もあったらいいなって思うんだ。もしかしたら夢に挫折した経験があるのかな?でもその結果手に入れた小さくても明るい現実、あるはずなんだ。家に帰れば、家族が待ってたりするのかな。帰りを待っている子どもがいたりして。もしそうじゃなくてもきっと、金曜に買うって決めているいつもよりちょっと贅沢なつまみとか、楽しみにしているテレビ番組とかそういうの。あるはずなんだ。そういう現実が」

少年にはいつの間にか、展望台から見えていた薄暗の夜景が滲んで見えた。なんでこんな、初対面の男の話に心動かされているんだろう。我に帰れさえすれば笑えそうだ。

「僕らが生きていくことってすごく難しいんだけど、でも生きて今向き合っていること全部現実で、そして真実で、それは受け止めるしかない。その中でたくさん、夢も見たらいい。大丈夫、今日まで生きてきたってことはそれを支えてくれる現実が、ちゃんとあったってことだから」

少年はすべてを理解することは出来なかった。ただ、朝焼けが近づいて明るくなっていくのを感じて、涙を止めることを考えた。高校生とはいえ、初対面に涙を流すのは、みっともないと思った。

でも、綺麗な朝焼けに照らされた絶景を目の前に、泣いていたのは、流浪男の方だった。

いつの間にか2人を、優しい朝日が包みこんだ。

少年はその景色を見て、ふたたび涙がこみ上げてくるのを、今度は我慢しなかった。

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